田嶋陽子はバカである



 田嶋陽子はバカである。これはすでにニッポンの常識である。なのに、選挙で四十万票も獲得して今や国会議員。これもまた事実である。

 とある週刊誌に頼まれて書いた何でもないコラム原稿のこんな書き出しの部分にも、昨今、編集部からは慇懃無礼な電話がかかってくるのであります。*1

「すいませんが、この『バカ』という部分の表現、何とかなりませんかねえ」

 すいませんもヘチマもあるもんかい。バカはバカ。誰がどう抗弁しようとあたしゃありゃとびっきりのバカだと思うからバカと書いたまでのことで、それがどうしていけないんですかい、と、例によって電話口でキレそうになるおのれのココロを必死でおさえ、ひとまずうわべは大人のふりした交渉ごとに。

 ああ、ほんとにもう情けない、やりきれない、口惜しい。あの田嶋陽子のようなバカに対してはっきりバカと言う。そんな当たり前で誰はばかることのない簡単なはずのことでさえも、いまのこのニッポンのメディアの現場の空気の中では、ことさらに剣呑なことになってしまうようなのであります。

 バカと言うとこれは個人攻撃になりますから、なんだそうです。だ~か~ら、あたしゃまさにその個人攻撃をしたいんだっての。そうしたら今度は、攻撃するには何かもっと客観的な根拠がないと、ときた。ああ、そう。バカをバカと言うのに根拠がいるんですかい、あの誰が見てもバカとしか思えない田嶋陽子を改めてバカだといちいち証明する客観的な根拠ってやつが。

 あ、いや、ご趣旨はわかりますが、こういう表現だと何か問題が起こるかも知れませんし……と、テキはなおもしぶとい。何か問題が起こったらってあなた、問題のひとつも派手に起きて欲しいからこそあたしゃこんなこと書いてるんで、これでもしもバカ、ないしはバカの取り巻き同盟軍方面から何か文句つけてきたりしたら、そりゃあもう願ってもないこって。欣喜雀躍、舌なめずりしながらとことんお相手させてもらい、いい見世物にしてご覧にいれるつもりですがな、と返す。いずれそんなやりとりが校了直前まで電話とメイルで何往復も。消耗しましたが、編集部的にはほんとはその「バカ」という表現自体を変えさせたかったようなのを、粘りに粘って、「バカ」にカッコをつけてごまかす、という線で何とかおさめさせたのは、まあ、戦術的勝利のうちだったかと、自分で自分を納得させたような次第であります。


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 先日、十月二四日の国会で、社民党所属の衆議院議員として、そのわれらがバカ――田嶋陽子センセは初めて代表質問に立たれました。「参議院外交防衛・国土交通・内閣委員会の連合審査会」という場だったとか。人気議員が小泉首相と初対決、てな煽りでワイドショーその他で事前に宣伝されていたもので、こちとらも当日、仕事の片手間にテレビの中継で拝見しましたが、いやもう、何とも珍しいバカを拝ませていただいたものであります。不肖大月、匹夫ながら改めてカンドー仕りました。

 初陣だから緊張するのは当たり前、うわずったりトチったりというのもあったって別に構わない。けれども、公党を代表して質問する国会議員として自分が何を言いたいのか、どういう理念とそれに対する信条を持って国会という場に臨んでいるのか、それらがたとえ断片としてでも伝わってこないような錯乱ぶり。眼は宙を泳ぎ、挙動はサルのように落ち着きなく、それでいて大向こうの注目だけは集めたいというスケベ心だけは哀しいことにありありと見える。あげくの果て、いくらヤジと嘲笑の洗礼の真っ只中とは言え、閣僚席の塩川財務大臣に向かって「笑うなっ、塩爺っ」とまで叫ぶ始末。ああ、それは国会という場でさえも、かの『TVタックル』のスタジオと同じ見世物メディアの延長でしか演ずることのできない今様タレント議員(このもの言いもすでに廃れていますが)の、勘違いのなれの果ての醜態でありました。

