競馬場を「潰す」ということ――「うまやもん」solidarity

 

「いやあ、やっと話の通じる人が来たわあ」

  そう言われました。型通りの挨拶と名刺交換、初対面のぎこちなさをほぐすように世間話をしてゆくうちに、陽に灼けたいかつい顔がほぐれてゆく。馬が好きで、競馬が好きで、ほんとにそれだけで長年仕事をしてきた顔です。「うまやもん」――古い人たちの中にはそう自分たちを呼ぶ人もいる。その響きに見合ったいい顔が、あたりまえにそこにありました。

 「廃止」の話を耳にして、とるものもとりあえず出かけた大分県中津競馬場。厩舎団地の中にある集会所を団結小屋にして頑張っていた厩舎の人たち。今から二年前、2001年の春でした。

 「廃止」騒動以来、地元の新聞やテレビ、タウン誌までが取材に来てくれてはいても、競馬の仕事がどんなものかを説明するのがまず大仕事。いまどきのこと、たとえ女性記者でも馬券くらいは買った経験があるにせよ、普通は中央競馬の重賞くらい。地元で平日の昼間行なわれている小さな競馬を観に来たことのある人は少ないし、ましてそれを仕事にしている厩舎の暮らしがどんなものか、具体的に見知っている人となるとそうはいません。それは何もマスコミ関係者に限ったことでなく、当の競馬を主催している主催者側の職員でさえも案外そうだったりする。「公正確保」のため、と厩舎のまわりに塀をめぐらし、日々の出入りも警備員の厳しい監視つきにしてきたことが、一方で競馬場の暮らしを世間から見えないものにしてきたわけで、そのツケはこんなところで回ってきていました。

 「競馬で生活するというのがどういうことか、説明してわかってもらうだけでほんと一週間かかるんよねえ。それにあんまりおおっぴらに言えんことだって正直、あるしねえ」

 そう、ただでさえよく見えない競馬の社会のこと、日々の仕事の範囲で当たり前のことも、世間に聞こえると「八百長だろう」「何か悪いことをしてるんじゃないか」ととられがち。そのあたりの機微までうまくわかってもらうには、ありきたりのやりとりでは間に合わない。そんな手さぐりをしているうちに、事態はどんどん進んでゆきました。

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 競馬場がつぶれるなんてことはないと思っていた――地方競馬に携わる人たちの誰もがそう言います。

 実際、この時の中津の人たちも、自分たちより先に他の競馬場、すでに存廃論議が出ていた高知や益田の方が危ないと思っていたそうです。三月三一日、明日から新年度の競馬が始まるという前日、競馬新聞まで刷り上がって、みんな明日はどう勝負しようかとあれこれ考えていた矢先、いきなり市長から「廃止」が言い渡された。寝耳に水、とはこのことです。以後、一年の間、競馬再開と補償の獲得をめぐっての苦しい闘争が続けられました。

 この一昨年の中津に始まる地方競馬のドミノ倒しが始まる以前、実際につぶれた競馬場というのは、八八年、当時二五億円の赤字を抱えて廃止した和歌山県紀三井寺競馬場が最後でした。以後、赤字経営に転落する競馬場が続出、危ない危ないと言われながらも、それでも一三年の間、日本のどこにもつぶれた競馬場はなかった。それは、自治体による公営競技であることがある種歯止めになってきたところが大きいわけです。いわゆる「お役所仕事」という防波堤。

 「つぶすにつぶせなかった、というのが本音です。仮につぶすにしても補償をどうする、その財源は、といった具体的なことを考えるととてもじゃないけど決断できない。それにこう言っちゃ悪いですけど、われわれ主催者は二年か三年で配置替えになるのが普通ですから、在職中はお役大事、売り上げが減るのを最小限におさえればそれでいい、いらんことはしなくてもいい、という頭がありましたからねえ」(あるつぶれた地方競馬場の元主催者)

 主催者だけじゃない。厩舎の方も、なんだかんだ言っても親方日の丸、いい時は年間何十億という単位で市や県に上納していたんだし、そんなに簡単につぶしたりできないだろう――そうやってみんな多寡をくくっていたところはありました。

 競馬を開催さえすれば黙っていても売り上げが伸びていた頃はそれでもよかった。けれども、いったん経営状態が悪化した時に、人気商売、客商売ならばあたりまえの経営努力さえもままならない。手をこまねいている間に、事態はどんどん悪化してゆきました。

 どこの競馬場でも、主催者側と厩舎の人たちとのかかわりは、ふだんはあまりないと言っていい。また、厩舎の側も、開催ごとの売り上げくらいは気になっても、競馬場自体の経営についてなどはまず考えの外。たとえ今は賞金が下がってもまた景気がよくなればいい時もあるわ、競馬さえあれば何とか生きてゆける、という呑気さが、よくも悪くも厩舎で働く人たち――「うまやもん」のスタンダードでした。


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 「それじゃあもういかん、ということを、僕はずっと言うとるのよ」

