ギターがくれた「自由」


 ギターが、「自由」だった。

 「エレキ」と称された電気ギターではない。「フォークギター」とひとくくりにされたアコースティックの、そしておそらくはスチール弦のギター。60年代ならばPPMジョーン・バエズウディ・ガスリーボブ・ディランの画像と共に、アメリカのダイナーで、文句あるか、と出されるステーキ肉のように大ぶりなマーチンのギターがあったのだろうけれど、でも、それはまだごく一部、しちめんどくさい理屈と共に外国の音楽を聴くような人々のものだった。

 ヤマハのFG、はそうじゃない。ちょっと思い切りさえつけば誰も画手にとれる、いらぬ能書き抜きで爪弾くことの許される、そんなギター本来の「自由」を体現していた。

 そう、ヤマハのFG、その名前を聞いて、ああ、と嘆息するのは、まず40代から50代。普及版「フォークギター」の大定番シリーズ、クルマで言えばT型フォード、パソコンならばそうだな、NECのPC98シリーズみたいなもんだ。

 ギターでもちょっと弾いてみたいな、と思ったぐらいの当時の若い衆ならば、一度は手にとったことのあるはずのモデル。なにせ値段が安い割りに仕上げがよくて、しかも「ヤマハ」というブランドまでくっついてくるのだから、そりゃ売れたわけだ。

 とは言え、このヤマハ、ただの楽器メーカーではない。

 「音楽」を「楽器」とコミで普及させてゆくことを企業戦略としてはっきり打ち出して、そして事実、高度経済成長の「豊かさ」の中で、われらニッポン人の音楽含めた音感のありようを根こそぎ変えていった、そんな社会的・文化的イノベーションの発信源のひとつが、このヤマハだった。

 以後、戦後のヤマハを創り出したワンマン社長、川上源一と、ヤマハ音楽教室(当初はヤマハオルガン教室)のことを調べていて、昭和30年代のその教室数の急激な伸びと展開ぶりに、呆然としたことがある。オルガンからピアノ、後にはエレクトーンという電気仕掛けの飛び道具も繰り出してくるのだが、いずれタイプライター文化をくぐってこなかったニッポン人にとっては敷居の思い切り高かったはずの鍵盤楽器(まさに「キーボード」だ)に対して、モノとしては中堅家庭の「豊かさ」イメージを刷り込む一方、ソフトとしては「情操教育」というパッケージを「学校」経由で施すことで、根強くあった鍵盤アレルギーを中和していった、その動きは今振り返ってみてもすさまじいものだった。

 日常に楽器が平然と入り込んでくる。しかも、暮らしを規定してゆくある価値観と共に圧倒的な“モノ”として存在するようになる、そんな経験は少なくともニッポンのフツーの人々の暮らしの中で、まずなかったことと思っていい。そんな国民的体験をもたらしたのが、このヤマハだった。

 もしも私が 家を建てたなら
 小さな家を 立てたでしょう
 大きな窓と 小さなドアーと
 部屋には古い 暖炉があるのよ
 真赤なバラと 白いパンジー
 仔犬の横には あなたあなた
 あなたがいてほしい


 ブルーのじゅうたん 敷きつめて
 楽しく笑って 暮らすのよ
 窓の外では 坊やが遊び
 坊やの横には あなたあなた
 あなたがいてほしい

 75年、オイルショックで高度経済成長が一応の終わりを迎えた年のヤマハポプコン、グランプリ曲『あなた』。このあまりと言えばあまりな真正面からの“中流”幻想賛歌を、当時10代半ば、まごうかたなくヤマハ音楽教室育ちの世代だったはずの小坂明子は、ピアノを弾きながら歌った。そのことの意味は、おそらく小さくない。


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 団地サイズの「応接間」(まだリビングルームというもの言いは広まっていなかった)にむりやり詰め込んだ応接セットと共に、壁際に黒いアップライトピアノがある風景は、ニッポンの「家」のお約束になっていった。たとえそれが、じきに飾り棚がわりの場所ふさぎになるのだとしても、子ども(当時はほとんどが娘、なのだが)にピアノを習わせることのできる暮らし、というのが、「豊かさ」に具体的な手ざわりを求めた当時の親の世代にとって、ひとつわかりやすい答えになっていた。ピアノを買う、ということはそれ自体、そのような「豊かさ」に与することの表現であり、その単位としての「家庭」を価値の中心に置くことの表明でもあった。


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 なぜ、ギターでなく、ピアノ、だったのか。

 ギターの弾き語りというスタイルで、そこまでのヒットをもたらした楽曲も、それまでもなくはない。「バタヤン」田端義夫とまで言わずとも、いわゆる弾き語りの定義にかなうものとしてなら、それより4年前、千賀かおるの『真夜中のギター』などもあった。しかし、ピアノとギターでは、それを聴き、消費する側の幻想の水準も、無意識も含めた想いの水圧のかかり具合も、また違うものになってくる。同時代のヒット『神田川』や『赤ちょうちん』が、後に「四畳半フォーク」と呼ばれるような、ある種「個」の情念の表出を看板にしていたのに対して、『あなた』のピアノは圧倒的に「家庭」に就くものとして聴かれていた。

