マンガと若者文化の現在

―全体として、いまマンガはどうなっているのでしょうか。

さて、全体像をとらえるというのは不可能、ちょっと誰にもとらえられませんよ。ただ一時期のような勢いはなくなっていますね。週刊マンガ誌の『少年ジャンプ』が六〇〇万部だった九〇年代からいえば落ちている。相変わらず凄い量の作品が市場に流れてはいるけれども、しかし、煙がうすれるように全体がうすれてきたように思います。僕はやがてマンガはエイジ文化となって、さらに未来には養老院でいまの三〇代以上の世代だけが読むようなジャンルになるのではないかと思っています。縮小過程に入っているのは間違いない。何より、大手出版社の編集の現場からして、とっくにそんな現状認識なんですから。

―えっ、私(橋本)などはマンガ本の古本屋に入ると、めまいを起こすほどの多種多様な作品があって、いまでも隆盛の極みのように思いますが。 

いまの一〇代の子どもたちが次第にマンガを読まなくなってきているんです。いま『少年ジャンプ』が三〇〇万部といわれていますからね。つまり、先行きがかつてのように末広がりにならなくなった、と。

―どうしてそうなるのか、マンガと若い読者に何が起きているのか、そこをうかがいたい。

『少年サンデー』あたりだといま一〇〇万部すら切っているはずです。かつて団塊の世代が大学生になってもマンガを読んでいる最初の世代として登場しました。サブカルチャーとか、カウンターカルチャーとか言われて、大学教授たちがマンガを論じたり、鶴見俊輔さんや石子順三さんが批評や評論の対象にしたりしてましたよね。 

―作品でいえば『カムイ外伝』『明日のジョー』『天才バカボン』などでした。

そうそう。かつては、そういう作品を対象とした作品論、作家論が成り立っていましたが、いまやマンガを対象とした評論は成立していない。感覚的にいうと、グジャグジャというか、フワフワというか・・・つまり評論を読む読者がいないし、評論のように受け取ったり考える者もいない。なによりも「マンガおたく」が居なくなってます。『BSマンガ夜話』という番組はかつての高校や大学のマンガ研究会や同好会的な会話を、昔の深夜放送のノリでやっているわけですが、不定期ながら一三〇回以上も続けている隠れた優良コンテンツなのに、一方では今後これが若い世代へどう続くのか、心もとない印象です。

―おたくがいなくなった?

うふふ、ちょっとわからないでしょ?

―好きな事なら、いろいろとしつこく追う、子どもって昔からたいてい何かのおたくだったけど……

いまはもう、おたくになるための努力が必要なくなってるんですよ。例えば好きな作家を見つけたらその作家はどんな人物で、他にどんな作品を描いていて、それらは上出来か、しくじったか・・・知ろうとしたでしょ?

―それこそ批評行為です。

そう。でも今の若いコたちはそれをしない。おたくになるというのは、ある作家の関連情報を集めたり、作品を集めたり、同じ仲間を求め、どこに知りたい情報や作品があって、それに関しては他人よりくわしいことが何よりも喜びのはずなのに、そういう努力をしないんですよ。例えば大学生おたくたちの生態を描いた『げんしけん』のような作品がありますが、あの作品の心情や関係が今の現実の高校や大学では消滅しつつある。『げんしけん』の世界は、おたくたちが演じていたサークル的共同性へのノスタルジーです。しかし、いまではこの共同性の土台、自分はあれが好きとか、集めるとか、仲間と同じ趣味でくわしく考える、といった努力がなぜか急速にうすれつつあるみたいなんです。

―彼らは怠け者なの?大月さんは大学生に接していらっしゃるからうかがいますが。

単純に怠け者とはいえませんね。うちのゼミの学生と話していると、自分の趣味性などを他人に話すのを好まない。自分についてはできるだけ漠然と話す。あれが好き、これが嫌いと言いたくない。例えばいまの興味は日本文学です、といっておいて、作家はだれが好きか、あるいは誰を読んでいるか、と尋ねると、「いろいろな作家です」というだけで作家名をあげない。作家名をあげることで、自分の性格や好みや精神の傾向性が露わになってしまうことを恐れるんでしょうね。

―そんなこといったら食堂で飯も食えないよ。カツどんが好き、カレー南蛮が好きぐらいはいいのかな、だけど村上春樹が好きとはいいたくない・・・。弱々しい自意識の防御反応。

まあ、そうなんですよ。そういう心理なら、何もおたくになんかならないでいたいと思うはずです。あるいはかつてのように〇〇のおたくである、と自分を明らかにする者は一種の強者かもしれない。でももう、そういう強者にさえなれない。ということはつまり、彼らの自意識にとって、いまやおたくの成立条件さえ重くなってしまった。

―どうしたものだろう。ひきこもって、静かに好きな作家のマンガでも読んでいればよかったはずなのに。

いや、そのマンガさえ読まない、読めない若者たちがすでに登場しつつありますよ。

―なんですって!

