「団塊の世代」と「全共闘」⑤――その一個人的体験

2.団塊の世代全共闘――その一個人的体験


●名古屋の団塊少年が大学に入る頃

――そもそも、呉智英さんの個人的な生い立ちについて、いい機会なんで、ここは少していねいにうかがっておきたいんですけど。六〇年安保の時には、おいくつでしたっけか。

 昭和二十一(一九四六)年生まれだから、一九六○年には、中学二年だったね。

――安保とか、そういう社会的な動きみたいなものは当時、どのように感じられてましたか。それとも、まだそういう段階じゃなかった、とか。

 そうだなあ……その前の年、一年の秋頃から、何か周りが騒がしく感じられ出してはいたな。自分たちの兄貴の世代が大学へ入り、安保というもので騒いでいるな、というのはわかるから、幼いなりに何かあるな、とか、何か考えなければ、とか、やっぱり若い者は社会に目を向けなければ、くらいの気持ちにはなってきてたと思う。そして大学に入ってみると、実際にその六○年安保の残党もいて、自分が彼らとどう違うか、なんとなく理解できてきたね。

――あ、大学へ行く、というのは中学くらいからもう当たり前に考えていたんですか。失礼ですけど、おうちはどういうおうちだったんですか? 

 家の環境でいうと、自分が将来大学へ行くという意識は当然のこととしてあったね。まず小学生の頃から、母親が学校(当時は大学を「学校」と言った。この言葉自体、今では使わないが、尋常小学校とか新制中学という義務教育の、もう一つ上の教育機関を意味した)はみんな出てるでしょう、とか、誰それさんは学校を出ている、学卒だから、とか子供に言い聞かせていたしね。

 父親も「うちはサラリーマンだから、おまえに残してやれるものはない。だから、学校に行かせて、教育に投資するぞ」という考えだったよ。でも、サラリーマンで残すものはない、といっても、それは明らかに中流以上の言い分だったのは確かだね。

 うちの母親は田舎の地主のいちばん末の娘で、しかも戦争中に結婚したからそれほど恵まれてたわけじゃない。農家なら、この田んぼを長男に、畑を次男にと分けるけど、商家の場合には、駅前の店を長男に、隣町の支店は次のお兄ちゃんが継いでね、と暖簾分けをする。これが中流以上の生活、町の本当のミドルクラス、だったんだよね。そういうことをしている親戚は多かったけれど、でも、うちはサラリーマンでそれができなかったから、教育に投資する、と言われたんだと思うよ。

――名古屋の町なか、でしたよね。枇杷島、でしたっけか。

 そう。環境としては、私が育ったのは下町だったから、逆にまわりには中学を出たら、そのまま工場に働きに出る子供も珍しくなかった。何とか屋の何ちゃん、といった世界も広がってたし、でも、自分の親の店を継げる子は恵まれた方で、その場合はたいてい商業高校へ進んだな。

 だから、小学生で大学という言葉も知らないうちから、とにかく自分は学校というところに行かなければいけない、とか、行くものだ、と当然のように思ってたね。中学・高校は私立の進学校で、入学するときから親が「名大に行かせたい」、「名大くらいしか行かせられない」と言っていて、また同級生でも、そういう話をしている者もいたなあ。当時は地方の国立大学が頂点だったから、私の住んでた地域だと名古屋大学になるわけで、今でこそ東大、京大になるけど、あの頃は私の高校から名大に毎年百人は入っていたと思う。早慶などに行くのもいたけど、でも、それは同窓会にはちょっと恥ずかしくて行きにくい、といったことになる。実際、私も三十歳近くになるまで、出身校を人前で言えなかったもの(笑)。

――それはまた……(笑) 早稲田じゃ恥ずかしい、ってことですか。 う~ん……


 でも、何かわかるような気もします。あたしが大学入ったのが七七年の春、ですから昭和五二年ですか。呉智英さんとはちょうど十年ほど違いますけど、高校は兵庫県の普通の県立高校でしたから、進学指導なんてのはやっぱりまだ国公立大学進学が当然の前提でしたね。私立文科系なんてのは三教科だけで大学行こうとする厚かましい、といった感じでまともに相手されなかった。そういう意味じゃ、その頃まではまだ「戦後」の「受験」カルチュアみたいなものが継承されてたんでしょうね。ちなみに、あたしの翌年から例の共通一次試験が導入されました。浪人すると共通一次だぞ、ってのが脅し文句でしたね。今思うと、何が脅しなのかよくわかんなかったんですが。

