象徴天皇制の栄光


 天皇とか皇室とかってやつは、そのことを考えようとするだけでも、正直かったるいところがあります。

 それは何も「天皇制ハンタイ」とか、「戦争責任」がどうたらとか、いずれそういうしちめんどくさい大文字のあれこれがこちとらの意志や思惑などとは別に、ほとんど自動的に引きずり出されてしまうがゆえのかったるさ、ということだけでもありませぬ。

 そういう類のかったるさならば、いまどきこのニッポンについて、ちょっとでもマジメに考えようとすれば即座にからまりついてくる。この忙しいのにいまどきニッポンのことをニッポンに住みながら、わざわざニッポン語で考えようなんてこと自体、そういうかったるさとがっぷり四つに組むことに他ならない。そりゃわかってます。

 天皇だの皇室だのを考える時のかったるさ、ってのは、それよりもっと手前のところ、どうしたってそんなのつまりはただの他人じゃん、ってところに根ざしてる。つまり、いくら考えようとも、結局は見知らぬよそのシト、どんなに言葉を費やし、どう観念をいじくったところであの一家と〈いま・ここ〉のこの自分とが、何か因縁だの関わりだのがあろうはずがない、というこのトホホな感じ――これなんですよねえ。

 たとえば今回、例の雅子サマがご出産、ってやつもそう。テレビなんぞは定時放送をいきなりぶったぎってまでの特別番組の大安売り、軒並み「めでたい」モード全開でありました。まあ、いまどきのメディアのこういう手癖は別に今始まったこっちゃなし、それはそれ、なんでありますが、しかし、あたしゃつくづく不思議だったのは、はて、今回のこのご出産、いったいどこの誰がそこまで本気で、自分ごととして正味めでたいと思ってるんだろうか、ってことであります。それが証拠にあなたのとこ、今回のあのご出産で何かそんなにまわりが盛り上がってましたかあ?

 こう言うと、皇居のまわりとか、雅子サマの実家の小和田邸とか、そういう場所にすでにお祝いの人々がかけつけています、って報道されていたじゃないの、と反論されるかも知れない。でも、あれってどう見ても一番多かったのはテレビクルーその他の報道関係者。彼らがああやってたむろしているからこそそれは今や一番重要なできごと、注目されるべきイベントになっているわけで、あんたらがそうやって殺到しなけりゃそこらの人出なんてさらに半分くらいに減ってらあ、てなもんです。仰々しいテレビクルーに脚立抱えたカメラマン、小旗おっ立てた黒塗りのハイヤーにさも当然のように乗ってくる高偏差値ヅラのアンちゃん記者に、明らかにフツーでないたたずまいのキレイキレイなレポーターのおねえちゃんたち……事件の現場、世間的に重要とされるできごとの生産点というのは、今やそんな報道関係者がいてこそ、初めてちゃんと重要なものに仕立てられる、と。だからこそ、あのアナウンサーとかキャスターとかそういう類のシトたちは、あそこまでしれっとテキトーなことをさもにこやかに言えるんだろう、と。

 それは、「街の声」とひとくくりで紹介される、オバちゃんたちなどのコメントも同じです。「まるで自分ちのことのようにうれしいです」とか「あたしもあやかってもう一人欲しいです」とか、いやもう、てめえらほんっとに腹からそんなこと思ってんのかぁ、と胸ぐらつかんでこづきまわしたい紋切り型ばかり。でもそれは、メディアも含めたできごとを作り出してゆく仕掛けそのものが、そういうお約束でしか動けなくなっているからなんだと思いますね。

 

 そう言えば今回のご出産報道、レポーターは軒並み女性記者かアナウンサー、コメントを求められているのも徹底的にオバハン系の女性でした。もちろん編集してるんでしょうが、でも、これだけオバハン系のコメントってやつがメディアの雰囲気を根本から規定したできごとってのも、そうそうなかったように思います。

 皇室ってのはもはやそこまでオバハンアイテム、それこそサッチーだのデビ夫人だのと全く同じ土俵で消費される物件になっちまってる、と。そしてそのことを、もう誰もが無意識のうちにはっきり知っている、と。「天皇」とは昭和天皇の固有名詞であり、「皇室」もまたそんな「昭和」と共にきっちりひとつ終焉したんだ、と。そしてそのことをみんなもう知っている。今の天皇はこの間までの天皇とは天皇が違う、皇室だってこないだまでとは別物になってる、と。

 産まれたのがオンナだったから、ってこっちゃない。たとえオトコであっても事態は全く同じだったはずです。皇室典範に女帝の規定を組み込むのはおそらくもう規定の路線なんでしょうけど、それとは別に、今回の出産って要するに「お世継ぎ」、つまり次の次の天皇になるかも知れない子どもが生まれる、ってことのはずですよね。なのにこのどうでもよさというか、オバハン系コメントに一部始終仕切られて「めでたい」ことにされるその具合。それこそが、戦後憲法下でのわれらが象徴天皇制の栄光である、と、臆せずはっきり言うべきなのだと思います。天皇制だの戦争責任だの、お気楽な大文字の能書き飛び交わせるのは、まずそれをやってからのことだと、あたしゃ思います。