「論壇」の来歴

 前略、姜尚中先生。この春、大阪に設立される国際コリア学園とやらの理事長就任を断念されたそうで。さすがは東京大学教授、われら凡人と全く異なる品性の高さを遍く天下に知らしめるご英断、と不肖大月、匹夫ながら感服いたしました。

 

 しょせんは俗物の嫉妬、口さがない世間からどんな陰口叩かれようとも、ここは何が何でも天下の東大教授の椅子にしがみつ……もとい、敢えて踏みとどまり、その肩書きのご威光を最大限活用しつつ、在日同胞の地位向上にさらに邁進することが、たかだか新設の民族学校の陣頭指揮とるよりも戦略として得策、と熟慮の末、判断されたのでありましょう。何より、この少子化社会で大学に逆風厳しく、特に文科系の教員などどう転んでも公認リストラ予備軍で明日をも知れぬ浮き草の身の上、「弱者」「在日」カード振り回しての世渡り流儀でようやく手にしたこのにっくき日本での金看板、一時の短慮で手放しちまっていいわけがない、と。なるほど、ごもっともであります。

 

 思えば、かのふぇみにずむ教の教祖、世の流れに真正面から逆行する国立大学教員定年延長の旗まで全力で振られていたかの上野千鶴子先生と並ぶ、いまや東大の文科系有名教授。その看板の影響力は絶大でしょうから、教育現場で泥かぶる汗くさい仕事なんぞ、あの「ゆとり教育」の旗振り役だった寺脇某に任せときゃいい。先生はやはり東大教授ならではの大所高所からの美辞麗句だけをその美声でうつろにかろやかに世にばらまき続けるが一生のお仕事、まさに天命なんだなあ、と改めて確信。あ、肩書きだけでなく、売り物の美声もくれぐれもお大事に。

 ……といった原稿を某メディアに出したらボツにされた、その一部。編集部によれば、「あまりに下品で」という理由だったらしいのだが、なるほど、わざわざ指摘されるまでもなく文句なしに下品である。われながらこの下品さが、ああ、誇らしい。素晴らしい。

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 別に珍しいことでもない。これまでだって何度でもあった。とりわけ今のメディアではなおさら。

 理由は一応、さまざまにつけられるのが常、だけれども、要はメディアの側が、そこで仕事をする者たちが自分でリスクを負いたくないだけのこと。そのリスクってやつも、個別具体でいちいち想定してゆけば、多くは「何があったらめんどくさい」程度のもの。そんな面倒を引き起こしたところで別にトクはないし、といった気分がいまやメディアの現場、生産点をどんよりと覆っている、それゆえのありふれた事態。

 いらぬ面倒や騒動は引き起こさぬが吉。そんなことをしたところで給料があがるわけでもなければ、他人に感謝されるわけでもない。まして、世の中が動くはずなどさらになし。日々の仕事、人よりラクして食ってゆけるだけのルーティンとしてだけ「こなして」ゆければそれでよし。誌紙面でどんなことを並べ立て、どんなごたくや能書きを書き連ねていようとも、それらをこさえている側の個々の人間ひとりひとりの内実なんて、おしなべてそんなもの、なのだからして。

 実際、どんなメディアであれ、その現場に対して本質的に出入り業者であるはずのわれら外部のもの書きの署名原稿、その中での具体的な個人名を名指しであげつらっての非難糺弾揶揄罵倒に嘲笑、といった「仕掛け」は、ある時期からこっち、よほどのことがない限りすんなりとは表舞台には掲載されなくなってきている。だから、今回のこの「あまりに下品」な原稿も、陽の目を見ないかもなあ、程度のことは事前に予期していた。そんなもの、だ、いまどきの売文渡世の日常ってやつなどは。

 以前は、それでも「署名で責任の所在をはっきりさせているのだから無問題」「書いたのは外部の人で、こちらとしては場を提供しただけ」「もしも必要ならば反論の場を提供してもいい」といった言い訳の合わせ技を繰り出しつつ、掲載に踏み切ることも結構あった。「論争」というもの言いがまだそれら「論壇」の売り物に多少なりともなり得ていた時期だ。

