解説・藤原審爾「安五郎出世」

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 小説家が儲かった時代、というのがある。いや、あった、と過去形にした方が、すでによくなっているのかもしれないのだが。

 売文渡世として書きものを換金できるようになる。それが持続して「食えるようになる」というだけでなく、まさに一攫千金、常ならぬ稼ぎを「一発当てる」ことのできる投機的な仕事、まさにそういう「商売」「稼業」として想定できるようになってゆく、そんな過程がかつて同時代の歴史的体験としてあり得た。つまり、市場の拡がりをあらかじめ意識の視野に収めながら、創作としての「おはなし」をこさえてゆく、そんな作業が「文学」の間尺にも入り込んでくるようになったということでもあった。その結果、何らかものを書く、それも単に書きたいと思うだけでなくあらかじめそのように「一発当てる」ことを目論見ながら書く、といった了見が、ある時期から「文学」志望の意識にも、その濃淡は人それぞれなれど、あらかじめうっかり宿ってしまうようにもなった。

 「作家」といういささか偉そうに響くもの言いが世間の語彙として広まっていったのも、おそらくその儲かる度合いが右肩上がりに増長してゆくに連れてのことだったのだろう。戦前の雑誌、総合雑誌系統のそれなりの格式を持ったものの目次に「創作」と分類されていたのが、いわゆる小説にあたる散文表現の読みもの文芸、つまりいわゆる「おはなし」で、それ以外には「詩」や「戯曲」や「批評」「評論」といった箱がそれぞれあったのだけれども、その「創作」の部分から派生して「創作家」、さらに「作家」となっていったフシがある。「人気」や「売れっ子」、「国民的」といった冠も、「作家」だとつきやすくもなれば、本芸ではない文明批評や俗耳になじむ世相や時評、いまだとコメンテーター的な営業仕事にも使い回しやすくなり、同じ頃に前景化されてきた「評論家」というもの言いとも得手勝手に癒着してゆけるようにもなってゆく。

 「小説家」だと儲からないが、「作家」だと儲かる。少なくともその可能性があたりまえに開かれている――そんな創作沙汰そのものに関する理解の間口がなしくずしにゆるめられていった過程が、実はあったのだろう。いわゆる「文学」というものさしに付随していた価値観や世界観などもそれらの過程から急速に取り残されていったのだろうが、ただ、「文学」にまじめに律儀に依存していた界隈はそのことをうまく自覚できないまま、現実としての「儲かる」市場ばかりがその外側にどんどん拡がってゆき、いきおい、確かに「作家」として仕事をして立派に食えていても「文学」の間尺からは見えない存在になっている、そのような書き手も必然的に生まれ続けていったらしい。

 この藤原審爾もまた、そんないわゆる「文学」の間尺で正面からとりあげられることのあまりない、でもだからこそ、見る者が見ればいまだ鈍く静かに輝いている書き手のひとり、ではある。

 とは言うものの、このアンソロジーに収録した中山正男などとは違い、名前としては無名どころではなく十分に知られている。いや、ある意味知られすぎているからこそ、いわゆる「文学」からすれば、理屈以前に感覚的に肌になじまないところがあるらしい。それは単なる小説家、「おはなし」文芸の作家というだけでなく、その作物が名前と共に映画その他に自在に転生していったこと、そしてまた、そもそもの作品自体が同じ「おはなし」創作の世間においても横断的にさまざまなジャンルにまたがりすぎていたこと、つまりそれだけの汎用性が通俗性と共に備わっていたこと、などが大きな理由なのだと思っている。多作で作品数がめったやたらに多く、しかもそれが紙媒体だけでなく映像その他の新たな媒体にまで縦横無尽に勝手に転生してしまっている、そういう当時の大衆社会状況下の文芸読みもの市場の拡大伸長に同調した「作家」になってしまっていたからこそ、容易に全貌も把握できず、またそれまでの「文学」のものさしで測ることもしにくい、つまりは器がでかすぎてそれまでの「文学」の間尺ではとても手に負えないものになっていた、ということらしいのだ。

 そう、先日急逝した鳥山明が「まんが家」とだけ語ってすまされなくなっていったのとおそらくよく似た事態が、その頃、戦後から高度成長期にかけての「おはなし」創作稼業にも、実は起こり始めていた。松本清張司馬遼太郎、あるいは柴田錬三郎五木寛之などもそういう当時はっきり姿をあらわし始めたそのような「器のでかい」もの書きの仲間だったのだろうが、彼らに比べても藤原審爾がさらにいわゆる「文学」から距離のある存在に、たとえ結果的にせよなっていった印象があるのには、またもう少し別の理由もあったようにも思う。そういう意味では、たとえば富島健夫などと近い書き手なのかもしれない。思えばこのあたり、ジュニア小説の創生期であり、またいわゆるSF系読みもの市場が大衆化してゆく揺籃期でもある。それら「文学」ならざる新たな読みもの文芸、「おはなし」商品の裾野の拡大が急激に起こってゆき、その後ジュヴナイルからコバルト文庫、少女まんがからファンタジーなどをその時代その時代の市場の求めに従いつつ縦横に経由しながら、さらにゲームやラノベその他、いずれ〈いま・ここ〉と地続きの本邦「おはなし」商品の未だ可視化言語化されざる歴史ではあるさすがに近年、今世紀に入るあたりから少しずつ、草の根的な拡がりの裡でそれらを掘り起こす作業も進められているようだけれども、いずれにせよ、いつかは本邦日本語を母語とする言語空間における「文学」の、その本来の意味での内実を穏当にアップデートしてゆく作業に、そのための方法論も含めて収斂させてゆかねばならない、世代を越えてなお継承されてゆくべき大事なお題なのだと、割と本気で思っている。

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 閑話休題で、そんな藤原審爾「安五郎出世」に戻ろうである。

 山田洋次の初期の量産フィルムでいずれもデキのよかった「馬鹿シリーズ」の中でも、屈指の仕上がりだと信じる「馬鹿まるだし」という逸品がある。その原作というか下敷きとして、この藤原審爾の「庭にひともと白木蓮」というのがクレジットされているのだが、それと共に、映画の筋立てに寄与しているのがこの「安五郎出世」でもある。いかん、この藤原審爾という書き手にちゃんと腰据えて向かい合わねば、と思うようになったのも、白状すればそのような経緯からだった。

 「庭にひともと……」と同じく、「安さん」と呼ばれるキャラクターが使い回されている。このへん先の長谷川伸の「くノ一」や中山正男の「米次郎」ではないけれども、書き手にとってどこか手にあった、望ましいたたずまいを宿した登場人物の造形が繰り返し変奏されつつ姿を現わしている。それは、いわゆる純文学系「文学」の創作作法でもあることだろうが、それ以上に、このような世間一般その他おおぜいの想像力と共鳴、反響しあいながら何らかの「おはなし」世界をつむぎ出してゆくようなタイプの書き手にとっては、なおのこと珍しくない、創作の上でのある意味種必然なのかもしれない。

 とは言え、ここも映画の「安さん」(ハナ肇が演じている)とは肌合いが異なり、同じ「おはなし」世間、いずれつくりものの「おはなし」世界に生きる存在ではあるとは言え、明らかにその「ああ、こういう人って現実にいるいる」と思わせるような、その思わせ方の手管が違っているように感じる。それは、表現媒体の違いによる〈リアル〉の生成、立ち上げの過程に根ざして影を落としてくる部分なのだろう。

 このへんの事情については、自分も以前、おぼつかぬながらも少しほどいてみたことがある。*2

「「安五郎出世」は「庭にひともと白木蓮」より前、1952年(昭和二七年)に単行本として出された作品。舞台の設定も瀬戸内沿岸の小さな村、主人公の「四千七百余人の村民から「昭和の次郎長親分」とうたわれた」安五郎親分という名前も、そのキャラクターも「庭にひともと白木蓮」のあの安さん、松本安五郎に通じる「異人」です。

「安さんは、恰幅もよし、眼光に力があつて達磨みてえで、ぼつこういける顔じやけえど喃、その眉毛の八字が、ほんまに、玉に瑕じやあ。」


「八の字に先太に下つた安五郎親分の眉毛は、充分に人間の限界と宿命を感じさせるに足る、いたましい欠点であつたらしい。凄んでみても、その八の字の眉のため、てんで睨みが利かなかつた。凄むほど、ちよろ甘い三下奴のような、頼りない顔になつたそうだ。」