マンガさえ読むのが億劫だといったらいいのか……実際、マンガさえ読みませんよ。そういう学生を大昔の選ばれた大学生のように考えたら間違います。だって、今や大学進学率が五〇パーセントを超えてるんですよ。そんな時代の大学はかつての中学校のようなもので、勉強好きも勉強嫌いも混在する集団です。そして漫然とネットの動画サービスなどを観ているような精神にとって、マンガを読むという能動性さえ億劫になる。いまマンガを読むような子どもなら、やがて本を読む可能性はあるでしょうが、でも、マンガも読まない子はそのまま本そのものにも接触しないでしょうね。マンガを読むためにもリテラシーが必要ですし、習慣的にマンガに接触しなければそれっきりになるてしまう。つまり、僕がマンガは衰退期に入ったというのはそういう学生たちを現実に目撃しているからです。もちろん、ばっさりといきなりマンガが消えるわけがありませんが、でも、マンガを読むという習慣とともに育ったコア世代はいまの三〇代後半までの世代かな、という気がします。同時に、自分の本棚に好きな作家の本をそろえて満足していたような人も、精神も消えるんでしょう。音楽でも好きなミュージシャンのCDをそろえて喜ぶ人ももっと少なくなってゆくでしょうね。

―かわりに何をしますか。

ネットへアクセスして、そこから好きなアイテム、コトガラを選んで楽しむんじゃないですかね。事実、かなりの部分でもうそうなっていますよ。

―便利ですね、それがすぐに手に入る。なるほどパソコンでクリックすればいいか。横になって、お目当ての楽しみが手に入るから、一昔前のようにおたくとなって、専門店で探すなんて、めんどくさいことはやらないわけですね。やっぱり、どこか怠惰だ。しかし、最初からそれがあるのだから怠惰という感覚もない。大人がなぜ怠惰というのかも理解できない。これは大変だぞ。

ゆとり教育なんて文科省は言ってましたね。いまの学生はそのゆとり教育の犠牲者、言わば薬害の被害者と同じです。一方では「生きる力」教育などともいってましたっけか。でも、生きる力なんていったって、彼らは喩え話としても理解できませんよ。

 だから彼らに、せめて自分でエサを拾うだけの気力を持とうよ、と言ってるんです。でも彼らにとって、エサは向うから常にやってくるものなんですね。生き物は生きるためにエサを求めます。だからどんな生き物でもやっていること、エサを拾うだけの気力を出せ、といくら言っても、エサがない、ということが体験的に理解できないはずです。さらには、エサは拾う物ではなく口をあけていれば自然に入ってくるものだ、と思っているかもしれない。生きる力を引き出すためにはまず話を交わす能力が必要で、自分でまずしゃべることだ、とまわりと会話を交わそうとさせています。

―その学生さんは、どんな作家が好きか、と問われると、いろいろな作家というだけで、正体を隠そうとするわけですね。

ですからお互いに話が交わせるようになるまで、半年ぐらいはかかってしまいます。

―オタクが成立しない、マンガの作家論が成り立たないという現象の背後には、なんだか恐いことが起きているらしい。いま始めて自覚しましたよ。

マンガに限りませんが、彼らにとって何か好きなコトガラがあったとしても、それは単体としてそこにあるだけで、他のコトガラとの関係や奥行きなど相互に絡み合った脈絡はとらえられない。かつては好きな作品を追いながら社会の脈絡までをとらえる作業が勝手に行われましたが、今やネットの情報ではそれもクリックひとつです。昔は情報を集める過程自体が豊かな情報を形成していたはずでしたが、もうそれはない。簡単にクリックすれば一瞬だけなら疑似おたくにもなれます。この安易さが彼らの生態までを規定しつつある。うちの学生がある時実家に戻ったら、弟が「抱き枕」にはまっていたんだけどいいのかな、と言ってました。その弟はネットをやっているだろ?<といったら、そうだ、って。それって危ないよ、今すぐネット回線を切っちゃえよ、と言ったんですがね。で、あとはゲームでしょ。いまの子どもたちはアニメもふくめてマンガに出合う前にゲームにまずはまるはずです。すると静止している画像のマンガでは退屈になる。ゲームの感性ではマンガは読めないはずです。前にもいった通り、マンガを読めない世代とは、マンガを読むのが億劫でゲームに熱中している。ここで書物への道筋まで切断されてしまうのです。

―なんだかニッポン人が違う人間になっちゃうような、いやな感じがしますねえ。

六〇年代に寺山修司は「書を捨てよ、街へ出よ」といったけれど、いまなら「ネットを切れ、街へ出よ」となるかもしれません。目には見えないけれど、私たちはいま相当大きな変化を演じているはずです。*1

*1パルシステム生活協同組合の家庭向け広報誌。インタヴュアーは橋本克彦さんという名誉な配置。http://www.pal.or.jp/syouhin/index.html