 誤解を畏れず言っておけば、国会が『TVタックル』になることは、あたしゃある意味必要だとさえ思っています。政治もまた見世物であります。芸能であります。言葉によって人を動かし、政策的意志を実現させてゆくために駆使されるあらゆる手練手管には、どこかで必ずこの芸能的要素、見世物的要因が介在してくる。それは人間社会の必然だとさえ思います。いまどきの情報環境、メディアを取り巻く状況からすれば、たとえ政治でさえもそのような芸能化、見世物化から逃れられなくなっている。善悪はともかく、それが今のあたしたちニッポン社会の現在です。だとしたら、そんな状況からよりよい政治の形を模索することも、テレビ人気を背景に四十万票あまりも獲得、国会という場に乗り込んだ者のやるべき仕事かも知れないとさえ思います。

 けれども、田嶋センセにはそんな戦術的認識があるようにも見えず、ただただ自分ひとり舞い上がり、錯乱し、まるで中学校の生徒会のような醜態をさらしていただけ。ともあれ、「議員になってまだ二ヵ月ちょっとの田嶋です。まだ半分シャバに居まして、まだ政治家になり切っていません」と、いきなり「素人」であることを予防線にするタンカから始まったその田嶋センセの質問が、さて、具体的にどんなものだったのか。テレビや新聞のストレートニュースではほんの断片しかとりあげられませんでしたし、センセのホームグラウンドである『TVタックル』その他のニュースショー系の報道では、例によってあたりさわりのない部分だけを切り貼りし、コメンテーターの面々も「初めてにしては頑張ってましたね」程度のコメントでお茶を濁す始末でしたから、もう一度この場で要約しておきましょう。


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 まず、小泉首相に対する質問。これが全体の七割方を占めていました。

 「顔が見えない(日本)」と言う言葉は誰が、いつどこで言い出した言葉なのか。(湾岸戦争時に)一三〇億ドルも支援した時、日本は金だけ出して人を出さなかったので
「顔が見えない」と言われ国際的に評価されなかったが、それがトラウマになっているんじゃないかと言われている。それをどう感じているか。

 首相答弁……そんな感覚は全然ありません。日本が今、何をしなければいけないか、国際社会の中で日本がどう責任を果して行くべきかということで、この新法を提出したわけであります。(そりゃそう答えますよねえ)

 湾岸戦争時、「そうか、日本には平和憲法があるんだ。だからもう軍隊は外に出せないんだ」ということを世界はみんな知った。だから、今回はブッシュ大統領も、「ああ、日本は憲法があったんだな」と言ったし、パウエル国務長官も(兵力を)出さなくたっていいと言った。日本に期待する有難い貢献は戦後のアフガン復興への支援だ、とまで言っている。なのになぜ、みんなの反対を押し切り、自衛隊法まで変えるテロ対策法案まで作って海外派遣にこだわるのか。

首相答弁……社民党は反対しているかも知れませんが、国民多数は支持しているものと思いますよ。(うんうん、新聞の世論調査でもそんなもんですし)

 首相は国際性とか国際協力とよく言うが、その「国際」と言う時、どの国をイメージしているのか。実は欧米しか頭になく、アジア諸国や経済的弱者である国々に対する差別意識があるのではないか。

首相答弁……世界のいろんな国の声に耳を傾け、独善に陥らないように国際社会と協力していくことが日本の平和と繁栄の道だと言う意味で「国際協力」という言葉を使います。(何も間違ったことは言ってません……よねえ)

 一時が万事、こんな調子であります。以下、ご自分の意見なのか社民党の主張なのか、①アメリカ追随外交をやめろ、独立国として対等の外交を展開して欲しい、②アメリカ追随でアフガンの戦後処理まで考えようとするのは傲慢で、大国主義である、といった紋切り型のご託宣が随所にちらばめられ、質疑応答にもならない始末。

 中谷防衛庁長官に対する質問もありました。資料(新聞記事)を示しながら、厳戒態勢を敷く米軍基地周辺で「銃口をつきつけられた市民の不安」が高まっている、と言い、それら米軍基地警備のため、沖縄に九州管区の機動隊が派遣されたことについて、①これは米軍の要請か、②法改正後はこれ(警備)を自衛隊がするのか、③外国の例ではどうか、と質問。これには国家公安委員長も答弁に立ちました。