 瀬戸内沿いの僻村の西浜という部落の水道工事の人夫として村にやってきた安五郎は、同じ工事請負いの職人仲間からも単純作業専門の人夫と軽んじられ、その顔のつくりや表情、ふだんの物腰などから「馬鹿」扱いされ、ものの数として扱ってもらえない。そんな彼の隠れた真価を早くから見抜いていたのが、彼らが宿舎にしていた寺(浄念寺という名前も「庭にひともと白木蓮」と同じ)の寺男の唖太という、これもまた文字通りの唖で知恵遅れで小柄な男ながら怪力の持ち主という「異人」的存在。水道工事の請負にまつわるちょっとした労働争議的な騒動が起こった中、安五郎が唖太と共にスト破りのような独断専行で、工事で作ったため池の決壊を防ぐのがクライマックスで、このあたりの結構はもちろん「庭にひともと白木蓮」にもよく似たものになっていますている。ちなみに、 この「安五郎出世」は森繁久弥主演で映画化されていますがるものの、大して話題にもならなかったのか、未だにビデオ化その他はされていませんない。なので実際の映像は未見なのですが、残されている資料で推測する限り、元の小説からはかなりかけ離れた物語になっていたようですだ。

 確かに、山田洋次が「馬鹿まるだし」で造形した、映画の話法に沿った「安さん」に比べて、この藤原審爾の安五郎は、ありていに言ってなまなましい。民俗的なレベルにまで届くような型通りな「馬鹿」として描かれてはいるあたりは同じでも、藤原版「安さん」には仕事仲間の土工たちがいて、村人たちにとっては同じ「よそもの」である彼ら同士の認識の裡でも一段下手に見られている。

 「すれつからしの渡り人夫など、だから、からつきし力も意地もない男だと、はなから安五郎親分を鼻であしらつた。一人前の人夫とはあつかわず、日当も八分だつた。仕事も左官なら徒弟の役の、セメントと砂を水でこねまぜるのばかりやらされておった。」

 「よそもの」同士でも余計者扱いされて疎外されている、それも含めて村人たちの視線がさらにとらえて評判してゆく、そんな二重の「異人」生成の「おはなし」空間ができていることが、おそらく当時の現実の村の情報環境に即して正確にとらえられている。そのあたりは、同じ「馬鹿」でも村人からの見られ方だけでキャラが規定されていて、それだけ通俗的な意味では「おはなし」空間の成り立ちがより単純に、平板になっている山田洋次の映画版「安さん」とは違う。

 さらに、その「馬鹿」に唖で怪力の「片輪者」が相棒的に寄り添ってくる。「安さんの人物器量を、村で真先に見抜いたのは、意外にも、浄念寺の庭男の唖太だそうである。」最初、寺の五右衛門風呂で出会い、事情は傍目からよくわからないながら、とにかく肝胆相照らす仲になった。安さんが期せずして「安五郎親分」と持ち上げられてゆくことになる、その過程でも、この唖太(ああ、文字通り!)が、安さんともども二重に共同体から疎外された「異人」として、大きな働きをしていることがちゃんと描かれている。

 この唖太の存在とセットで描かれることで初めて、「馬鹿」としての安五郎のキャラは「おはなし」のたてつけにおいて、より立体的になってくる。生身である以上あたりまえにまつわってくる性的存在としての実存についても、村人たちの噂話という「おはなし」空間を介した話法によって、より解像度高く浮かび上がってくる。映像表現よりも文字を介した散文表現の特性を期せずして反映しているのだが、まただからこそ、彼らのような者たちが現実の世間から二重に疎外されながらも、それでもこの同じ世間の裡に生きてあることの〈リアル〉について、「そういうもの」としての切実さを伴いながらこちら側に響かせてもくれる。このように、同じ「馬鹿」というキャラのありようを映画における山田洋次版と比べることで、映画のような映像表現だからこその不自由、制限というものにも裏返しに思い至らせてくれることにもなる。*3

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 もう一点、指摘しておくべきだろうこと。この作品世界が「地方」を、それも敗戦後まだ間もない時期のそれを背景になり立っていて、それはそのような「地方」をあらかじめ相対化して見ることのできる意識の側から「おはなし」として言語化されていること。そしてそのことによって、「笑い」「ユーモア」といった属性を初手から仕込まれるかたちで、「おはなし」はその当時の読み手の最大公約数のリテラシーにより読まれるべきものになっていたらしいこと。

 当時、量的にも質的にも日本映画の商業的な黄金時代であった分、原作や原案といった「ネタ元」として「おはなし」商品は実に便利に使い回されるコンテンツになっていたが、それにしても藤原審爾作品の重宝のされ方はちょっと突出して目につく。名前だけ「原作」「原案」などとクレジットされていても、シナリオや脚本にコンバートしてゆく際には基本的に何でもあり、割と好き放題に書き改めるのが当時の常套手段で、また原作者にあたる立場からもいちいちもとの作品との照応関係などをうるさく言わないのがあたりまえだったらしい。そのへん著作権などの法的環境がいまとまるで違う背景での「原作」「原案」沙汰ではあったのだろうが、それにしても使い回しやすい条件というのも狙われる作品にはあったはず。そういう意味では、藤原審爾以外に有馬頼義なども個人的にはちょっと注目している書き手だったりするのだが、それはともかく、いずれにせよそれら当時の映画の「原作」「原案」として重宝される作品の条件に、「地方」を対象化して「笑い」属性で描写し、語り直しているもの、というのはひとつあったのではないか。特に、狭い村の裡で互いの評判、人物月旦がうわさ話を介して「おはなし」の〈リアル〉として流通してゆく仕組みと、それら「おはなし」を軸に村人たちが右往左往するありさまを「笑い」を介して対象化し、解釈してゆく作法は、同じそれらを「残酷」「悲惨」といった属性を介して対象化し、解釈してゆく作法と共に、当時の世間一般その他おおぜいにとっての「おはなし」受容の裏表、〈いま・ここ〉の現実と距離をとって「おはなし」としての〈リアル〉を受容してゆく際の基本的なリテラシーになっていたらしい。たとえば「戦争」であり「地方」であり、そのようないずれ同じ現実、同じ主題も、「喜劇」と「残酷」の両面から解釈され得るし、商品へと変換されて流通されてゆくそれらは、共に同時代の〈リアル〉として「おはなし」のたてつけを介して当時の世間に受容されてゆくものだった。

 藤原審爾のような、当時新たに出現し始めていたような「器のでかい」書き手は、単に書きことばとしての文字の散文表現だけでなく、語られた現実、話しことばを介して「おはなし」へとコンバートされてゆく眼前のできごとや日々の見聞から共同性の裡につむがれるように宿ってゆく〈リアル〉についても合焦し、書き手としてある程度まで自覚的に方法化していたのだろうと思う。彼自身、小さい頃に住んでいたという岡山県備前方言の調子をとりいれた話しことばを駆使していることは、あくまで創作でありつくりものであるという態をとるこの「安五郎出世」を、単にちょっと変わったユーモア小説、「軽く」読み飛ばせる通俗読みものとして読むだけでなく、たとえば民俗誌的な事実、ドキュメンタリー的現実を描写したものと読むリテラシーともおそらくは地続きの、新たに開かれ始めた同時代の「器のでかい」読書空間に導いていっただろう。

 そのように考えてゆけば、長谷川伸が後進の若い衆世代のもの書き志望たちと共に定期的な勉強会を開いて、そこから巣立っていっぱしの作家になった者たちが多くいたのと同じように、この藤原審爾も、ありようは異なれどそのような集まりを開いていて、山田洋次色川武大などもその仲間だったということもまた、あらためて考えてみる必要が出てくる。それらがまわりからは「長谷川部屋」「藤原学校」などと語られていったことも含めて、同人誌的な半径身の丈の関係と場のつくられ方、そこでおそらく「朗読」を介して「おはなし」としての作品が共有され、その上でさまざまな批評やコメントが交錯していただろうことの意義や役割についても、情報環境と言語空間、耳を介したリテラシーのありようなどを補助線にしながらほどいてゆける。

 ある一つの作品が、異なる媒体へと転生していった先でどのような読まれ方、受容のされ方をしたのか、そしてそれがまた当時の読み手たちのリテラシーにどのようなフィードバックをもたらし、もとの書き手やもの書き渡世の現場にもまた、市場というたてつけを介してどんな刺激を与えて、また新たな創作、「おはなし」商品を産み出してゆく培養基になったのか――枯渇し、干からびきったかに見える「(いわゆる)文学」の内実を〈いま・ここ〉へともう一度紐付けていきいきしたものにしてゆく作業は、こんな片隅の趣味道楽に等しい手間仕事の、愉しみながらの積み重ねからこそ始まってゆけるはずだ。

*1:分量多いので手直しを、との指示で、以下、薄墨部分を削除、その他いくつかの個所を修正などして整えた。……240411

*2:king-biscuit.hatenablog.com

*3:king-biscuit.hatenablog.com

解説・富士正晴「童貞」

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 書き手としての富士正晴というのも、これまた、なかなかに好もしい。いや、それどころではない、すさまじく、かつ手に負えない。それでいながら、なお好もしい。そういう書き手は、いや、ほんとうに稀有なのだ。