 今でも憶えてるのは、私が高校二年で、上級の三年生が受験の時期のことだな。二月、三月と、次々に大学合格者の名前が職員室の前に張り出されるんだけど、私は二年だから、それこそ常に頭の上にいてうっとうしかった先輩たちの、誰が受かった、彼がすべったという話で憂さを晴らしていたんだ。

 某君という三年生がいてね。弁論部で、校内弁論大会のとき、イモ弁論をやっては自分だけ得意がって、下級生からバカにされていた、まあ、そんな男なわけだ。それが受験シーズン真っ只中の二月頃、クラスの悪いやつがサーッと教室に駆け込んできて、「おい、今、張り出されたんだけど、弁論部のあいつ、大学受かったぞ」、みんな「えーっ?」となった。どこの大学だ、と聞くと、そいつがフッと笑って「ワッセダ」と答えたら、教室中がドッと嘲りの歓声に沸いたんだよ。

 こっちはまさか自分がその早稲田に行くことになるとはその時は思ってないから、その某はその程度なんだとその時はみんなと一緒にゲラゲラ笑ったんだけど、翌年、自分が見事にそうなった(笑)。これはもう、絶対に世間で自分の大学名を口にしてはいけない、と思ったね。

 ところが大学へ入ってみると驚いたことに、級友たちは酒を飲み、肩を組んで、新宿へ繰り出しては「ワッセダ、ワッセダ」と叫んでるだろ。「あれえ、どうなってんだ、何なんだ、この事態は」と、カルチャーショックを受けたよ。見ると、なるほど、そいつらの顔には「バカ」って書いてある(笑)。こりゃやっぱり、人前で「ワセダに通っている」なんて言うと、あの弁論部の上級生のようにみんなに笑われるものだ、と思いこんでたから、一種のトラウマになっちゃってね。とにかく、大学の名前はその後三十歳近くになるまで人前で言いにくかったよ。


――まあ、早稲田が何か今みたいなブランド校になるのは、共通一次以降、偏差値教育が浸透してからの話、って部分はありますからねえ。亡くなったうちのオヤジも早稲田の、それもラグビー部でしたけど、はっきり言ってあんまりゴンタで公立の旧制中学をまともに卒業させてもらえず、私立に転校して卒業証書を買うような形で何とか格好つけた程度なのに、何とか早稲田にもぐり込んでましたからね。あたし自身、さっきの三教科の一発勝負でパスしたようなもんでしたし、言えたもんじゃないですよ。今じゃ、ミラーマンスーフリを教える大学、と言われてます。・゚・(ノД`)・゚・。

 まあ、かつてもそんなものだったんだと思うよ。でも、その早稲田に入るのが急激に難しくなってゆくのが、ちょうど私たちから後、だったんだよね。大学への進学率は私が入学した時は、確か全国平均で十五パーセント以下だったかな。「うちの子は学校に行かせてるんだ」と近所で言うと「おまえ、すごいな」と感心された時代だよ。それが、私が大学を出る頃には、もう三十パーセントに上がってたと思う。

 正確に言うと、私が大学に入った六五年の進学率は約十二パーセント。それが卒業する頃は三十パーセントになった。在学中も上がり続けだったから、大学が新設され、入学者数も増える。つまり後輩の数が異様に増える。それもすごい勢いで……。

 その間、わずか数年で何かが加速度的に変わってったんだよね。大学へ入ったのが六五年で、ちょうど六六~七○年にかけて四年間の高度成長があったわけで、朝鮮戦争特需によって生じた第一次高度成長が終わって、短い不況がアメリカのベトナム戦争への本格的介入にともなう輸出拡大によって回復し、第一次を上回る急速な経済成長が再現された、と。今までだったら貧乏で大学になんかとても行けなかったけれども、ちょっとお父さんが頑張れば行かせてやれるようになった、という世代なんだよ。だから、進学率に合わせて当然、競争率も上がってくる。でも、私たちの頃の早稲田は、まだ名前を漢字で書ければ通る、そんな大学だったんだけどね。