  高知県高知競馬場。ひと仕事終わった厩舎の前で熱っぽく語るのは、雑賀正光調教師。

  「もっと現場から外に向かって声をあげていかんことには、あっという間に競馬なんてなくなってしまう。昔みたいに黙って主催者に言うことだけ聞いておったんでは、ほんまにえらいことになるよ」

  実はこの雑賀師、かつて廃止になった紀三井寺競馬場から、仕事を求めてここ高知に移籍してきたひとりです。そして、三年前に中津よりひと足先に「廃止」の噂が出た時に単身、全国の競馬場を回って署名を集め、地元の議会その他に働きかけては、何とか競馬の開催を続けるようにもっていった立役者でもあります。

 紀三井寺の廃止の時にどういうことが起こったか、僕はこの眼で見てきとるから。地元の新聞に存廃の話が出始めたらもう危ないんよ。先手先手で手を打たんことには一気につぶされるんやから」

 そう言って雑賀さんは手弁当でたったひとり、日本中の仲間たちに支援を訴えてまわりました。地方競馬の場合、厩舎の経営者である調教師は調教師会、厩務員は厩務員会や共済会といった形の組織になっている場合が多いのですが、被雇用者である厩務員でさえもきちんとした組合になっているところは少なくて、まして調教師になるとやはり勝負の世界、また一段と互いの利害がからむわけで、なかなか協力体制がとりにくいという事情が今でもあります。そんな中、紀三井寺で親子三代、運送屋をやっていたという祖父の代から競馬の仕事をしてきた「うまやもん」の名前が役に立ったといいます。

 「和歌山にいた雑賀です、で、どこの競馬場行っても一応相手してくれるからね。そのへんはほんまにありがたいと思てる。また僕ら、旅に出てるもんは大事にせい、と言われて育ってきてるし、苦労するんはお互いさま。そのへんはどこの競馬場でも、気持ちよう協力してくれたと思て感謝してます」

 かつて地方競馬は決まった厩舎を持たず、馬と若い衆を引き連れて競馬の開かれる土地を点々と回る、そんな旅回りの生活が当たり前でした。地元の厩舎も競馬場の塀の中などでなく、自分の家の庭先や借りた農家などに馬を繋いで養う外厩と言われる形が普通でした。競馬場に決まった厩舎が作られ、そっちに定住するようになっても、そんなかつての旅暮らし、まるでお祭りを追いかけてあちこち回って暮らすテキ屋さんのような気分は、古い「うまやもん」の身体に深くしみついています。

 雑賀さんの努力と共に、地元の橋本大二郎県知事が競馬に理解があるということもあり、その後三年の間で何とか経営改善の努力をする、という形で、この時は競馬の存続が認められました。そしてそれから三年。この三月が、言わばその「執行猶予」が切れる時期でした。この間、中津や益田が本当に廃止になったことで危機感も出てきて、最近では厩舎のまわりでも協力してくれる人が出てくるようになり、雑賀さんがまいた種は確実に芽を出し始めているようでした。


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 雑賀さんと共に、高知競馬再生推進協議会を立ち上げた大塚獣医もそのひとり。調教師や騎手ばかりでない、競馬場で開業している獣医や、蹄鉄を管理する「テツ屋」と呼ばれる装蹄師なども、厩舎で働く人たちですから存廃問題は人ごとではない。

 「厩舎をとにかくひとつにかためて、外にアピールしてゆこうというわけです。任意団体なんですが、調騎会、厩務員会の代表から県議に市議、マスコミ関係者にも入ってもらいました。中津が危ないという話を聞いてから厩務員会も正式に組合にしましたしね。とにかく、自分たちの立場を説明するためにこういう場をつくらないといけないと思ったんですよ」(大塚獣医)

 とにかく馬が集まらない、馬主さんが減ってゆく――これはいまどきどこの競馬場でも共通の悩みですが、高知では全国に先駆けて去年の暮れから、馬のひと開催二走使いを始めました。つまり、一回の開催に一頭の馬を二回使ってもいい、という制度です。丈夫なアラブの番組から始めて、徐々にサラブレッドの下級条件へと広げてゆく計画。そうしないと出走馬が確保できない、魅力ある番組が組めない、という苦しい台所事情からですが、当然、馬や現場にしわ寄せは出てきています。

 「こないだもレース中に一日に三頭脱臼。能検(新馬が出走前に行なう能力検定試験)でも一頭こわれて廃用になりました。馬に疲労がたまってるんですよ。テツ屋さんに聞いても、テツ(蹄鉄)を打ち替える期間が四十日から四十五日になってる。普通は二十日から長くてもひと月でしょ。そういうテツをはいて競馬をやらざるを得ない状況になってるんですよ。そうなると今度は、テツが減るから運動させるな、になる。まあ、テツだけじゃなくて疲労度も関係してるし馬場の問題もあるんでしょうが、以前なら疲労回復の注射などもやっていたところが、今は厩舎にカネがないからやれない状況です。そういう風にあらゆるところに弊害が出てくるんですよ」(大塚獣医)