 男の側から性欲というものを言語化して記述することの困難、そしてそこから発して、性的存在としての人間存在そのものについてのあるどうしようもない本質、個別の個体としてだけでなく類として通底してしまう現実の水準まで含めて規定されているらしい領域までも一瀉千里、一気通貫の見通しよさで視線を届かせ、それをなお眼前の挿話のたてつけにあっさり組み込んでしまう。まして、ありがちな一般論や抽象論ではなく、どこまでも読み手をも含めたその他おおぜいに開いた「自分ごと」として、ということまでを実際にやってのけているというのは、こと日本語を母語とする間尺に限ってみても、その間、実に気が遠くなるような難儀や面倒がその「書く」という作業にこってりとまつわっていることが見てとれて、たとえ思いついたとしても、おいそれと手がけて問題にしたくもないというのが普通だろう。

 だが、それをわれらが富士正晴ここでさらっとやってのけている。しかも、それを旧帝国陸軍の日常、あの内務班ベースの人間関係と場という書き割りにおいて。そしてさらに、それを「おはなし」(だろう、やっぱこれも)のたてつけに盛りつけながら、いずれ多種多様、文字通り何でもありにとりとめないこの現実のひとりひとり、個別具体の生身をはらんだ読み手の茫漠の側にとにかく有無を言わせず腑に落とし、骨身にしみさせて、結局のところは日々生きてゆくべき滋養にさせてしまう。こんな凄い丹精の結実は、すさまじく、かつ手に負えない好ましさ、まずはそう言い棄てておくしかないじゃないか。

 思えば、「戦争文学」というもの言いも、戦後の過程で一時期、さまざまに使い回され、あれこれ言及されていた。いまもなお性懲りもなくそのままお題にしている向きも何らかの思惑と共に、まあ、あるらしい。だが、少なくともそれら言及の枠組み自体がすでに歴史の過程に織り込まれつつある時期にさしかかっていることに正面から対峙し、その上でなお、その事実を穏当に留保しつつ、自ら手にあう方法をなお誠実に編みだそうと格闘しているものには、寡聞にして未だそれほどお目にかかったことがない。それは、本邦いまどきの「文学」というものが、すでにそのようなものでしかなくなっているからだろう。

 だが、そんなことはどうでもいい。こと自分自身にとっての「戦争文学」というものが、単に戦争を、戦闘を、戦場を描いた表現や作物といったくくりとは別の水準、ある種の切実さと共にわれら人間存在の本質に交錯すると感得させられる、そんな〈リアル〉の触媒としてあり得るのだとしたら、たとえば、この「童貞」などは真っ先にあげておきたい、言葉本来の意味での本邦のすぐれた文学作品のひとつである。


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 昭和期の旧陸軍で初手から純粋培養されたかのような若い「気合いのかかった」伍長に、敗色覆いがたい戦争末期、何かの間違いで動員されてきてしまった、いずれものの役に立ちそうにもない老兵たち。つまり、当時の世間で普通に暮らしているおとなたちなわけだが、そのような世間と軍隊との対立が、まずは皮肉な形であらわになる設定。その若い伍長が戦地での経験に加えて、日々下士官と兵隊という関係の中で、いずれ内地の世間ずれした部下の老兵たちの普通のおとなの実存を介して、性的存在としての自分にうっかりと気づいてしまう。その予期せぬ煩悶が、結果としてどのような行動に彼を導いていったのか、それをその場の余計もの、つまり老兵でなおかつ役立たずな兵隊しての立場から淡々と、しかし自分も含めた内地の世間にあたりまえにある「掟」にも親しい種類のどうしようもなさを共に自覚し、おのが身の裡に抱えながらなお、じっと凝視してゆく。

 世間においては世慣れたおとなであり、その限りでいくらでもそこらにいた世間一般その他おおぜい、まさに庶民であり常民の最大公約数でもあったような無名の兵隊たちが、戦地で実戦に際して垣間見せてくる、そのあたりまえな世間並みのおとなとしての所業の裡に、掠奪や戦地強姦など、普段使いとは別の語彙、異なる響きの言葉でくくられ隔離されているはずの現実もごく地続きの自然として平然と立ち現れる。

 軍隊という空間で純粋培養されてきた伍長は、そのような地続きにあらわれてくる現実の見慣れぬありようを目の当たりにしてゆくうちに、異性としてのおんながわからなくなる。結果、そういうものという「掟」をなぞってみるかのようなぎこちなさで、おとなの老兵たちに唆されるように戦時強姦を行ない、しかし事後、その女を衝動的に刺殺、それを契機にそれまで連れて歩くようになっていた戦地で拾った中国人の小童をも打ち棄ててゆくようなある種の荒み方、異なる性を持つ女の存在をはじめて自分ごとの客体として発見させられることで、人が本来「ひとり」であることへの目覚めをようやく見せ始め、懊悩するようになったたあたりで、平手打ちのように終わりが訪れる。

 「軍公路から右手に少し上ったところの民家から一筋煙が上った。中国兵二、三人が山へ走り上るのが見えた。中隊がその前を通りかかると、激しい砲声がした。迫撃砲だと思って、公路の左手の土堤に伏せた。公路の表面が急に暗くなった。砲声はつづいた。空を仰いだものは絶望で青ざめた。空一面にまるで鳶が舞うように手つき手榴弾が浮んでいた。やがてそれらは次から次から爆発しながら落下してきた。はらわたをひきずりながら馬が走った。一時間も時間がたったかと思った。増原伍長は鳩色のオーヴァのまま横倒れになっていた。軍帽をつらぬいた爆こんから血が少しにじみだしているだけであった。」

 そして、この終幕の静謐の刹那に、「そういうもの」としての世間のはらむ情け容赦のなさが、慈悲の一撃のように、はたまた路傍の花をたむける供養のように、くっきりと刻まれる。ほら、なんとまあすさまじく、手に負えず、でもやはり好もしい、ではないか、世間は、そしてそのおとなというやつは。

 「つまりあれはやはり童貞の魂しか持っていなかったのだなとわたしは思った。」

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 もちろん、これは戦争を、その現場を描いた作品である。その限りで「戦争文学」とみなされてきたし、そのことはひとまず間違いでもない。
 初出は昭和27年の同人誌『VIKING』だが、12年後の昭和39年、未來社から『帝国軍隊における学習・序』という表題の単行本収められ、これがまるごと直木賞候補に。しかし、当時の選評を見ると、一定の評価はあれど、「直木賞とは無縁の作品」(源氏鶏太)「直木賞の世界のものと考えるのに難渋する」(大佛次郎)「こういう傾向の作品はもう沢山だという気がする」(村上元三)と、かなりの外道扱いで選に漏れるのだが、それでも折りからの高度成長期で「戦争文学」というくくりでの戦争体験の語り直し、無意識裡も含めての再話と見直しの流れが、当時拡大を続けていた「おはなし」読みもの文芸系の出版市場に受け入れられたこともあり、「戦争」「戦後」「証言」といったくくりでのアンソロジーなどに再録されてゆく。もっとも、いわゆる文学作品というよりはある種の記録、ドキュメンタリー的な意味づけをされていったようであり、まただからこそ、旧来の文学作品とは少し別の読み手たちと邂逅する機会も多かったかもしれないのだが、それはともかく。


 「わたしは一兵卒として野戦に送られることになった。」

 この一文以降、書き手とおぼしき老兵「原」の、送られた先の戦地での見聞を素材にした部分が、この作品の「おはなし」としての本体になる。形式的な筋立てとそれを骨とした「おはなし」の組立てにおいては、なるほどそういう見られ方にもなるだろう。
 ただ、そこに至るまでの問いの提示の仕方、まあ、ひとまず「主題」と言ってもいいだろうが、そういうものを読み手の眼前にそれとわかるように整えてゆく段取りにおいて、実はなかなかの心づくしとあざとい仕掛けがないまぜに準備されている。このあたりが、この書き手富士正晴のなにげない本領、「おはなし」の皿に盛り方に関する、語り手としてもまた厄介な手練れであるところなのだ。

 よろしい、説明してみよう。
 作品自体は全体で12章、いや、章というほど意図的で明快なものでもないのだが、まあ、そういう区切りが番号で振られていて、そのうち最初の3までがいわば前菜、オードブルで、ここですでに全体の「おはなし」の味わい方がきれいに方向づけられる。つまり、読み手という客はこの段階でもう、おのが食欲だけでなく、そもそもその「食べる」ということについての身構え方からそうすることの気分に至るまで、そうと意識せぬうちにしっかりとこの亭主、書き手の思惑に沿ってきれいに整えられてしまうのだ。

  1 知り合いの医者と、ダンサーの話。
  2 宇品港での出征兵士たちと、分宿の宿舎を提供した家の未亡人の話。
  3 革命家のハウスキーパー、そして彼らにアジトを提供した指導者の女房の話。

 いずれもそれぞれ書き手とおぼしき「原」の一人称の視線で語られる独立した挿話ではある。細部はそれぞれ確かめていただきたいが、それらの挿話の間をつなぎとめている何ものかが、その後の読み手の意識を着実にある方向に整えてゆく、その道行きを先導してゆく語り口からしてすでにもう、何ともすさまじいのだ。

