靖国、異論

 靖国問題、小泉8.15参拝後も、やれ分祀だなんだと、まだまだ波紋を呼びそうですが、ここはとりあえず民俗学者も、ひとつだけ口出しを。

 靖国神社は「戦死」した者を祀る神社、ということになっています。「戦死」というのはつまり非業の死、普通でない死に方、ということで、しかも若い衆が多い。つまり、そのままだと「イエ」で祀ってくれる子孫もいない、だから先祖になることもできない霊魂が大量に生まれてしまったので、それを引き受ける施設が必要だろう、というのが設立当初の、まあ、おおざっぱな趣旨。

 しかし、いまや家の中から神棚もなくなってゆき、いや、神棚だけでなく仏壇さえも居場所のなくなってきた現在、そういう「私」の祀りそのものがあやしくなっているわけで、そういう状況で「戦死」にまつわる「公」の祭祀ばかりが、しかも靖国をダシにあれこれ言われているのも、ちょっとなんだかなあ、ではあります。

 要は、あたしたち日本人が、自分がいずれ先祖になる、ということを今なお、どれだけまだ身にしみているか、それを「イエ」とのつながりでまだ感じられているのか、ということです。そんな「私」の祀りがあって初めて、靖国に象徴される「公」の祀りもうまく機能する。「私」の祀りがすたれているのに「公」のそれだけを取り沙汰する現在は、言い方はよくないですが、「老い」を介護保険任せにしてしまおう、という発想とも、どこか似通っているようにも思えます。