――「名前を漢字が書ければ」というもの言いは、定番ですよね(笑)。それだけ、高校や大学といった高等教育が一気に大衆化していったってことなんでしょうけど。

 考えたら大学、特に私立大学のレベルなんてものは、世代を遡るほど低くなるわけだよ。早稲田が「名前さえ書ければ」というのは、これはものの喩えで、実際に受かるためは名前以外の漢字も多少は必要だった(笑)。でも同志社は、当時まさに「名前さえ書ければ」だったんだよね。うちの高校からだと、三年終了すれば無試験で行けるような学校だった。ところが今や同志社は「関関同立」で、関西圏の私学のピカイチだ。しかも全国でもトップクラスの難関大学になっている。

 まあ、そういう風に考えてくると、私が十代だった頃は総じて、私大のステータスが低かった最後の時代だとも言えるんじゃないかなあ。当時は優秀な生徒は国公立に行くのが当たり前。ちなみに明治、立教クラスは、名前を書くにも平仮名か片仮名でよかった。今じゃ漢字で書かなければ、もちろん無理だろうけどね(笑)

――当たり前です(笑) MARCHと呼ばれて、六大学+亜細亜中央あたりはすでに立派に名門のうち、ですよ。ちょうど呉智英さんの頃から、女子の進学率も急に変わってきたんじゃないですか。「女子大生」ってのが小説や映画の中だけじゃなくて、現実にいるようになってきたり。

 そうだね。でもその頃、普通の公立中学へ行った連中は、高校進学に際しても、やっぱり成績とか家庭の経済条件を考えるものだったんだよ。地方においては、商業高校の名門というのが、ヘンな大学へ行くよりはるかに人気があったんだよね。名古屋でいうと、県立の愛知商業高校、それから名古屋市立商業、これはなぜか洒落てCA(コマーシャル・アカデミー)とか言ってたんだけど、この二校は非常にレベルが高かった。商家の長男が行く定番コースで、女ならなおさら、卒業すれば東海銀行の地元の支店にちゃんと就職できた。CAへ入った男は、私と同世代なら今頃、そうだなあ、定年間際のどこかの支店長くらいにはなっているんじゃないかな。

――そのへん、商業系が強いのはやっぱり名古屋って感じですね。「学校」行く、っていうのは、庶民にとってはそういう何か実益と直接関わるところがあって初めて〈リアル〉だったわけで、旧制高校的な「真善美」の追求、なんてこと言ってるのは、少なくとも「戦後」の教育の大衆化の中では実はむしろ少数派だった、ってことなんじゃないかなあ。そう言えば、うちの高校ももとは女子商業だった、って聞いたことがあります。

 同じ「学校」へ行かせる、っていうのでも、うちは貧乏人だけどこの子は頭がいいから商業へ行かせる、というのと同様に、うちはメリヤス問屋やっているから家業を継がせるために、という考え方もあったんだよね。頭のいい子だって、なまじ大学なんかへやると理屈が先に立って困る、それなら県立商業へ入れて簿記を覚えりゃ金看板だ、近代経済学がどうしたの、ケインズがどうしたのなんて関係ない、ソロバンを極めれば勝ちだ、っていう、まさにその庶民のリアリズムだよね。

 でも、その一方で、愛知商業に入っても、優等生の場合は、「おまえ、もったいないから、親と相談して名古屋大学受けてみろ」などと言ってくれる先生もいたんだよ。それで「それならせっかくだから、奨学金を取って大学へ行きましょう」と、名古屋大学の経済に入る者なんかもいた。

――ああ、そういうまわりの眼がきっちりまだ生きてたんですね。個人の才能を見極めて育てようとするコミュニティの力、というか。「書生」とか「苦学」って言葉も現実に活きてたわけで。

 まあ、これは名古屋という土地柄もあるだろうけどね。完全に農村地帯へ行きゃまた別だろうけど、名古屋という近世以来、ある程度の歴史も基盤も持った都市だから、そういう町なかの話、ってことなんだけど。

 都会の規模、商売の世界において名古屋は、そこだけでアウトソーシングが成り立つ程度に大きい。もっと小さな、たとえば松山とか高松、福井となると、これはまた全然違う。むしろ農村に近い規模なんだよ。でも、名古屋だと、東京、大阪といった大都会に近い。商業、工業、農業、全部が成り立っていて、しかも基本的に消費層が厚い。もっとも、地域内でアウトソーシングが成立しているから、特にその中の流通系の問屋なんていうのは、そこだけで完全に自足しているもんだから、古いしきたりが残ってしまうという弊害もあるんだけどね。