自虐と嫌韓――嫌韓厨・考

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 まず、はっきり言ってしまおう。われわれはどうやら、朝鮮人が嫌いである。

 韓国人、でも、北朝鮮人、でもない。「朝鮮人」だ。北も南もない。国の違い、体制の違いを越えたところであのふたつの国は立ち居振る舞いがよく似ている。北は言わずもがな、言語道断な拉致問題は明るみに出たし、いろいろと漏れ聞こえてくる中身はカルト教団並みのトンデモ国家。と言って南の方も、何かというとこちらを目の敵にして因縁つけてくる態度を見ていると、やはりしょせんは同じ民族、北と同じくどうも善き隣人になれるとは思えない。

 同じように、どうやら中国人も嫌いである。先日の反日暴動、靖国参拝問題での執拗なからみ方、何より身の回りを見渡してもそういう「アジア」系外国人による犯罪ってやつも増えているみたいだし、なんか知らないけどあいつらってうざくね?――そういう“気分”は間違いなく、われわれニッポン人の間に高まってきている。

 と同時に、でも、だからと言ってその「うざい」をそのまま口に出したり態度に現わしたりするのもなんかちょっとまずくね? というのもあったりする。確かに、朝鮮も中国もうざいんだけど、それを直に表に出すのもなんだかなあ、なのだ。第一、差別だ、過去の歴史に対する反省はどうした、と、お約束の非難が、当のあちらさんだけじゃなく、学校やマスコミ、その他“アタマがいい”とされる人たちの主な棲息領域の方面から、まるでニュース番組のコメンテーターのような優等生のもの言いで雨あられと降りそそぐし。それに、商売上も韓国や中国ってもう無視できないようになってるみたいだし。何より、普通の人はいちいちそんなことばかりいちいち考えて暮らしてないし。

 そんなこんなもろもろのしがらみで、日本人は朝鮮や中国にこれまで「侵略」戦争を始めひどい仕打ちをしてきた(らしい)、それこそ民族差別の事実もあった(らしい)、そういういまわしい過去を想起するもの言いは良識ある日本人ならば避けるべきだ――そんなある種の贖罪意識のようなものが、何となくわれわれの中にある。先の「うざい」がますます確かな気分にさせられているからこそ、それに対するアンカーとして働いているこの贖罪意識、わかりやすく言えば「なんだかなあ」の方もまた、これまでよりはっきりと自覚されるようになってきている。

 「うざい」の高揚をさして「右傾化」「保守化」と言い、「なんだかなあ」に向かう価値観を語る時には「自虐史観」「サヨク」「反日日本人」と言う。何のことはない、昨今インターネット上で典型的に現われる「ウヨ/サヨ」対立図式というやつは、巷間言われているようなイデオロギー対立でもなくて、要はひとりのニッポン人、「戦後」六十年を経た〈いま・ここ〉に生きるわれわれの中に共に存在するこのふたつのベクトルがようやくちゃんと葛藤を始めた、そのことについての表現、だったりするのだ。



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 たとえば、「嫌韓厨」というもの言いがある。

 「戦後」の言語空間に埋め込まれたものの見方や考え方、歴史についてならばいわゆる「自虐史観」、思想的に変換するなら「サヨク」「リベラル」というやつを相対化してゆくあまり、今度は韓国、朝鮮(脈絡としてもちろん中国も含む)を反射的に嫌うようになった、そういう手合いのことを揶揄して言うものだ。ほら、こういう風に。

嫌韓厨』

韓国が嫌いな厨房。 韓国憎さのあまりに時と場所をわきまえずに2ch中のあちこちのスレに嫌韓コピペや嫌韓カキコをして普通の住民に迷惑をかけている。

2ch管理人のひろゆきは 厨房とは別に組織的な「職業右翼」の存在も指摘している。)

 

韓国が嫌いというより韓国をネタに日々のストレスを発散したり、 寂しさを紛らわすために(韓国ネタだとレスが異常に多くつく) ネタ的に書き込みをしている厨房も多い 。