 今の新しい競馬場への移転、新築の費用も全額借金という形にしていたおかげで利息の支払いなども未だに続いていることが、去年暮れ、地元高知新聞の取材で明らかになりました。前の競馬場から移転する時、当時六十億円ばかりの留保金があったにも関わらず、それには一切手をつけずに借金して、その利息までも競馬場に押しつけている。これだけ売り上げが下がっているのに借金払ってローンの利息も払って、こんな馬鹿な話があるか、と厩舎関係者は怒り心頭です。

 「こないだも県の役人がやってきたから、赤字の競馬場から固定資産税をなぜとるんや、と聞いたら、とっちゃいけないと書いてないからとってる、とこう言うんですよ。競馬場からはどれだけむしってもかまわないという頭があるんやないですか」(ある厩務員)

 場間場外発売と呼ばれる他の競馬場の馬券を売ることも始めていて、こちらは確実に売り上げが上がっている。なのに、そっちは主催者が儲けを抱えこんでしまって賞金の方に還元されない。賞金が下がると馬主がいなくなる、進上金は減る。それでも、調教師は厩務員や騎手の給料を払わなければならないから、開催ごとに借金が増えてゆく道理で、しかも地元に家でも建ててた日にはおいそれと逃げ出しもできない。相手は馬という生き物のこと、日々の経費は黙っていても出てゆく。

 「正直、馬主ベットウ(厩務員が馬主になっている)も多いです。それに、ベットウ調教師も珍しくない。つまり、自分で乗って調教する人もいれば、自分で馬を持つ人もいる。そういうやっちゃいけないような方向にどんどん向いてきてるところはあるわねえ」(ある調教師)

 三月二一日、高知では年に一回のお祭りでもある黒船賞がありました。中央競馬の馬や騎手も交えた交流重賞で、G?格付けながら一着賞金はなんと三千万円。高知のふだんの賞金が重賞でも一着百万円、平場だと十一万円程度にまで下がってしまっている中ではまさにケタ違い。

「もし勝ったら、一年分の稼ぎになるき」

  地元の騎手たちはそうささやきあいます。騎手の取り分である進上金は賞金の五パーセント。わずか百五十万円の年収というのもあながち冗談ではない。なにせ固定給わずか七万円、それ以外は調教料と進上金で何とかしろ、という生活が、ここ高知の若い騎手では珍しくありません。その給料も払えなくなったから、と調教師に言い渡され、仕方なく他の競馬場に移籍する騎手まで出ています。使っている馬具も古いものばかりで、腹帯などはゴムの伸びたものも混じる。

 「これ見たってよ。命がけで乗る道具までもがこれじゃ、かわいそうでたまらんわ」

 雑賀師はそう言って嘆きます。中津の時も古い馬具を他の競馬場から送って支援する、ということがありました。調教中落鉄でもしたら、みんな先を争って拾いに行っていたとか。それでもやっぱり競馬がしたい、馬にさわって勝負をしていたい。

 この日は、ノボジャックノボトゥルーという地方の交流重賞ではおなじみの中央所属馬が参戦。騎手も武豊に蝦名正義と有名どころが揃って、主催者側も大いに期待していました。 

ほんとはアンカツが来てくれたらもっと盛り上がったんだけどねえ。それだけが残念だわ」

  アンカツ――今をときめく安藤勝巳騎手が騎乗予定だったハギノハイグレイドが故障で直前に回避。中央のジョッキーになったアンカツ初めて地方参戦のはずだったのがダメになったのは、確かに痛かった。でも、武豊を見たい、いつもテレビでしか見られない馬をナマで見たいというお客さんはこの日、たくさん詰めかけていました。

 レースは中央の二頭、ノボトゥルーノボジャックのワンツーフィニッシュ。スタートから他を引き離して二頭で逃げて、最後も三着以下を七馬身もつき放しての勝利。中央競馬でも年間の稼ぎ頭のひとり森調教師も、二頭合わせて4000万円あまりの荒稼ぎにご満悦。「まあ、今日は相手が弱かったからね」と、まるで調教代わりと言わんばかりの余裕でした。離された三着は兵庫は園田所属のタッチダウンパスで、地元馬は果敢に三番手を追走した人気者ナムラコクオーがスタンドを湧かせましたが、結果は力尽きて九着。雑賀師の弟、雑賀秀行師の管理するジョイフライトが五着入線するのがやっとでした。

 ちょうどこの開催、南関東は大井のリーディングジョッキー的場文男騎手も高知に乗りにきていました。黒船賞の翌日、招待レースが何鞍か組まれていたのですが、なんと一日三勝。それでも彼は、進上金のほとんどを「いろいろ大変だろうから」と地元の騎手会に寄付してゆきました。

 「ありがたいよねえ。こういうのは気持ちの問題なんやけど、いくら稼いでもこういう気持ちがあるのは、やっぱり同じ競馬で食ってる仲間としてうれしいよねえ」

 明日はまた朝が早いですから、と空港までタクシーを飛ばして去った彼を、雑賀師はずっと見送っていました。