 たとえば、こんな具合に。

「週末に近づくと僕の腰は重く充実してきてどうにもやり切れなくなってくる。ひたすらその腰の重味を放射して身を軽くする穴をさがしたくなってくる。だから、看護婦の腰ばかりに眼が行ってしまう。眼をそらしていたって、こころが電気の放射のようにそこへ集中してゆくから向うには判るし、お互に照れくさい話みたいなもんだ。ところが僕はその腰しかいらないんだが、悪いことに腰には手も足も胴も頭も、尚悪いことには心までくっついていて切りはなすわけには行かないんでしょう。だから、僕はそこを辛抱しておしきって了う。」

「一体婦人というものが若い男性の、しかも軍人特有のあの質朴らしく男性的にきっぱりとよそおわれた言葉によってあしらわれるのは、戦時中ならずとも、こびられていることになるように思われるが、これは戦時中のことであるから言わずものこと、真正面きってづけづけと彼女の胸のあたりか腰のあたりに眩し気に(と、若い兵卒達のはげしい情慾と悪知恵の中に残されていたかもしれぬいささかの純情のためにこう言ってやりたいのだが)からんでゆく視線がいささかは彼女を得意にさせはしなかったか(ほんのいささか、そしてほんの少しの意識に残る程度で)とわたしは想像する。」

「わたしは、人の心の信じ難さを言っているわけではない。そのようなことは珍しくも悲しくもない事柄である。ただわたしは性慾そのものにからみあって、とてもときほぐせないあのいささかは血なまぐさくある悲しさが悲しいというよりは怖ろしいもののように当時感じられた。(…)女を襲いそれを犯すということは男にとって寧ろ手柄話の気味を帯びるものであることがわたしにはこわかった。そのくせ、わたしは女を襲いそれを犯すということをしなかったわけではない。ただわたしはそれによって手柄話の一つを加え得るような心理にならず、むしろはかなさを切実に感じた。犯した自分も犯された相手もはかないものに見えた。」

 このような、挿話の随所に差し挟まれる加速装置のような一節、語りものなら引きごと、浪花節ならおそらくタンカにあたるようなアクセントを伴う道行きの果てに、読み手は「おはなし」の本体へと初めていざなわれる。え、まだ先があるのか、つまり「まくら」だったのか、これらのすさまじくも、しかしどうにも手に負えない好もしさの散文表現は。

「戦時強姦をしないという決心は1より3迄の話の後の私の結論ではあるが、決して倫理ではない。むしろ好みと言ったものだろう。わたしはこの自分の決心と規定を或る程度守った。そうして今、一九五〇年の今、日本に生きて、小説を書いているわけだ。」

 そう、そうなのだ。ここまで周到に下ごしらえをした上で、ようやくここで初めて、戦時強姦というむくつけで他人ごとなもの言いが、身の丈にあった内実を伴う要石としてわかりやすく置かれ、そして、満を持してこう白す。

「わたしには戦争中からこころにこびりついて離れない一人の下士官の姿がある。その姿をわたしは書きあぐんで現在に至った。それはここまでの前書を書いてはじめて書けるのだという気がするが、他の才子ならばあっさりと次の章より書き得るかも知れない。」

 以下、紙幅にも限りがあるゆえ、その下士官、増原伍長を主人公にした「おはなし」の本体はそれぞれ味わっていただくしかないのだが、大事な補助線となると思われる要点を走り書きながらあげておくので、参考にしていただければ幸い。

 増原伍長は「美少年」だったこと。「わたしは必ずしも美少年趣味を解さぬのではない。わたしは昔或る天才的な少年の顔を愛した。そしてまた増原伍長の鄙っぽい紅顔を愛すべき美しさと感じなかったのでもない」と言い、その歴然とした類似として「鄙っぽい美しい症状のもつようなのびのびした眉毛と澄んだ瞳といくらか眼の付近に雀斑がちらばってありはせぬかという感じ、きゅっとしまりのある小さな唇、柔かみを帯びた紅い頬、そうしたなかに何か期するところのあるような自恃と積極性が照りかがやいていた」と描写してみせ、さらに「二人の肉づきがいくらか女性的な線をもっていた」こと、「柔かい尻をしていた」こと、「どちらも煙草を好まず、どちらも異常に純潔な感じがある。それは処女のような純潔さとも言えようが、増原伍長の場合、アマゾヌの娘の純潔さと言った方が良いような、殺気めいたものがともすればただよった」ことなどにも至る筆致は、眼前の事実としての造形描写の細部への合焦度がずば抜けて精緻であること。そしてその精緻さは同時に、のちに野戦で拾った中国人の小童をフミと名づけて連れて歩くようになる段においても平等に発揮されることている。

「次の日からフミは増原分隊で自分の家庭にいるものように振舞っていた。衣裳はすべて変えられていたし、手首と足首には鈴のついた金色の輪を何筋もはめて、裸足で勢よく歩くにつれて涼しい音で鳴った。それらのものを増原伍長は見つけて来てフミに負わせていたのだ。昨日のあの泣き顔はぬぐったようになくなり、負けん気の強い聡明らしい口調で、早、同国人の軍夫たちに指図をさえしているのだった。」

「その時わたしはフミのその態度から、容貌や体付また性格まで増原伍長といわば相似形のように相似していることを感じたのだった。怖らく伍長自身はそれに気付いてはおるまいとわたしは思った。増原伍長がそれをさとった瞬間にはただちにフミを自分の目の届かぬところに捨てるであろうと思えた。或いはフミをこの世から消滅させるであろうと思った。」

 性欲、あるいは性的衝動と暴力の関係、男の性的衝動が個体としての個人の輪郭の裡だけにとどまらず、ある関係性が変数として一定の作用をすれば、その場にまで浸透、共有され増幅すらされた上で荒れ狂うに至る、というおそらくは性的存在でもある人間存在のある本質と、それゆえに、戦地の最前線で部下としての老兵たちの抱える半身、軍隊と合わせ鏡のような銃後の世間に棲むおとなの「そういうもの」からじわじわ苛まれ、浸食されながら、その少年性をどんどん尖鋭化させられてゆくしかなかった増原伍長をめぐる「おはなし」は、戦時強姦や徴発、掠奪といった「戦争文学」の当時の定型の「主題」とみなされるようになっていった水準での通俗的理解のさらにずっと向こう側、あたりまえの世間にも共あるそれら性と暴力、性的存在としての領域も否応なしに伴わざるを得ないわれわれ人間存在の本質についてまで、文学本来の器量によって作品として形象化し、見事に届かせ得ることの稀有な証左になっている。

*1:分量多いので手直しを、との指示で、以下、薄墨部分を削除、その他いくつかの個所を修正などして整えた。……240411

解説・中山正男「豚を把んだ男」

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 中山正男といっても、覚えている向きはこの令和の御代、まずないのだろう。ましてや「文学」の世間では、さらに輪をかけて見事になかったことにされているはず。事実、今回この企画で採る作品の版権処理をしてもらう過程で、この中山正男だけは著作権を持っている遺族の所在がわからなかったという。

 だが、「馬喰一代」といえば、あ、どこかで耳にしたことが、という程度の人がたは、ある年輩以上ならまだ本邦にはいらっしゃることと信じる。なにせ、三船敏郎志村喬京マチ子という、戦後の日本映画のとんかつ定食のごとき盤石の配役で映画化され、当時それなりのヒット作となって人口に膾炙した「おはなし」ではあるのだからして。

 北海道は北見地方の出身。自らの生い立ちを下地に「おはなし」に仕立てた一編だった。売れたことで続編も数作出しているし、その後も求めに応じてだろう、小説というか、大衆読みものとしての創作を彼の手癖のまま、それぞれ世に残してくれてはいる。しかし、今ではもう振り返ってあらためて読もうという人も、まずいなくなっているようだ。この「豚を把んだ男」も、そんな彼の掌編中の一編。

 「馬喰一代」の主人公、米太郎が彼にとっての英雄であり、雛型としての「父親」造形だとして、先の藤原審爾の安五郎のように、繰り返しその人物像、今風に言えばキャラクターが作品の中に姿を現わし、闊歩する。ここでもまた、その基調は変わらない。

 この米太郎、実際の彼の父親がモデルだということは早くから明らかにしているし、作品を読んだ者なら誰もが明らかにいわゆるつくりもの、絵空事ではない印象を受けただろう。何より、「馬喰一代」自体、戦前は昭和17年平凡社から出した、「自伝小説」の角書き風標題も微笑ましい「北風」が下地になっている。

 この「北風」、単行本の序には下中弥三郎自ら堂々ほめちぎっている。これは親しかったという作家のひとり尾崎士郎が、彼の生い立ちを雛型にした「春の原始林」という作品を書いたのに刺激されて、当事者としてひとつ書いてやろうと腕まくりしたという代物。とは言え、彼自身、すでに南京攻略戦に取材した「脇坂部隊」という作品で、書き手としてそれなりに名を挙げていたので、そういう意味でも時代の寵児的な一角にはいたのだろう。なんの、当時の世間の認識としては、立派に「作家」のひとりだったはずなのだが、それが戦後になって一転、「外道」「よそもの」扱いにされたのは、いわゆる戦争協力者のひとりとして認識されていたことが大きかったのだろう。戦時中、陸軍画報という陸軍新聞班肝煎りの、いわば御用広報媒体に関わったり、それなりに華々しく実直に時代に棹さして生きてきた分、敗戦後の反動は厳しく、公職追放されて世間的なつきあいから疎外されて鬱々とする時期も経験している。

