「キャラ」ということ――小池一夫・編『キャラクター原論』

 キャラ立ち、というもの言いがあります。
 主としてマンガ業界から発したものだと思いますが、連載マンガなどで登場人物のありようがいきいきとしてきたのをさして「立ってきたねえ」とか、「とがってきた、とがってきた」なんて言ったりする(らしい)。

 この「キャラ」というもの言い、しかし考えてみたら結構奥行きのあるものだったりします。特に、いまどきのような濃密な情報環境で何か「自分」を表現しようとする時に、これまでのような「個人」だの「自我」だのといった漢字二文字系な熟語よりも、この「キャラ」の方がしっくりくる。

 少し前、「あたし、○○な人だから」といったもの言いで自分を先回りして規定する、そういうのが流行ったこともありました。でも、それってほとんどのバヤイ、その人が勝手に思い込んでる自分ってことでしかなくて、つまりはイタ〜い勘違い。「あいつ、キャラわかってないよな」などと言われるのが関の山でした。

 ごくおおざっぱに言って「キャラ」とは、「社会的に演じられる適切な自分」ってことになるわけですが、ただそれは「ほんとの自分」なんて代物を勝手に想定して侵しがたいものと考える、いまどきよくある「自分」原理主義の考え方なんかとは全く別ものなんですね、これは。

 「ほんとの自分」はもちろんある。あるんだけれども、でもそれは自分の考えるような形でまわりに向かって表現してそのままに受けいられるものでもないし、そんなことなくたって別にいい、と。そういういい意味でのあきらめが「キャラ」を理解するためには必要なわけであります。そのあきらめが余裕になり、冷静さになり、そういう前提を伴いつつ差し出された「キャラ」がいい意味で「立って」くる。「キャラ」を穏当に自覚できて、そこから「社会的に演じられるべき適切な自分」をコントロールしつつ表現する、というのが、こういう高度情報化社会における望ましい個人、つまりは「大人」のひとつのものさしになるんじゃないかとさえ、あたしは思いますね。

 とは言え、いきなり生身の現実で「キャラ」を論じても詮ないこと。ひとまず本来のマンガなり何なりといった創作のフィールドで考えてみるのが無難でしょう。

 小池一夫・編『キャラクター原論』というムック(でしょうな、こりゃ)シリーズが出ました。大御所マンガ原作者の編者が、マンガや映画その他の創作の現場でいかに「キャラ」を創り出してゆくか、について示したもの。もともと、自前で私塾的に立ち上げた小池一夫劇画村塾でマンガ家や原作者の養成をやっていた、そのノウハウを公開したような形になっているのですが、「キャラクターはこう創る!」「キャラクターはこう動かす!」に続いて今回、第三弾「キャラクターはこう活かす!」も出て、まとめて眺めてみるとこれは単にマンガその他の現場にとどまらない、なかなか興味深い中身になっています。

 池上僚一や高橋留美子など、ゆかりの描き手はもちろん、白井勝夫(伝説のマンガ誌編集長ですな)やら堀威夫(おお、ホリプロだ)、庵野秀明、に至るまで、テレビやアニメ、映画、ゲームなども広く含めたサブカル系創作分野の人たちが、インタビューや対談で参加。小池御本尊のコテコテな能書きをほどよく彩る形になっていて、ある種アッパー系ビジネス書のような雰囲気にもなっているのはご愛嬌でしょう。税金対策なのか、かなり豪華な造りになっているのも、梶原一騎亡き後、原作者らしい原作者の代表として君臨してきた御本尊の「キャラ」を考え合わせれば許容範囲。そこらのあやしい専門学校の妙なテキストなんかよりは、きっちりしたものになっています。キャラ立ち、なんてことはこれまでも言われてきたけど、こういう具合に包括的に、かつ実践的に考える、ってことはなかったわけで、マンガ論、表現論の脈絡でもひとつの叩き台になっていいと思うし、大風呂敷広げるならば、日本人の自意識と社会的表現の変遷、といったテーマからの再解釈だって可能なテキストだと、あたしゃ思いますね。

 ちなみに、キャラ「立ち」、ではなくて「起ち」と表記されてますね。う〜ん、アプリケーションの「起動」みたいな印象で、さらにダイナミックだなあ。
 あ、それと、小池御本尊がもともと山手樹一郎(時代小説の大御所ですね)門下の作家志望だったってことも今回初めて知って、感慨深かったです。かの梶原一騎佐藤紅緑に熱烈にあごがれていたし、いわゆる大衆文学というか、そういう幅広い「読み物」の滋養をマンガ/劇画系の表現も当然、たっぷりと吸い込んできているわけで、そのあたりも含めて今後、幅広い考察が必要になってくると思います。新しい脈絡での文学(広義の、ね)論の組み換えの可能性も含めて、パラダイム変換の過渡期ってことを改めて感じさせられましたねえ。