 そして、田中外務大臣には、①イスラム諸国外相会議は、テロ攻撃を非難して米英の攻撃に対する住民への懸念を表明する共同声明を採択したが、日本はアフガンと国境を接する六カ国とどういう話をしたのか、外相が電話で話をしたと言うその他の国々も含めてその具体的内容を知りたい、②もし今回法案が成立し、米軍の後方支援を日本がする事になったとしたら、そんな戦争協力をした日本が戦後の復興に手を貸しても、アフガンに受けられられると思うか、の二点を質問。これに対して外相は、今起こっている事についての非難・批判はなく、それぞれの国の立場でテロリズムに反対していることでは共通している、と答弁。そりゃそうでしょうな。

 その他、イラン大使館で大使と会見してきた、と自前の情報収集を自慢したり、イギリスは軍事攻撃参加と共に外交努力もしているので見習うべきだ、と言ったりもしていましたが、このへんはどうでもいい。なにしろ基本的に錯乱状態ですから整理もしにくいのですが、まあ、おおむねこんなところです。

 これら個々の質問に対しては小泉首相以下、各担当閣僚はていねいに答えようとしていました。ただ、ご本人のあまりの錯乱ぶりにヤジが激しく飛び交い、不規則発言も頻発、委員長(民主党北沢俊美国土交通委員長だそうです)が「ルーキーに対してはいろいろ感情もありましょうが、やさしく試練の場を与えるのも諸君のジェントルマンシップだと思いますので、よろしくお願いします」と議場をたしなめるひと幕もありました。泣けました。


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 で、この日の田嶋センセのご発言から、とりわけ濃いところを具体的にいくつか。

 「小泉さんは、自衛隊員が多少は死んでも仕方がない、と言った」と決めつけながら、「だったらアメリカの今やっている事は国家テロと同じだと思うんです。もし国家テロでないのだったら、誤爆で死んだ(アフガンの一般市民の)人たち一人一人に補償するべきだと思います」と言い放ったあたり。さすがに首相も「自衛官が死んでも仕方がないなどと言ったことは全くない」とはっきり否定、「そういう嘘は言わないでください、ね」(この最後の「ね」の前の間が絶妙でした)と苦笑気味にたしなめる始末。

 「近頃、風俗に行って、自分は(戦争に)行くのはいやだ、って泣く自衛隊員が増えているそうです」と、スポーツ紙の記事を引用して発言。「自衛隊員は自衛隊員になるにあたって、今回のアフガンのような戦争の後方支援に行くなんて思ってなかったのだから、これは私に言わせれば契約違反なんですよ」とのたまう。「たとえ『顔が見えない』と言われても、平和憲法を持っている此の国は世界に一つしか無い。武力が強くなくてもいい、優しくて豊かで文化の豊かな国だという評判を得る事が、日本の将来にとってはとても大事だと思います。ですから、顔が見えなくて大いに結構、と、湾岸戦争の時も愚直にそのまま引き下がっていれば良かったと思います」だそうです。

 そしてさらに、「さっき首相は私の事を、社民党はって言いましたが、私は社民党の議員ではありますけど、その前に田嶋陽子です。何かと言うと 社民党社民党は、という批判がありますが、そう言う言い方はよして頂きたいと思いますっ」と、代表質問であることも忘れて逆ギレ。これには後日、『TVタックル』でハマコーこと浜田幸一元議員も「あなたね、何十万票もの支持をもらって選挙で当選して国会に立っている、ということを忘れちゃいけない」とたしなめてました。正しいぞ、ハマコー

 一番の見せ場は、最後に「ビンラディンをとらえようとするな」と説教を始めたくだりだったでしょう。軍事攻撃をするだけで平和はやってこない。それよりも、「代表を募って、ビンラディンがあんなひどいことまでした、その意図を受け取って、どういう条件を叶えたらやめるのかテロをやめるのか、それをきちんと話し合っていくのが必要だと思います」ですと。暴力よりも話し合いを、ってことらしいですが、これってそこらの小学生でも言えるような紋切り型ですよねえ。万一、海外に翻訳されて報道されたら果たしてどういう反応が返ってくるのか。ニッポンの国会議員というのはバカばかりと思われるのでは、と柄にもなく心配してしまいました。


