「ハケン」の労組って?


 人並みであればそこそこ生きては行ける、とりあえず生かしてもらえる場所がある、かつてはそれが「世間」でした。

 もちろん、生きるというのは、それでも素朴にきついことでした。自分の持って生まれた身体いっぱい、日々休みなく動いて汗をかいてようやく何とかなるようなものだった。でも、だからこそ、少し余力のある者、恵まれた環境に生まれた者、あるいは、努力と幸運とでそのような立場に行き着いた者などの中から、その生きることのきつさの仕組みを考えて、もう少しどうにかしようという者もまた、たまには出てきた。

 明治からこっちのニッポンなんて、疾風怒濤の近代化の荒波の中で、そういう「世間」のメカニズムが稼働してようやく何とか格好つけられるような社会になってきたようなものでしょう。なのに、最近ここにきてその「世間」のメカニズムそのものからして、どうやらこれまでと本当に違うものになりつつある、そう感じます。

 たとえば、「能力」とか「スキル」とかのもの言いで、「人並み」であることを何かバラバラに数値化、データ化してゆくような動き。これは、いわゆる偏差値教育が言われるようになった頃からあるものの、このところまた一段と激しくなってきているような。それはどうやら、派遣労働がことさらにクローズアップされてきた頃とも重なっています。ああ、「人並み」すら一度偏差値化しておかないと〈リアル〉にならず、役にも立たなくなってしまっている情けなさときたら……

 派遣社員労働組合といったものを組織することも、遅ればせながら試みられているようですが、うまくゆかない。「ハケン」は以前ならば未組織労働者などと呼ばれ、もっと前ならルンペンプロレタリアートなどと蔑まれたような系譜に連なるわけで、組合であれ何であれ、そういう意味での「組織」には最もなじまないような質を持っています。良い悪いではなく、そういう人たち、であることが最大公約数。かつてはそれでも「世間」の例外、少数派だったものが、高度経済成長以降の「豊かさ」は、幸か不幸か、そんな初手から組織されることを拒否する生き方、うっかりと「個」であってしまうとりとめなさが、すでに空気のように当たり前になっています。だから、自分の利害や損得だけで生きる、それ以上のことは考えられないし、何よりそんな余力自体、もう残っていない、それがひとまずいまどきの働く若いニッポン人の標準でしょう。いっぱいいっぱい、でしか生きられないのが「ハケン」だとしたら、その内側から「品格」など宿りようがありません。

 なのに、あなたたちの苦しさを何とかできるように手伝ってあげるよ、とそれ自体はおそらく善意の猫なで声で、実態としてはほぼプロの「組織」構成員がやってくる。かつてもルンプロたちの最底辺は、最後まで「組合」や「党」の視野の外に置かれていましたが、今の「ハケン」たちもまた同じ。何より、自ら望んでそのような立ち位置にいる者が多数派だったりもする。

 「個」であることで「組織」をあらかじめ拒否するような心性がすでにデフォルトであり、それゆえ「人並み」の意味もまたこれまでと違う形になりつつある。まずはその眼前の事実から始めないと、どんな「組合」ももうこの先、あり得ません。