【書評】北条かや『キャバ嬢の社会学』 (星海社新書)

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キャバ嬢の社会学 (星海社新書)

キャバ嬢の社会学 (星海社新書)

 「新書」というパッケージが書店の書棚の多くを占めるようになったのは、ここ10年くらいのことでしょうか。それまでの「文庫」と同等、いや、どうかするとそれ以上に大きな面積を占有していたりする。版元もそれまでの新書の老舗だけでなく新規参入おびただしく、中身についてもまた、かつての新書のイメージからすると場違いと感じてしまうような領域にまで広がっています。

 本書もそんないまどきの新書パッケージならでは、の一冊。話題にもなり、それなりに売れもしているのでしょう。版元もまた、ラノベなどを糸口に若い世代の書き手を使ってweb展開をしてきた講談社のいわば別働隊。新書についても旧来の新書らしからぬテーマや切り口のものに意欲的に挑戦してきている会社。良くも悪くもいまどきのそういう「新書」のあるひとつの典型、と言えるかも知れません。

 と、社交辞令はここまで。なんなんだ、これは。オビからして「23歳の現役京大院生が、自らキャバクラ嬢!となって潜入調査!俊英が放つ、新たな“武器としての教養”誕生!!!」と煽りまくってますが、書き手よりも先にこの担当編集者から版元ご一同そこに並べて、おまえらほんとにこの煽りとこの中身に身体張って責任持つ覚悟あるんだな、オラ、と胸ぐらつかんでどやしつけたいものであります。それくらい中身が「ない」。薄いとかそんなハナシじゃなく、正しく「ない」のであります。

 どう「ない」のか。ひとことで言って、まず文脈がない。文脈を構築して何か一貫した主張の類を読み手に伝えようという書き手としての意志が見えない。場当たりの印象、感想の類を断片のまま、気ままに放り出してるだけ。要は、小学生の夏休みの日記であります。いまどきの新書だからこの程度でいい、と編集者や版元が考えた、その可能性はある。なにせ京都大学の大学院に提出する修士論文を書くための参与観察として潜入されたそうですから、元の取材メモ、フィールドノートはもっと緻密で濃密でインテンシヴな記述がみっちり詰まっている、のかも知れない。その程度の留保は一応してみる努力と共に、読み進んではみました。けれども、結論は変わりません。中身なし。活字の文脈と共に構築される「本」としての中身は、ものの見事に見あたりません。

 書き手本人はおそらく大真面目、一生懸命ですらあるのでしょう。その気配くらいは伝わってくる。けれども、ああ、いかんともしがたいのはその書き手としての主体の希薄さ、のっぴきならない現場に足踏み込んだはずなのにそういう葛藤や緊張感、生身の主体としての内面と書かれた文字ヅラとの「関係」がきれいさっぱり見えないまんま、少なくともそういう書き手そういう主体、らしいのであります。だからこの書き手を批判する気にはちょっとなれない。もしかしたら人道的モンダイかも、とさえ思ってしまう。もの書かせて本なんかにさせて世間に出しちゃいけない物件です、あたし個人の感覚としては。

 タイトルとパッケージに煽りかませば商品としてそれなりに成立する、それも商売の現実、致し方のない身すぎ世すぎでしょう。ただ、商売ならばなおのこと、こんな物件でも立派に「本」にしてみせるだけのプロの商売をしていただきたい。カタワでも知恵遅れでも、見世物にして人前にさらすのならそれなりの「芸」を仕込み、体裁を整えてみせる、それがクロウトの仕事ってものだったはずです、活字の渡世、出版という稼業の間尺においてさえも、少なくとも少し前までは。

 同工異曲の物件、昨今のこういう新書パッケージにゃどうやら汗牛充棟、むしろそちらが標準設定のようでもあります。このへん含めて、「書評」という枠組みでどこまで渡り合ってゆけるものか、こちらも腹くくって考え直してみる必要があるご時世のようであります。 
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*1:どこの媒体からの依頼だったか忘れてしもとる。週刊誌だったような記憶はある。ってことはこの時期だから『アサヒ芸能』か『週刊ポスト』あたりか。

*2:2019年1月の新ブログ形式移管前の住所での末尾コメント欄の阿鼻叫喚ぶりも併せてどうぞ。 http://d.hatena.ne.jp/king-biscuit/20141017/p1