国家と国民――重要法案成立の夏を問う

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 日の丸・君が代(国旗国歌) 法案、「盗聴」(通信傍受) 法案とたて続けに「国家」 の力を強めるような法律が制定された、と言われます。新聞や雑誌などでも、国家主義 の時代、あるいは、全体主義 の復活、といった論調が見られますし、あの暗い時代への逆戻り、といった陳腐なもの言いも例によって流布されています。少なくとも、知識人世間とそれをつなぐメディアの舞台に関する限り、そういう認識はそれなりに一般的になっているようです。

 けれども、ごく素朴に見る限り、この間新たに制定されたこれらの法律は、普通に暮らしている日とには、どれもまずはほとんど何の実害もないような中身のものばかりです。

 日の丸・君が代について言えば、とりあえずこれまで慣習として国旗・国歌として認められてきているものをようやく法律で後づけた、実際的な意味としてはそれ以上でもそれ以下でもありません。第一、だからといって具体的な代案の出ようも今さらないわけで、どうしてこれがそんなに大騒ぎになるのか、僕などにはよくわかりません。

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 警察による通信の傍受を認める法案、俗に言う「盗聴」 法案に至ってはなおのこと、 それこそ普通の人にとっては まず縁のないものとしか思えない。暴力団や反社会的な活動をしている団体の犯罪がらみで発動される、と明記されているのに対して、その拡大解釈を心配する向きがあるわけですが、僕などにはむしろ逆に、あれだけいろいろな縛りをかけたらかえって法律の趣旨をうまく生かせないのでは、と心配したりします。個人情報の流出に対する懸念にしても、クレジットカードを便利に使い、携帯電話を持ち歩き、パソコンで電子メールやインターネットを器用に利用して、いわゆるネットワーク社会の恩恵にたっぷりと浴しながら、そのような個人情報の拡散にだけ必要以上に拒否感を示す、その感覚自体が僕などには矛盾した甘えたものに思えます。情報開示を「権力」に対して要求するその同じ口が、「個人」の情報に対してだけは過敏に閉鎖しようとする。それらの「便利」は同じテクノロジーの上に成り立っているわけで、その中で「個人」だけが都合よく守られる道理もない。何より、社会が市場化するとは誰もがそういうリスクを平等に負い、まさに自己責任で回避してゆく、そんな社会になることではなかったんでしょうか。

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 「国民」というもの言いにも実感が伴わなくなってすでに久しいわけですが、若しも今のに本に国民意識というのがあるとしたら、そのある部分にはこのようなサービスの一方的な消費者としての「個人」意識、「市民」感覚というのがあるように思えます。公共のサービスを享受していることに対して何の義務もリスクも負うことを感じない、そんな負荷フリーの無重力状態のような「自由」こそが「市民」の自然状態だ、という妄想がひとり歩きしている。「国家」や「権力」と「市民」や「個人」を無媒介に対立するものと考える図式が成立していて、あらゆるできごとにその図式をあてはめて裁断してゆくずさんさが、知識人の世間を中心にメディアの舞台に蔓延しています。自立下「個人」の中にはちゃんと「国家」も「公」も内包される、それこそが本来の健全な市民感覚だったはずですが、どうも日本の今の知識人たちの夢想する「市民」というのは、サービスだけを横着に享受したがるわがままに水ぶくれした消費者意識の化け物でしかないようです。

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 今や「国家」だけが化け物、とは限らない。国家を超えた「リヴァイアサン」(巨大な怪物)はもはや他の組織、他のネットワークにだっていくらでも宿り得る。その意味で、確かに国家は相対的に縮小し、その価値を減じてきていると言えます。いや、今や国家と拮抗するほど異様に肥大化した自意識すら、うっかりと普通の暮らしをしている個人の内側にさえ宿りかねない。あのオウムの事件は そのことを如実に教えたじゃないですか。ともすれば能天気にだけ語られる情報化社会の現実とは、自身の内面をリヴァイアサンと化してしまう仕掛けが安価に、誰にでも提供されるような状態でもあります。そしてそれを「便利」 と呼び、「豊かさ」と名づけて一方的に称賛してきたのも、われわれの社会にとって 事実です。

 しかし、ひとりひとりが国家に匹敵する肥大した内面を持てたとしても、それを支えきることのできる生身を持っている人間などそうそういな い。健康な「個人」の安心立命のためにこそ、今よりも輪郭確かな手に合った「国家」 像をみんなで創り出す必要がある。そんな認識を持つことが今のような状況だからこそ、必要なのだと思います。

*1:北海道新聞』掲載原稿。確かこの頃、道新とはトラブったはず。この原稿掲載に際してのやりとりだったかどうかは定かではないけれども。……240228