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 さて、このようなすさまじいまでのバカを、こともあろうに国会という場でありがたくも眼の前にして、あたしたちは一体何をどう学んだらいいのでありましょうか。バカそのものはまず田嶋陽子センセ個人の責任であるということ、これはもちろんであります。この点についてはまず、ご本尊にぜひとも鋭く反省していただきたい。「自己採点では四五点」なんだそうですが、あなたそりゃ甘すぎます。こんな見世物にもなっていない水準では、おまえのバカに期待して入れた一票返せ~、と、観客席にひしめくいまどきの有権者からヤジられても仕方ないってもんです。

 ただ、そんな個人的事情以上に、この種のバカはメディアが色濃く介在せざるを得ないいまどきの情報環境における政治の、ある構造的弱点を現してもいる、と。言い換えれば、観客民主主義状況における「民意の反映」というのが、時にこういうスカな物件も必然的に生み出してしまう、そのことについてもう真面目に腹をくくることがあたしたちには必要なのではないか、ということです。

 田嶋センセに枡添要一と、準レギュラー出演者からふたりも国会議員を生み出すことになった番組『TVタックル』には、かくいうあたしもかつて、数回顔を出したことがあります。

 「田嶋陽子を何とかして欲しいんですけど」というのが、出演依頼時の担当ディレクターのもの言いでした。当時すでに、準レギュラー化していた田嶋センセに対して、敢えて正面から喧嘩を売りに行くような敵役を探していたらしく、そういう類の粗雑さならば人後に落ちないこのあたしにもお声がかかったようでした。

 出てみてわかったことは、スタジオにはオバサンで構成された観客数十人いて、彼女らが随所にはさむ笑い声や歓声が合いの手のように場の雰囲気を決定する、そして田嶋センセは彼女らギャラリーのオバサンたちのそういう気分を追い風にしてあの傍若無人なキャラを成り立たせている、という現場のからくりでした。

 そこでは、ビートたけしを中心にしたオトコたちは暗黙の了解で「オヤジ」ぶりを割り振られます。それに対して田嶋センセが一刀両断に切り捨ててゆく、と。それはただオンナであることに居直ってるだけで、フェミニズムでも何でもない。「偉そうなことを言っているけれども言いこめられる情けないオヤジ」vs.「普段は言わないでいる本音をズバズバ言うおカミさん」という、かの夫婦漫才の定型そのままであります。テレビという見世物稼業としてはそれはそれ、批判されるべきことでもない。問題なのは、当のその田嶋センセがご自分をそういう夫婦漫才のツッコミ役であることの意味をまるで自覚できず、それどころかフェミニズムの十字軍、全女性の本音を一身に代表してオヤジ陣営に斬り込むジャンヌダルクであるかの如く勘違いし続け、なんとなればそのまま国会にまでなだれこんでしまった、そこがイタいところであります。

 そういうイタさを培養していったのは、他でもない、テレビや新聞、雑誌も含めたそれらいまどきのメディアの現場です。

 田嶋陽子のような物件を好んで登場させるメディアのスタッフに、仕事上は別にして、個人としてあれをほんとにバカだと思わないのか、ということを問い詰めると、最後にはたいてい、確かにまあ、バカだとは思いますよ、と苦笑いしつつ答えるに至ります。いや、そんなことはないですよ、あれはあれで実に立派な方で、と正面から反駁してくれるような御仁には、残念ながら未だ会ったことはない。

 じゃあ、どうしてそんなバカをよく使うんだ、田嶋だけじゃない、おっかないことに先日とうとう社民党幹事長にまつりあげられた福島瑞穂にしろ、今や社民党の政審会長にまでなっている辻元清美にしろ、いくら肩書きがあるとは言え、安易にメディアに顔出しさせすぎじゃないのよ。

 すると、おおむねこんな答えが返ってきます。

 曰く、「テレビによく顔の出る人ってことで、視聴者もまず安心してくれるところがあるんですよ」。
 曰く、「いろんな意見の人を出さなくちゃいけませんから」。
 曰く、「ああいう人たちって使いやすいんですよねえ、スポンサーの通りもいいし」。