 

N+からの隔離を引き起こした原因である、例の人々。

「韓国を正当な議論に基づいて批判する人」 ≠「韓国を差別することで優越感を得る人」=「例の隔離された人々」

 

【特徴】

・宗教の勧誘のように人を巻き込もうとする

・スレの流れなどおかまいなしに突然叩きをしたりコピペを垂れ流す

・文句を言われると逆ギレして脊髄反射のごとく

 

「チョン死ね」「在日発見」「犯罪者」「プロ市民」「ブサヨ」「地球市民」など同じことしか言えない ・他人のことをどうこう言う前におまえはどうなんだ?と思わせる馬鹿が多い

 この定義自体はどうでもいい。ネット空間のコミュニティでのつきあい方のまずいやつ、空気の読めなさ具合に対する違和感の表明、それ以上でも以下でもない。先の「なんだかなあ」を敢えて言葉にしようとするとこんな感じになる、という程度のことだ。

 問題は、この嫌韓厨という存在も、そしてそう呼ぶもの言い自体も、まさに先の「うざい」と「なんだかなあ」の葛藤から生まれてきたこと、そしてそのことをわれわれが往々にして自覚していないことである。その理由にもまたいくつかあるのだけれども、ただ、それらの前提としてまず大きく言えるのは、われわれ自身がどのように〈いま・ここ〉に至ったのか、どのような経緯で今のような「豊かさ」を獲得していったのか、いわゆる「戦後」という時期に関する身についた地続きの歴史について自前で説明できる言葉をきちんと持っていない、そのことだ。

 いま、「戦後」とひとくちに言った。けれども、その「戦後」は単なる時間の区分というだけでもない。今年で戦後六十年、ということは人間ならば還暦、死んだ者ならすでに個性を喪失して「ご先祖様」一般に繰り込まれている、そんな結構な分量の時間なわけだが、しかし、それは単に物理的なものでもない。意味に生きる生きものとしてのわれら人間にとっては、時間は時間そのものとしてだけでなく、それらの時間をどのように生き、経験したかについて自分たちそれぞれで穏当な言葉にし、共有しておけるようにしておくこと、それこそが言葉本来の意味での「歴史」になる。そして、そのような「歴史」の水準があるということを自覚しておいた上で初めて、あの「歴史認識」というもの言いもきちんと稼働し始める。

 というようなわけで、同じその「戦後」の時間の中で、たとえば「自由」であり「民主主義」であり「個人」であり「非暴力」であり「平和」であり、何であれそういうそれまでにあまりなかったはずの価値観、少なくとも「戦前」には決してプラス評価されることもなかった、あったとしてもまだ一部分のものだったそういう類の新しいものさしが、ある“力”のもとで一気に国民全体のものになっていった、そんな疾風怒濤で生きてきた六十年、ということの意味が、実は「戦後」を語る時の本質的な問いだったりするのだ。



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 けれども、ここ十五年ほどの間、具体的には90年代始め頃からこっち、それまでそういう「戦後」の枠の中で当たり前とされてきたそれらさまざまな考え方やもの言いに対して、「でも、それって、ほんとにそんなに大切なものなのかよ?」と言わざるを得ないような流れがどんどんはっきりしていった。単にものの考え方が変わってゆくというだけでなく、変わらざるを得ないようなできごとや事件もいくつも起こっていった。

 いわゆる歴史教科書問題などは、その大きなひとつだった。「自虐史観」というわかりやすいもの言いで問い直されていった、それまで当たり前だった「戦後」の中身。それは「戦後」の枠組みの中でサヨク/リベラル「偏向」だったものの考え方を少し保守/“右”側に揺り戻して中庸を模索する運動だった、という定義では実はことの半分でしかなくて、そのようなものの考え方の問い直しを必然的にせざるを得なくなるようなわれわれの社会、世の中そのものの変動、ということの方がより切実で重要だった。