 「追放と同時に彼の築いていた一切の足場が崩れて、彼にいままで親近していた多くの人々が彼を裏切ってどんどん背反していった。(…)ある者は彼から贈られたインクスタンドにペンを浸して彼の悪口をラジオドラマにつくりあげたり、彼が彼の血涙の歴史で築いた雑誌社の部屋の権利や振替や第三種や紙の實績を、そのまゝ無償で贈ったのにその恩義にむくいる何物もなく、かえつて犯罪人の親の名を秘すように遠ざかつている。」

 このあたり、大宅壮一岡正雄など、立ち位置は異なれど、戦時中の世渡りにおいて世代的に共通する者たちの、戦後の身すぎ世過ぎのひとつの事例としても興味深い。*2

 いずれにせよ、そこではこの米太郎という父親像があきれるほど見事に輪郭太く描き出されていて、それは臆せず通俗の側に全力全面投企した潔さゆえなのだが、だからこそ、書き手自身が文筆に志した者ではないという、経歴その他からのある意味勝手な判断と共に、いわゆる「文学」世間からは縁ないものと判断されたのだろう。つまり「外道」であり「よそもの」である、と決めつけられたわけだ。しかし、オビや広告の惹句、あるいは先の下中弥三郎以下、大宅壮一尾崎士郎など華々しい推薦人の連名やその文句などを眺めると、当初からいわゆる創作というよりも作者自身の生い立ちをもとにした実録、言わばドキュメンタリー的な評価をされていたところもあるらしいことが見てとれる。

「本書はわが親愛なる中山正男君の父親の特異な性格と、その人生態度を一つの小説形式に書きあげたものであつて、私も昭和二十年の冬、彼米太郎と面接をしたが、その野性と直情は、近代人の眼にはまことに一挙一動變異な動物、いな原始的な風貌をもって迫ってくるであろう。」(大宅壮一)

「彼は勿論、文學の徒でもなく、文筆を業とするものでもない。しかし、唯、彼が止むに止まれず、筆から點滴のしたたり落つる思ひで書き綴る文中には、珠玉のような文學の一断片を生むことがある。(…)本書は中山君の父に贈る親孝行の書である。又人情豊かな体温を感ずる一つの肉体文學であるかもしれない。」(榊山潤)

 戦後の言語空間で「文学」「小説」の意味あいがそれまでと大きく変わり始めていた頃の事情も透けて見えて、これはこれでまた別途、考察するに足るお題ではあるだろう。

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 この「豚を掴んだ男」は、いくつか版元を変えて出された単行本『馬喰一代』の、昭和27年日本出版協同株式会社版の中に収められた番外編というか、本編の後日譚のような色合いのもの。その素材的なものとして「米太郎の近況」と題したエッセイ風の短文がその前、昭和25年都書院版『馬喰一代』の末尾に「附記随想」として掲載してあり、その一部分をふくらませて作品化したらしい。

 「馬喰一代」本編のその後、作者が房総半島で世を忍んで帰農しながら雌伏していた頃に時期は設定されている。父米次郎もすでに老境、ひとり北見で独居しているが、息子の苦境も共に救わんと、当時息子の手がけていた豚飼いの仕事に四苦八苦する彼の苦境を見て、「おめえは金もうけにかけては、三文のねうちもない奴だ」とかねがね息子を嗤い飛ばしていた馬喰稼業の欲目が頭をもたげ、子豚百頭を神戸まで貨車に積んで売りに行くことを企てたのがことの始まり。

 「馬を買うには金が少し足りなかつたんだ。それにこの頃は木材景気で、ちょつとした輓馬だつて十萬二十萬という馬廉値をよんでいるときに一頭位いの馬車馬をころがしたつてそんなにもうけがでるもんじやない。そこで考えついたのが豚商いだ。去年の暮にお前も知つているあの森の十蔵が神戸まで積んでうまいことをやつたんだ。いつぺんに三十萬とこ儲けやがつた。お前は追放になつて、まあ木から落ちた猿同然だし、おれでも稼がなかつたら大勢の孫を養いかねるのだと思つて、すこしあせつているときだつた。」

 神戸へ豚を積みたいという企てを「オンネの(温泉町)松川の倅の健」という若者に知られて、その健が巡業に来た「スリッパとか云う裸踊りの女子」、つまりストリッパーのひとりにいれあげて、その女が神戸の住まい、それもあって神戸発の儲け話という態の「ハッパ(詐欺)にかけられた」。健が持ち込んできた「ハガキには神戸三宮驛渡しで豚の子生後六十日を四千圓で買うと書いてあるんだ。「そのかわりおとつさんおれを飼人にしてほしいんだが、關西見物のいい機會だから」」と、つまりは儲け話をダシにして自分はその神戸の女に会いたいというのが、戦後派アプレゲールな若い衆とおぼしき健の描いた絵図だった。で、われらが馬喰米太郎、まんまとこれに乗ってしまった。

「そのころキタミの相場は六十日コロ(子豚)が千五百圓だから税金百二十圓と神戸までの一頭あたりの運賃を加えても二千圓はこさない。十トンワ車へ二段積にして百二十圓は押し込める。(…)一臺車二十四萬のもうけだ。」

 かくて、ガセネタの豚の売買話に乗せられ、神戸まで貨車積みで子豚を数百頭運ぶことになった、その顛末が「おはなし」の軸になっている。

「着荷と同時に取引の出来るはずになつていた當の相手が、いつまでたつても姿をあらわさず――こりゃハッパにかかつたぞ――と知つた時には、雨季の關西にあつて毎日三頭、五頭と豚が死んでゆく。朝鮮人部落に臨時豚舎をつくつて、ドブロクの粕をくわせる手筈をつけて、ようやく持久戦のかまえをたてたのだが――「北海道から病氣豚をつれてきたお父つさん」というような噂がたつて、一日一頭の賣れゆきもないという状態がつづいた。」

 結果、進退窮まって、えい、こうなったら仕方ない、「これは天理教でいう因縁というものだと。あとにのこつた五十何頭の背中へ「テンリ」と書いて神戸の町へぶっぱなそう」という了見に至るのだが、それも朝鮮人たちに交通妨害になると止められ、結局は這々の体で息子大平のいる千葉まで逃げ帰ってきたという次第。

 「おはなし」としての結構はこれだけのものでしかない。豚を戦後の世相に重ねて、私利私欲、おのれの利益最優先で奔走する「奸智にたけた豚」たちへの警句で結ぶ幕切れも唐突で、とってつけたような印象は拭えない。

 ただ、そんなことは実はどうでもいい、豚を貨車輸送する際の準備からの手順や、売買に関する細かな数字、貨車積みの道中、餌が足りなくなって死んでゆく豚を沿線に投げ捨ててゆく場面の描写、など個別具体の細部が連ねられることで複合的に醸し出してくる〈リアル〉のたたずまい、それこそが、このなんでもない小品の存在感の拠って来たるところ。そういう意味では、なるほど、現実と「おはなし」世界との紐付き具合が、同時代の読み手の裡にそれまでと少し違うありようを示し始めていたらしいことも、そこであらためて問いになってくる。 

 「おれはこの朝鮮人部落でおぼえたものは牛のはらわたに盬をつけてなまでたべることだけだつた。あとは無我夢中で、ねてもおきても豚ととつくんで豚のおそろしさが骨身にこたえた。」

 今や全国的に広まった「ホルモン」だが、これは塩ホルモンの生食。その日の朝「落とした」(屠畜した)ものでなければとても食べられるものではないし、今は食品衛生法で販売・提供することは禁じられている。自分は以前、ご当地北海道は某牧場の場長みずからさばいて秘伝の塩ダレで味付けたものを食べさせてもらったことがあるけれども、根っからの道産子で北見の馬喰米太郎ですら、この当時はまだそのような食材も食べ方も知らなかったということになる。

 同じような意味で、「テンリ」と描かれた豚を神戸の街に追っ放す、という発想にも、日本映画黄金時代のフィルム、「豚と軍艦」のラスト、トラックから放たれた豚の群れがヨコスカの街路を縦横に疾駆し占拠するシーンの、おそらくは共鳴し得る何ものかを熱っぽくはらんだ幕切れがイメージとしてはらまれている。あとさきの関係だけを詮索するのは野暮だけれども、映画は昭和36年、この小説の発表後10年たってからの公開だから、特に裏づけなどはまだとっていないけれども、あれを撮った今村昌平がどこかでこの中山正男流の豚の群れが疾走するイメージを眼にしていた可能性はあるだろうし、またさらに言えば、この「豚群疾走」という原風景自体、またその他の創作物に当時、いくつか同時代的に多発していたかもしれないことも含めて、これまた今後のお題の引き出しに入れておきたい。