 なるほど、そういうことなのでありますな。メディアの舞台の空気としての市民バカ、リベラルボケぶりと、それを支えるカネの流れこそが「衆愚」の根源、と。視聴者から抗議が殺到したりすればそこは人気商売のこと、露出の度合いを考えるのでしょうが、バカも度を越せば見世物としては許容されるのか、そこまでの執拗な抗議もないらしい。「あれはああいうモノだから」という苦笑まじりの消極的黙認、無言の承認が、現場の考えなしを後押しするという構造です。そのようにしか政治的関心を示すことをしない観客民主主義状況の、その弱点がモロに出る局面です。

 「いろんな意見をバランス良く示すのがメディアの役割です」というもの言いもよく耳にします。これは一見、フェアなように聞こえますが、しかし、「われわれは場を提供するだけだ」というメディアの無責任をそのまま肯定することにつながります。この種のもの言いとセットになるのが、「選ぶのは視聴者ですから」というやつです。われわれは選ぶための材料を提供するのが仕事だ、材料はなるべくいろいろなものが広くある方がいいのだ、というわけで、事態はどんどん総花的、焦点のぼやけたものになってゆく。あらゆる材料が「平等」に「公平」に並べられた状態が理想、という強迫妄想は、おのれの「立場」をはっきりさせない、できない空気をメディアの現場に濃厚に作り出しています。いまどきのニッポンの民主主義の正体とは、ある種こういうメディアの空気にこそ宿っている。

 たとえば、小泉内閣の出現をポピュリズムと言い、「衆愚」と断じて苦々しく語る向きがあります。気持ちはわかりますが、しかしその「衆愚」からしか次の可能性を見出すことのできない以上、ただ「衆愚」よ、ポピュリズムよ、とだけ断罪することは、すでに蔓延している思想や言論に対する無力感をさらに加速させる結果につながる。ならばその「衆愚」でない政治を実現するための足場が果たしてどこに、どのような形で〈いま・ここ〉の状況から設定できるのか、そのためにこそ、役立たずと思われている思想や言論の言葉は力を示す必要があるのではないか。

 国会はもっと品位を、なんてことをしたり顔に言うつもりはありません。むしろ逆、品位なんざ糞食らえ、切った貼ったの身体を張った言葉のやりとりがもっともっとあるべきだとあたしゃ思っています。もともと国会が「サル芝居」なんてことは明治の開設このかた言われてるわけで、そうそう「実のある議論」ができよう場所などとも思ってない。特に近代における日本語の話し言葉の伝統の中に、そういう上演的な議論、討論の技術がうまく宿ってこなかったこともあって、まるで官僚の作文をそのままなぞるような味気ないもの言いのやりとりが国会の通例。ただ、小泉内閣になって以来、これは首相のキャラクターのなせる部分が大きいのでしょう、そんな答弁の無味乾燥が多少なりともナマなもの言いになりつつあるのは基本的にいいことではあります。それまで見向きもされなかった国会中継に注目する人が実は最近ひそかに増えているのも、単に見世物として、「ネタ」として無責任に「政治」を消費するだけでなく、議場での言葉や身振りが多少なりとも風通しのいいものになりつつあるらしい気配を何となく察知している面もあるからだろうと、あたしゃ感じています。

 けれども、バカは必ずまぎれこむ。それはかなりの程度、今のニッポンのような高度で濃密なものになったメディア環境で代議制民主主義を支えてゆく上での保険料、システム維持のための必要コストなのかも知れない、とはあたしでさえもどこかで思っています。思っていますが、しかし、だからといって芸にもならない質の悪いバカを野放しにしたまま、なけなしの場の荒れるのをほったらかしにしておくことは、この観客民主主義状況下での「良き観客」の倫理にもとる、と。

 バカにも質があります。膠着した状況を切り開き、そのままでは見えなかったような可能性を一気に眼の前に広げて見せてくれるのも、正しいバカの真骨頂。そういう「愛嬌がある」「憎めない」バカならば、人は声援も送るし支えもする。時にはそのバカに駆り立てられて、あらぬ世直しに邁進することだってある、ってなもんです。田嶋陽子センセ、どうせならばいっそそういう正しいバカ、世の役に立つバカを今からひとつ志してみる気はありませんかね。今のままじゃあなた、ほんとにただのサル以下、野垂れ死にしかありませんて。未だにオンナの味方のつもりのようですが、もしもあたしがオンナなら、あなたのようなのこそ「オンナの敵」と真正面から罵ってやりたいと思うんですが、さて、いかがなもんでありましょうか。