 看板掲げて世渡りする「論客」が、時に応じて他の誰かに名指しで文句をつける。それをきっかけに「論争」が始まり、それを複数のメディアがしばらくフォローし、時には観客や野次馬なども巻き込んでひとしきり話題になる、という寸法。もちろん、それが各種「論壇」関連のメディアの商売にもなるわけで、敵も味方も一応あるが、そこはそれ、ある意味互いの芸風もわかった上での基本的には相対ゲンカ。あのけったくそ悪くももっともらしい比喩を弄せば、まさに「プロレス」として機能するようになっていたのだ、「論壇」ってやつは。それはたとえば、昨今ならばワイドショーにスポーツ紙、タブロイド紙芸能誌などの複合体が日夜つくりだすさまざまな「話題」の連鎖のありようと、よく似ているし、いまどきのこと、ウェブ環境もそこにさらにおおいかぶさっての事態の加速化、重層化はさらに進行している次第。

 そのようなデキレース、あらかじめ「キャラ」の決まったところでの、でもそんな「プロレス」を可能にしている枠組みだけは絶対にこわしたりすることのない、安全保障な「言論」沙汰だけが、いつの頃からか当たり前になっていた。あまりに当たり前になり過ぎて、もうそもそもずっと昔からこんなものだった、とうっかり思ってしまうくらいなのだろうが、でも、静かに思い返してみればやはり、そういうわけでもない。

 「言論」「思想」…何でもいいが、その類のもの言いで名づけられるような営みが、良くも悪くもある仰角の視線と共に確実にあり得、何よりもそれらを支えることばが主体との関係である緊張関係をはらんでいられた状況はかつてあった。あったからこそ「論壇」なんてもの言いも同等に、ある種の人間たちの意識によって共有されていたのだ。

 ちなみに、「論壇」というのもその下敷きは「文壇」だったわけで、その「文壇」となるともの言いの来歴としてはもちろんはるか戦前から。言論一般がブンガクと未分化の状態から派生してゆき、戦後になって「社会科学」系のガクモンが新たに勃興してくるに連れて、それまでのブンガクを焦点とした「文壇」とは少しずれたところに新たな「言論」「思想」の領域が発生、折からのジャーナリズムの伸展状況とあいまってめでたく「論壇」という市場もまた誕生していった、というのがおおまかな流れになる。具体的には、およそ60年代の始めから半ばにかけて、といった時期のことだ

 その「論壇」がその後、ある程度まで内実を伴って口にされていたのは、めいっぱい斟酌してみたところで、せいぜい80年代前半くらいまで。個人的にもそれ以降はもう、事実上「プロレス」化が急激に進行していったという印象が強いから、真性「論壇」が保持されていたのは前後ざっと二十年ばかり。もちろん、その間「文壇」の方も相互に干渉しあいつつ衰退していったことは言うまでもない。ひとくくりに言ってしまえば、いわゆる高度経済成長の過程に対応する、ジャーナリズムを焦点とした情報環境の変貌の中でシアワセにも保持されていたある幻想の共同体、といったところになる。

 評論家、思想家……何でもいいのだが、そういう「文科系」の「知識人」「インテリ」「文化人」という連中が、活字のメディアにひしめいていた。月刊誌が一応の表舞台だとして、東京や大阪の出版社が出しているもの以外にも、地方を根城にした同人誌に近いものもいくつもあったし、またそれらにも端倪すべからざる書き手や仕事が掲載されたりした。さらに、その他ににも書評紙などというのもあった。今でもあるのだろうが、すでに現実に機能などしなくなって久しい。今や、せいぜい図書館が講読している程度で、その気で探せばまだ片隅にスタックされているくらいだろう。

 日刊紙、普通の新聞の文化欄、学芸欄からして同じようなサロンだった。何より、新聞に掲載される出版社の広告を鵜の目鷹の目で探すのが通例だった。インテリや知識人の類が好んで朝日新聞を講読しているのは、そんな出版関係の広告が充実しているから、と言われていた。

 そんな情報環境に生きているのが、当時の「インテリ」「知識人」だった。言い添えればそれは、それより少し前、まだ戦前を引きずっていた頃のインテリや知識人とも違う、それらよりずっと大衆化した、俗化したシロモノだった。けれども、その間の落差も〈いま・ここ〉からはもうすでに見えにくいものになっている。

 サヨクでもウヨクでも、意匠は実はどうでもいい。見通しておかねばならないのはそのような情報環境が現在に至る、その最も身近ところでの来歴のディテール、だったりするのだが、そしてそれらを等閑視したままの「思想」「言論」沙汰など、どのような未来を選択するよすがにもならないはずなのだが、そんな省察、反省の契機すら、〈いま・ここ〉の内側からは宿らせることが難しくなっているようだ。