*1:分量多いので手直しを、との指示で、以下、薄墨部分を削除した。……240411

*2:king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com

解説・長谷川伸「舶来巾着切」

 伸コ、である。長谷川伸、である。

 文明開化間もない頃の横浜で、若い頃をはいずりまわって過ごした見聞を肥やしにして、その後、本邦世間一般その他おおぜいの心の銀幕にいくつもの「おはなし」を、共に見る夢として描き出す作家として大成したのは長谷川伸吉川英治。単に生まれ育った土地であるというだけでなく、近代が唸りをあげて世の中まるごとひん曲げてゆく、その最先端の切羽ならではの疾風怒濤と喧噪を若い頃、真っ只中に生きたという経験と見聞とが、その描き出す作品世界にある一定の倫理のような、世の中のすがたかたちを見えないところでかたどっている約束ごとのような、いずれ大きな書き割りめいた何ものかを背後に備えてゆく。それは少し横に目線を敢えてずらして焦点深度も深めにとってみるならば、たとえば、同じくその頃の本邦近代の切っ先が剣呑にぎらついていた小倉や門司、八幡や若松などの北九州を足場にしていた火野葦平以下、われらが無法松の岩下俊作など、あの九州文学人脈が好んで描いてみせたような気分にも、おそらくは近い。

 白人の船員崩れの掏摸、バブ、というのがいい。風呂に入れる発泡温泉剤じゃないぞ。おそらくはボブの訛りでバブ。19世紀半ば過ぎ、長いまどろみからうっかり眼をさましてしまった極東の島国にまで流れ着いた異人のろくでなし。とは言え、決して野放図やりたい放題な荒くれ者ではない。むしろ真逆な、線の細い思い詰めるタチの善良タイプ。もちろん掏摸は掏摸、稼業人ではあるのだが、これがどういうわけありか、死に場所を求めてハマをうろうろしているらしいのに対して、かたや、こちら同胞掏摸仲間の代表選手であるくノ一が、同じ稼業の者同士、腕と腕との勝負で対峙するという筋立て。

 「くノ一は同類から推されて、白人掏摸に大打撃を加えるために起った。彼奴は目前の代物すら芥のごとく省みない気概を胸一杯にもっていた。気概! くの一は「日本巾着切」として猛然起ったのであった。」

 この「舶来巾着切」、実は同じ題名で、この短い小説と戯曲とがある。小説が大正15年で、初出が船出して間もない『大衆文芸』。戯曲が昭和3年、『長谷川伸戯曲集(上巻)』所収の末尾には「7月作」とまで記してある。

 共に主人公は「くノ一」と綽名される巾着切、つまり掏摸だ。綽名の示す通り、女と見まがう容貌や細身の体格、このあたりのキャラ設定、実は伸コ自身の何らかの心映え、昨今のもの言いならば「性癖」とでも呼んでいいような微妙なニュアンスが揺曳していることは、はばかりながら自分もかつて拙著『無法松の影』でも指摘しておいた。まんが系の表現ならばそうだな、あの『ボーダー』のサブキャラ「クボタ」久保田洋輔を想起するような。あるいは、もっとメジャーどころなら『沈黙の艦隊』の速水健次とか。共にかわぐちかいじの作だが、細身でなよなよしてて、見てくれも「オンナのような」美貌で、でも内面は決してそんなものではなく、オス同士のホモソーシャル丸出しな関係と場においても、「変わりもの」と見られながらも正規のメンバーとして受け入れられていて、その仕事っぷりにおいては一目以上置かれてもいるという、どこか倒錯めいた雰囲気のトリックスター的なキャラクター。もちろん、同工異曲の造形は本邦「おはなし」世間を探せば他にいくらでもあるとは思うが、それでいて決まった女を持たない、「二階借りの細世帯ながら、睦み合ってくらそうと考えたことがない」「ただ茫と朧気に、巾着切渡世のはかなさを感じながら、直ぐにも破滅の闇が襲ってくるなぞとは、思いも寄らずに生きている」(「日本巾着切」)この「くノ一」などはまさに、そのような「おはなし」空間における「一匹狼」的な個性をくっきりと際立たせたキャラクターの典型であり、かつまたどこか民俗レベルにも錘鉛をおろした祖型的なものに通じる何ものかを感じる。

 伸コにはまた、これ以外にも同様の巾着切ものとでも呼ぶべき同工異曲な設定や登場人物の作物もあるから、単にめぐりあわせというだけでもなく、それくらい、当時の彼にとって何らか愛着の深い設定だったのだろう。くノ一の本名が沖伊知亮というのも、またなぜか昼間にしか仕事をせず、狙う相手も時を得顔の紳士や着飾って闊歩する裕福な連中という設定も、それら掏摸ものに登場するキャラクターとしてのくノ一には共通しているし、思えばある種のスターシステムの萌芽形態というか、自らの作品世界にお約束として登場させるおなじみキャラクターになりかかっていたのかも、と思う。それこそ、あの手塚治虫のヒゲおやじやアセチレン・ランプなどのように。

 とは言え、こういう掏摸、巾着切といった連中との実際の因縁については彼自身、楽屋裏をある程度明かしてくれている。以下、戦後に書かれた半ば自伝に等しい『ある市井の徒』から。

「酒花松夫といふ芸名の三十前らしい役者と、何がキッカケでさうなつたのか、親しくなりました。これが舞台では中年増や娘もあるちよッとした役者だつたのに、巾着切でした。」


「それから九の一とも知合ひになつたが、女に生まれた方がよかつたやうな顔立ちなので、女という字をバラすと、九とノと一になるので巾着切の隠語で女となる。それが綽名のこの男は、始めからスリだと、明かに新コに正体を割って聞かせたくらゐですから、素人の新コを、ダチに使うやうなことはしませんでした。」

 「ダチ」というのは、彼らの技法の「吸い取り」、つまりすりとった財布などを他人の懐や持ち物の鞄などに投げ入れて一時をしのぐ手口の相方として使われる人間のこと。先の酒花が、ハマの芝居小屋で新コを「ダチ」に使って窮地をしのいだことがあって、その際、彼の懐に放り込まれていた蟇口を知らぬ間に「吸ってくれた」おかげで新コに掏摸の疑惑がかけられるのを防いでくれた、その流れから巾着切仲間の九の一とも知り合いになったという次第。

「新コが作つた『巾着切の家』といふ芝居の主人公はこの男で、それに登場する隣りの声色屋は新コのこと、あれは殆ど有ったことと大同小異なのです。新コが初期に書いた巾着切物は、九の一から取材したものばかりです。」

 なるほど、そういうことか。酒花もいたし、おそらく他にも見知り越しの掏摸仲間はいただろうに、「九の一から取材したものばかり」というあたり、何か特にウマが合ったところでもあったのだろう。『ストリート・コーナー・ソサエティ』の、あのドックのように。

 確かに、この「舶来巾着切」以外にも「日本巾着切」「旅に出る幽霊」など、くノ一が主人公のものが複数、また、掏摸そのものを描いた作物なら、自身の言う戯曲「巾着切の家」や「手紙の掏摸」もあって、これも九の一は出てこないまでも、言うまでもなく、放浪時代の伸コが「新コ」であった頃、明治後半から大正にかけての時期の開港地ヨコハマの風景を背後に置いた、当時の見聞や体験を存分に素材にしたもの。実はわれらが伸コ、巷間イメージされているようないわゆる「股旅物」の大家としての手技よりも、そしてまた敗戦後、深く韜晦しながら歴史の下積み、忘れられた者たちのささやかな事跡の「稗史」を「紙碑」としてたんねんに刻んでゆくことを自らの余生の使命とした一連の仕事に比べてさえも、むしろこのあたりの文明開化の明治もの系の作品に、また別の味があったりするのだが、さて、このへんの微妙な味わいは昨今、どれほどわかってもらえるものか。

 今回、収録したのは小説版だが、ただ、戯曲版との違いはその結構だけでなく、くノ一自身の性格も実は微妙に違っている印象がある。これは舞台で「おはなし」のたてつけを具体化することと、読みものにおいて文字を介して読み手の内面に「おはなし」を立ち上げることとの間の、創作としての求めるところの違いによるところもあるのだろう。戯曲でのくノ一は、その他の伸コの戯曲の主人公たちと地続きな、ある意味定型の股旅物的なアウトローの味つけになっているのだが、この小説のくノ一はというと、より個別具体の生身の微妙な陰翳や肌理といったところが削り出されているようで、このへんは創作の形式や文体とそこに宿るキャラクターの違い、といった観点から興味深くもある。戯曲版が『少年ジャンプ』連載の王道だとすれば、この小説版は読み手を、「おはなし」としての受け手を選ぶところのあるしつらえになっている、そのあたりのほどき方についても、ここは今後のお題にしておこう。
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 ともあれ、グローバリズムだの多文化共生だのと、うわついた惹句ばかり声高にさえずりまわるばかりで、そこに紐付けておくべき等身大の〈リアル〉についての想像力から失いつつあるように見える昨今の本邦世間のガレ具合からは、ここに描かれるバブとハマの当時の世間のソリダリティは、いまさらながらにまぶしい。生前、平岡正明が激賞していたのは確か戯曲版の方だったと思うが、しかし、小説版のくノ一の、この微妙な陰翳はその視野に入っていたかどうか。特に、小説において随所に強調されているように見える、その「おんなぎらい」のくっきりとした心ばえなどについて。