 おおむね90年代以降、マスコミや評論家が「右傾化」「保守化」などと言ってそれ以上直視しないようにしてきた事態の内実とは、大きく言えばほぼそういうもの、だった。右だ左だ、というものさしはほとんどどうでもいい。「戦後」が終わる、というのはそのように、われわれの現実となっていった。

 「戦後」の枠組みに安住したままのベタベタな自虐史観――「アジア」は常に善であり、その「アジア」の中身とは「中韓」に象徴されるものであり、それはかつての戦争で日本に一方的にひどいことをされた「被害者」「弱者」であり、だからこそその「アジア」の前に日本は常に叩頭せねばならない、といった一見文句のつけようのない、しかしだからこそそれ以上には個々に深めてゆくことのしにくい、そんな限界をあらかじめ背負わされてしまった考え方。だが、そんな「自虐史観」が最近になって具体的にあげつらわれるようになったのは、そういう考え方自体への反発、ということ以上に、そういう考え方が「戦後」の過程で問答無用の「正しさ」になっていたことに対する反発、という側面の方が実は本質的だったりすることに、さて、君は気づいているだろうか。

 確かに、世に「自虐史観」としか言いようのない考え方はあるし、そこにあぐらをかいた反日日本人の系譜、というのも確かにある。「戦後」の言語空間に同調して、その同調していることに自覚がないまま、問答無用の「正しさ」に身を預けてしまった手合い。少し前まで、少なくとも80年代いっぱいまではまだ、そういうオトナたちが当たり前だったし、またそれでさして問題も起きなかった。何より、ほとんどのニッポンのオトナは食うことに忙しかったし、とにかく働いて暮らしをよくすること、が、誰にとってもわかりやすい正義だった。一方で、多少ともものを考えてしまうような条件――それが可能な程度のカネとヒマに恵まれたちょっと変わったオトナ=「インテリ」たち、は、「豊かさ」へと収斂してゆく「戦後」のそんな大方の正義のありようとは少しずれたところに、自分たちだけの「正しさ」をせっせとつむいでいた。いまの日本はよくない、いまの日本は遅れている、いまの日本は本来あるべき姿になっていない……そういう考え方は系譜としてはより古く、文明開化以来の西欧主義、近代主義の発想ときれいに重なっていたし、だからこそ、それらの発想の内側にあり続けていたニッポン近代の「インテリ」のメンタリティに受容されるものになっていた。

 そのような「インテリ」発の知的なひな型として流通していた「戦後」モードのものの見方や考え方が、高度経済成長以降にうっかりと現出した高度大衆化社会下で、それまでのようなインテリ=知識人の溶解と共に新たに出現してきた「知的大衆」=〈その他おおぜい〉(それはまさに、意識のありようとして、いまのわれわれに他ならないのだが)の身だしなみとして、ある種のフォークロア=“おはなし”と化してゆく過程で、かの「自虐史観」ははっきりとその輪郭を現わしてきた。そんな中、「自虐史観」を考えなしに掲げる「反日日本人」もまた、それが現実にどれくらい存在するかどうか、とはひとまず別に、薄く広く“類型”として広まっていった。自分の言葉、自前の速度で深く穏やかに考えることなく、まさに脊髄反射でとりあえずそう言っておけばすむ、という程度の身振りやもの言い。折から、偏差値教育とシンクロしながら進行した学校化社会もその流れに拍車をかけた。事実、その学校的な言語空間に同調してゆく時にこの「自虐史観」や「反日日本人」の「正しさ」は最も有効に、効率的に機能してくれた。学校化した社会における優等生の世渡り作法としての「自虐史観」。試験の模範答案のような「正しさ」のやりきれなさ。思想が思想本来としてよりも、そのようなモード、ある種の処世術として消費されてゆく事態の中で、「自虐史観」もまた、必要以上に過剰に語られていった面もなくはない。それら学校化の延長線上にあるマスコミが「自虐史観」に汚染されている(かのように見えた、ないしは今もなお見える)隠された大きな理由も、そこにある。そこから、昨今言われるような「在日」陰謀論、何でもかんでも「在日」と結びつけて解釈してわかったつもりになってしまう、いまどきの「嫌韓厨」の早上がりまでは、もう一歩だ。