 そんな「自由」の依代として持つことのできる楽器なんてものは、しかし、そんなに昔からあったわけではない。

 ギターの前には、ハーモニカがあった。♬ハーモニカが欲しかったんだよ~、と、小さい頃の想いを歌ったのは小沢昭一だったが、昭和初期、宮田東峰によるミヤタ・ハーモニカの普及は、なるほど当時の少国民たちにそれまでになかった種類の「自由」を与えたはずだ。けれども、それはまだあこがれであり、あこがれゆえのささやかな「自由」しかもたらさなかった。


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 もうひとつ、ギターの前身にあたるものがあるとしたら、おそらくそれは三味線だった。それも、折り目正しい邦楽の三味線ではなく、浪花節のあの三味線。どんなに邦楽の三味線の名人上手でも、この浪花節の三味線だけは手に負えないと言われる。奏法が高度で難しいとか、ことでもない。それまでの三味線の奏法の型からまるではずれている、だから手に負えない、のだ。

 それは黒人ブルースのギター奏法によく似ている。教則本にないやり型で弦をたわめ、割ったビンの首でこすり、時にはチューニングすら無視する「自由」と「ひとり」であること、「個」であることを確かめながらつきあうことのできる楽器。そう、ピアノやオルガンが必ず「家庭」と共にあり、どこか「教育」の匂いをまつわらせていたのに対して、ギターは「個」だった。もっと言えば、「個室」とそこに宿ることを期待された「個人」の「自由」を仮託する、そんな意味を附された楽器だった。

 だから、ピアノやオルガンは先生について、習うものだったのに対して、ギターは「教室」で習うものではなかった。そう、窮屈に教え教えられる関係とは別の、半ば見よう見まねの独習こそが、ギターを弾いてみたいと思った若い衆のココロをとらえた、ささやかな秘密でもあった。

 そんな独習を可能にしたのが、『平凡』や『明星』の附録のソングブックだった。歌詞の脇に簡単なコード進行が附されたその小さな冊子は、さかのぼれば明治末年あたりからたくさん出てくる「隠し芸」のタネ本などにまでその淵源をたどれるような、ポケットに入れて野外に持ち出せるテキスト。ギターをかついで、そんな歌集を持って、「自由」はどこにでも立ち現れるようになった。

 同じギターでも電気ギターは「エレキ」と称され、すでに別のブームを形成してもいた。ただ、「エレキ」は単体では楽しめない。どうしてもバンドを組み、さらに大きな音をおおっぴらに出せる環境がないことには始まらない。思い立ったらその日のうちに「エレキ」を買う、というのはなかなかできないことだったはずだが、しかし、「フォークギター」ならば話は違ってくる。うつむいて「ひとり」でおずおずと爪弾くことから音を探り、コードをたどたどしく押さえてゆき、いつしかギターは「自分」のものになる。それは「エレキ」がもたらす解放感や官能とはまた違う、「フォークギター」とその悦びを、ギターを手にとる若い衆の身の裡に広がらせることになったはずだ。

 当時の、そんな「自由」を求める高校生の気分を反映した真崎守(原作・斉藤次郎)のマンガ『共犯幻想』に、地方に住む高校生が新宿フォークゲリラとおぼしき集会に週末ごとに参加してギターを覚えてゆく、というエピソードが出てくる。

 地方といっても、おそらくは首都圏。電車に乗って2時間ばかりで新宿に出られるところ、という設定だったから、具体的には中央線沿線、山梨県は都留や大月あたりか。ギターを手にするのは、高校の「管理教育」に藩校して校舎にたてこもる主人公四人のうちのひとり、クラシックピアノの英才教育を受けているメガネの少年。ピアノを弾くことできる階級、それもクラシックピアノをプロの個人レッスンで教えてもらうことのできるような、まずは「いいとこ」な家庭育ちのそんな少年が、新宿西口地下で絶叫するフォークゲリラたちに感化されて、ギターという全く別の楽器を手にとる。もちろんクラシックギターではない。おずおずとネックに左手をまわし、弦をおさえてみる。指が破れてマメができる。ピアノのタッチまで変わってくる。そしてそのことをピアノの個人教師に見破られる。ピアノがギターか、という選択を迫られる中でギターを選んだ彼は、しかし、機動隊の盾に指をつぶされてしまう。

 ここでもギターは、ピアノとの間にあった同時代的な距離感をテコに、「個人」の「自由」を表象する“モノ”として描かれている。ここから、「四畳半フォーク」のあの気分までは、もうわずかだ。

 FGに代表される「フォークギター」の「自由」は、しかし70年代の終わりと共に終焉を迎えた。「エレキ」というもの言いも薄くなった電気ギターが、それにとって代わった。バンドという形式の中で、ギターとキーボードは共にそれぞれの役割を果たすようになった。電気的に増幅された音の塊の中で「フォークギター」ならではの「自由」の気分は、また別のかたちを伴って、時代の中に溶け出していった。