 バブにとってもくノ一にとっても、生まれも育ちもまるで違う身の上ではあれど、共にこの世に生きてゆく上での「掟」はどうやら同じたてつけの上にある。その限りで彼ら双方の間に、何らかの共感、同情があっただろうことは察知できる。そういう「掟」に縛られた世間の拡がりは、肌の色や話す言葉の違いなどあたりまえに越えたところでの、しかし表沙汰の大文字の間尺とはまた別の、もうひとつのささやかな普遍をすでに体現していたように見える。どこかモダンな探偵小説のたたずまいも漂わせる、都新聞記者から一本独鈷のもの書き渡世へと踏み出さんとしていた頃の長谷川伸の、この「舶来巾着切」が当時の世間、「おはなし」を最も必要としていたその他おおぜいの読み手たちにどのように響いたのか、あらためて想いを馳せておきたい。

*1:分量多いので手直しを、との指示で、以下、薄墨部分を削除した。……240411

鳥山明逝去、に寄す



 今こそ、ドラゴンボールを集めに行かねばならん――わが国のみならず、世界中がそう思ったようです。

 鳥山明急逝の報がweb環境を介して瞬時にかけめぐりました。享年68。急性硬膜下血腫とのことでしたが、その衝撃は国内もさることながら、むしろそれ以上に世界規模での反応の大きさが伝わってくることによって、戦後の過程で高度経済成長の「豊かさ」を原資として結実させていった、でも、実はそれらについて本気でそう深く考えてもこなかったある種の「文化」が、知らぬ間に持ってしまっていた現実的な力量について、われわれ日本人に思い知らせることにもなりました。

 鳥山明というと、自分などは、どうしても「まんが家」としてまず認識してしまっています。「ドラゴンボール」以降の、ジャンルも国境もかろやかに超えたすさまじい確率変動ぶりと共に育った若い世代にとってはそんなこじんまりした印象ではないらしいのですが、さりとてこちとら旧世代、いまさらそれを今風にそうそうアップデートする気にもなれず、またその必要も正直、切実に感じていなかったのでそのまま放置で推移。ただ、そんな老害化石脳であっても、単なるマンガ家どころではない、さまざまなメディアを介して転生してゆく「おはなし」世界のはじまりを創出したある種創生神話の創造神のような存在になっていたことくらいは、さすがに理解していました。そういう認識のズレについての現実を、今回その逝去によって、ほれ、少しはちゃんとその前世紀的化石脳丸出しな「まんが家」イメージを修正しとけよ、と、あらためて現在形で突きつけられた感じではあります。
 
 敢えて昔語りとして言うならば、もちろん「Dr.スランプ」の鳥山明としての存在が大きかった。連載開始が1980年。まんが自体が単なる子ども向けのおもちゃなどでなくなっていたどころか、同時代ののっぴきならない表現として存在するようになっていたものの、当時すでに学生だった自分などには直接刺さることの薄くなっていた『少年ジャンプ』の、それもその頃の基準としても相対的に低年齢向けなしつらえにはなっていた作品ではありました。

 それでも、初めて接した時の感覚はそれなりに覚えています。あ、イラストっぽいな、というのが最初の素朴な印象。と同時に、おしゃれだな、というのも、また。

 その頃、そのような表現はまんが作品にもちらほら現われ始めていて、自分としては、当時新たに創刊されてよく読んでいた雑誌『ビックコミック・スピリッツ』の「軽井沢シンドローム」(たがみよしひさ)や 「裂けた旅券」(御厨さと美) などと同じような、同時代気分に根ざした親しさ、好ましさを感じたものでした。

 ただ、それが『少年ジャンプ』という「少年まんが」の牙城であり王道を行くとされていた雑誌の誌上にいきなり出現したことは、なんというか、「友情・努力・勝利」と揮毫された巨大な扁額の掲げられた男子校の校庭に、当時すでに大きな市場を獲得していたファンシーグッズと呼ばれる子ども向けの文房具や雑貨、それこそかのサンリオ系の「かわいい」キャラクターのついたキラキラ感あふれる小物類を身にまとった「少女マンガ」的世界がいきなり降臨したような場違い感があって、だからこそ、そのおしゃれなポップ感みたいなものも余計に際立って読み手の側に印象づけられたように思います。

 今回の逝去の報に際して、これとほぼ似たような印象を衝撃と共に受けとった当時の読み手たちの追想や思い出などがさまざまに流れてきて、その言い方などさまざまなのは当然としても、単なる一般の読者、商品まんがの消費者としてだけでなく、すでにその頃、現役のまんが家であったり、何らかそのような現場で仕事をしていた人たちも含めて、ある同時代体験として鳥山明とその表現の出現がひとつの事件でもあったらしいことを再確認できました。そうか、やはりみんな、あの時同じような印象を受けていたんだ。

「鳥山くんが登場して、プロがみんな驚いた。こんな描き方があったのかと驚いたのだが、それは鳥山明だから描けたのだ。俺は、指を咥えて見てたな。」

鳥山明が現れたときの衝撃というのは、物心ついた時にはすでに鳥山明がいた世代の方には想像しづらいかもしれないが『Dr.スランプ』の連載がはじまる前週の少年ジャンプ表紙を見れば、当時のジャンプキッズが受けた衝撃をわかっていただけるのではないだろうか。」

「初連載のDr.スランプの第一話から、もしかするとジャンプで一番絵が上手かったので、何この新人⁈ と驚いた。最初期からあんなに絵が上手かった漫画家というのは他にいなかったと思う。画力面での当時のライバルで、鳥山明と共に日本の漫画を変えてしまった大友克洋でさえ最初からああではなかった。」

 そして、こういうシンプルな、でも貴重な断片も、また。

「あられちゃんがかわいくて、女子でも好きな少年漫画になりました!」

 「少年まんが」「少女まんが」という区分けが厳然としてあって、相互に読み手も棲み分けしていた、少なくとも「そういうもの」とされてきていた、それが実質的に煮崩れてゆく過程が概ね1970年代に入る頃から始まってゆき、最終的にその流れが決定的になったのが、ちょうどその頃80年前後。そんな当時の空気を支えるささやかな証言です。

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 手塚治虫という「(日本の)MANGA」の定型として海外からも受容されてゆく「ストーリーまんが」の創造神を介したトキワ荘系統の描き手たちの表現は、そもそもが「児童まんが」であり、また、そこから派生してその後、昭和30年代以降、高度成長期を通じてみるみるうちにその市場を急激に拡大していった紙媒体ベースのまんが市場に躍り出てさまざまに活躍していった多くの描き手たち自身の価値観・世界観もまた、概ねそこから動かなかった。それは当時、まんがだけでなく、子どもを相手にする商品市場が多様に、急激に拡大、伸長していった戦後の過程で、「おとな」が「子ども」のためによかれと思う創作物を商品して市場に送り出してゆく際の言わずもがなに守られるべき一線として、まさに「そういうもの」として自明に共有され、また、ある時期までは実際に準拠枠として、市場を持続可能なものとして穏当に制御するプロトコルとして機能していたものでもありました。「少年まんが」「少女まんが」という区分が、戦後のまんが市場において自明のものになっていたのも、戦前の子ども向けの雑誌市場以来の流れが出版業界に引き継がれていた下地と共に、戦後に新たに輪郭を定めていったそのような「児童まんが」という前提の上に新たな責任ある立場における子ども向け商品となったまんが市場と向き合う現場の論理に後押しされたところもあったのかもしれません。

 とは言え、その「児童」に当初込められていた意味や内実も、みるみる変わっていった当時の時代相と共に補助線にしておかないと間違いのもと。たとえば、手塚の造形したあの鉄腕アトムは、巷間割とそう思われているような「少年」ではなく、作品世界を介した社会的な意味あいにおいては、むしろ「児童」だったでしょう。もちろん、当時の「児童」は、その内実にまだ自明に男の子が前景に配置されているところはあったわけで、その意味では世間的な理解の水準として男の子の手軽な置き換えとしての「少年」へと横転してゆくのもわからないではないですが、しかし、描き手である手塚の意識としても、そしてまんがを世間に認められるものにする、そうせざるを得なくなっていた状況も含めて当時そのような立ち位置にあった出版業界の事情としても、「児童」のための「役に立つ」商品としての属性を前面に出して主張してゆく必要があった、それゆえの「児童まんが」という言挙げというところはありました。