 だから、「自虐史観」や「反日日本人」と、昨今にわかに増えた(かに見える)「嫌韓厨」とは、実は一枚のコインの裏表なのだ。「自虐史観」に代表されるサヨク/リベラルなものの見方や考え方、とは、「戦後」の過程で、とりわけマスコミに典型的に見られるような「学校」的空間で公認され、世渡り作法としての「正しさ」を身にまつわせてきた。文科系とはそのような「正しさ」の司祭であることを期待され、事実そのように振る舞ってきた。PC(ポリティカル・コレクトネス=政治的な正しさ)の日本的な文脈でのありようを考える時に、この「戦後」の言語空間での「自虐史観」の生成過程は重要である。そう、「正しさ」にもまた、「歴史」はあるのだ。

 そこでなかったことにされてきていたのは、何か。おもいっきりひと口に言ってしまえば、〈リアル〉である。〈確かなもの〉〈ほんとうのこと〉、である。もっとほどいて言えば、誰もがおおむね納得できるような言葉、表現で共有される同時代の現実の水準、である。「ああ、そういうものかも知れないよなあ」という程度でひとまず納得できる眼前の事実、世の中のさまざまな現象に対するそういう説明、解釈のまとまり。何であれ、そういう現実をまず自前で手に入れようとすること――文科系の初志、あの“humanities”(人文科学、なんて訳されてたりするけれども)のニッポン的脈絡での輝かしさは、あるとしたらまずそういう戦略的意志にこそ宿ったりするはず、だったのだが。



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 というわけで、朝鮮人って、あるいは中国人ってなんかうざいよね――いま、そう感じる君は、おそらく正しい。正しいけれども、しかしその正しい分だけ同時にまた、その「うざい」の中身についてもう少し考える責任ってやつも生じている。もちろん、誰もがみんなその責任を負う必要はない。けれども、その「うざい」任せに「反日日本人」叩き、「サヨク」「リベラル」「自虐史観」バッシングを得意気に繰り返すのも「なんだかなあ」と感じる部分があるのなら、その「なんだかなあ」の方も自分の身についたところで考え直してみる、言葉にしてみる、そんな努力もまた必要だったりする。

 いまや、ネットにはその「うざい」を保証してくれる材料はいくらでもあふれている。ネットに触れるとおそらく容易に「嫌韓厨」になれてしまうのが今の情報環境だ。それはそれ、そういう時代なのだとしか言いようがない。かつて、そこらの若い衆が軒並みサヨクにかぶれた時代もそんなものだった。その意味でなら、「嫌韓厨」上等。むしろ「嫌韓厨」にもなれない若い衆など、いまどきロクなもんではない、かも知れない。

 だが、だからこそ見えにくくなっている別の現実、というのもある。いつまでも「嫌韓厨」にあぐらをかいたままでいるのなら、それはあの団塊の世代、いつまでも“若者”という自意識のまま、サヨクモードの身振りともの言いに固着して、うつろいゆく眼前の事実に眼を開こうとできずに年老いていったオヤジやオバサンたちと、やってることは全く変わらない。

 ネットの速度でなく活字の速度、文字を〈読む〉こと固有のしち面倒くささに自分の身体や、ものを考えるリズムみたいなものをもう一度シフトダウンしてみる、そのことによって新たに開かれてゆく世界というやつも――ここは先輩ヅラして言わせてもらうところだが――必ずある。あるし、それはおそらくかなりの程度、今の君にとって役に立つものだ。嘘じゃない。「嫌韓厨」をくぐった〈それから先〉、〈いま・ここ〉にほんとに見合ったよりよいオトナになり方、というのも、そういう処方箋を自分に与えてみるところから、きっと始まる。*2

*1:この出だし、id:king-biscuit:20050408 の敗者復活戦、です。ここで復活戦やらかすのがいいかどうかはともかく、ですが

*2:発売と同時に「祭り」になってました(苦笑)。どうなることやら……