 事実、その頃の「児童」の意味や内実には、それに対応していたはずの「大人」の意味や内実と共に、その当時の意識や感覚、価値観などに即したものがありました。特に、敗戦後間もない頃の言語空間においては、敗戦国日本の将来を託すべき存在として、そして占領軍がGHQ主導でもくろんだ本邦「民主化」の目標における重要な項目のひとつとして、それは「教育」と併せ技で大きな社会的な意味を背後に背負わされた語彙でした。「憲法教育基本法児童福祉法など子どもの人権を定めた戦後の民主的改革のながれの結晶として、それらを踏まえて日本の子どもを総合的に守り育てる社会の課題と大人の役割を明らかにした」という児童憲章が制定されたのが昭和26年5月5日。戦後の日本国憲法の「民主化」関連部分を、少し前まで「少国民」であった子どもに向かって下位互換したかのような、言わば「民主化を将来支えてゆく新生日本国民のためにわざわざ誂えた憲法」のごとき内容は、〈おんな・こども〉の主体化という戦後レジュームの未だうまく合焦されぬままの隠しテーマを現在の地点から言語化してゆく上でも興味深いものです。そんな「児童」はその後、なしくずしに「子ども」という言い方に開かれてゆくのですが、そしてそのことでぼやけていったものも「民主化」という脈絡においてその初志と乖離してゆく過程としてあれこれの問題が実は膨大にあったりするのですが、それはまた別の話。

 そのような当時の「児童」に対応する「大人」と、その後の過程で開かれていった「子ども」に対応する「大人」との間にもまた、明らかに別ものになってゆく経緯がありました。共に「大人」という自明の存在が前提にあって初めて輪郭の定まるようなことばではあったにせよ、「児童」が「子ども」へと一見わかりやすくなり、世間一般その他おおぜいの理解力に近づいていったかのように見えてゆくのに見合って、その背後の準拠枠であったはずの「大人」もまた、その内実を変えてゆきます。

 「戦後、強くなったのは女と靴下だ」などと当時、自嘲気味に言われたというもの言いに象徴されたように、戦争に負けた「敗戦」の責めを日常において良くも悪くも引き受けざるを得なかった社会的存在としての「男」とほぼ重なる表象だったそれまでの「大人」は、その輪郭を支えられるだけの内実を自らそのまま維持することが難しくなりました。「恐妻」というもの言いがこれまた半ば自嘲気味に、それでもまだなおかろうじての余裕と共に韜晦的に使われるようになったのも同じ頃。*1 同様に、「父親」「父性」などといった「大人」としての男に必然的に求められていた属性もまた、「戦後」の「民主化」による意識や価値観の変貌に伴い、それまでのような自明の権威を失ってゆきます。その結果、戦後の大人は、それまでのような意味での社会的存在である男というだけでなく、同時に「親」であり「保護者」であることも当然に要求されるようになり、そのため必然的に「家庭」に依拠したものにもならざるを得なくなってゆく。そして、そうさせてゆく原動力となったのは、戦後のそれまでと違う位相での大衆社会化の現実であり、その中で〈おんな・こども〉を新たな社会的主体として組み込んでゆく動きとしての、当時の同時代を生きた人がたにとっては「そういうもの」としての〈いま・ここ〉であった戦後的な過程でした。*2

 つまり、「児童」に対応する「大人」は社会的存在であり、むしろその社会的存在という部分だけで規定されているようなものでした。そのような意味で「児童」というのもまた、主に社会的存在としての属性に重心のかかった意味づけになっていて、社会的な文脈において語られる場合にこそうまくなじむ語彙だったようです。

 それら社会的存在としての「大人」に「家庭」は意識されていなかった。いや、実際に世帯はあったし、だから家庭だって現実に存在してはいたのですが、でも、当時の「大人」というたてつけにとってそれは第一義ではなく、あくまでも社会的存在としての輪郭を背後で、まさに「内助の功」的な意味で「支える」のが「家庭」であり、行政的な、また家計経済的な視線からの「世帯」でした。戦後、そのような背景となる社会的環境の変化に伴って「大人」もそれまでと異なる内実を宿すようになってゆく。その新たな戦後的大人に見合うべき存在として、「児童」もまた「子ども」へと、より開かれた語彙へと転生してゆきました。*3
 たとえば、「児童」では男女の性差はさほど前景化されていませんが、「子ども」になると男の子、女の子という区分けがくっきりしてきます。「少年」「少女」というもの言いも同じように、戦前までのそれらの語彙と異なる内実を宿しながら「子ども」に包摂される男の子/女の子に対応した場所に再配置され、その結果、「少年まんが」「少女まんが」というもの言いもまた、ようやくいまのわれわれが普通に理解するような内実と共に整うことになってゆく。*4
 かつて、江口寿史に取材で話を聞く機会があった時に、「子どものために描くという意識はありますか?」という趣旨の質問をしたら「ありますよ」と、あたりまえじゃないですか、と言わんばかりの表情で、かるく口をとがらせ気味に昂然と応じられたのをよく覚えています。ああ、鳥山明と同じ時期に、まさにおしゃれでポップでイラストのような新たなまんが表現を切り開き始めていた旗手のひとりだった彼にもまた、そういう「児童まんが」由来の使命感や責任感みたいなものがやはりあるんだな、と、その時は我が意を得たり的にひそかに納得したものでしたが、ならばさて、それからすでに30年ほどたった現在、いまの若い世代のまんが家たちの裡に、そのようなかつての「児童まんが」由来の「子ども」への使命感や責任感みたいなものは、果たしてまだ宿っているのかいないのか。宿っているとしたら、それはどのような内実を伴っているものか。

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 このように考えてゆくと、鳥山明が「まんが家」として世にあらわれた80年代初頭という時期は、「少年まんが」「少女まんが」の区分けが10年ほどかけて実質的に煮くずれてゆき、その結果、期せずして「児童まんが」への回帰が、敗戦後のそれとはまた違う位相で不可逆的に起こりつつある時期だったのでしょう。

 思えば、イラスト的でおしゃれでポップ、という鳥山明の描く作品から抱いた第一印象は、違う方向から言うなら、そのまんがのひとコマを単体の絵としてイラスト的に賞翫できる、ということでもありました。それだけのクオリティが彼の描く絵にはあったし、自分が好ましく読んでいたたがみよしひさ御厨さと美などの作品も基本的に同じこと、先の江口寿史にしてもまんがからイラスト的な方向に転生ないしは脱出していったことなども考えあわせれば、当時あちこちに出現し始めていたそれら新しいまんが表現を擁する作品群を介して、まんが作品を手塚由来な「ストーリーまんが」としてだけでなく、そのように単体としての絵として観る/読むリテラシーの普及と拡散がすでに静かに始まっていたらしい。それは、まんがという創作表現に対する新たなある種の美的鑑賞眼が、広く世間一般その他おおぜいの間に涵養されてゆく過程でもあったんじゃないか。

 とは言え、そのような読み方は、実はいわゆる「少女まんが」の小さな読み手たちは、すでに自然にしていたようです。何もまんがに限らずそれ以前、たとえばぬりえなどおもちゃ類にも広く流用されていた、ファッションや小物といった個別具体に合焦したいわばスタイル画的な女の子向け一枚絵の定型表現との関わり方の経緯来歴は、焦点を拡げれば戦前の竹久夢二の小物も含めた創作物市場の展開や消費のされ方から、『それいゆ』などの媒体を介して市場を獲得していった戦後にかけての中原淳一らの仕事の拡がりなども視野に入ってきます。また一方で、飛行機や戦車から自動車などのいわゆるメカものから怪獣などに至る男の子向け一枚絵の定型表現、雑誌の口絵や絵物語の挿絵、プラモデルの箱絵から、その後さらにグラビアやピンナップ的なポスターなどに至るまでの拡がりもまた、同じく日本語を母語とする環境において未だうまく合焦されていず、だから言語化にも連携していない広大な未発の「歴史」の地平につながってゆくはず。いずれにせよ、当時の鳥山明の出現というできごとも、それらの過程の中の大きな変異点のひとつとしてプロットするのが、まずは穏当な評価なのでしょう。

 そういう意味で、鳥山明という描き手は「児童まんが」へひとめぐりしたような、結果的に回帰する/できるようになった80年代以降の本邦のまんがをめぐる状況の中で、手塚以来の「児童」への責任感みたいなものを素朴に誠実にアップデートしながら、なお健気に抱き続けることのできた人だったのだと思います。藤子・F・不二雄が、彼の「Dr.スランプ」を、かつて自分たちがめざし夢見たような意味での「児童まんが」の後裔として高く評価していた、という挿話もありましたが、のちに世界的な拡がりを持つ創世神話的のような「おはなし」の創造神となっていった彼も、はじまりは本邦の「まんが家」として世に出たこと、そしてそれも正しくあの敗戦を介して結果的に現前化した「豊かさ」を後ろ楯にしながら成長していった戦後由来の「(日本)のMANGA」の歴史のふところに抱かれて初めてあり得たことの、それは何よりも雄弁な証言でした。

 「いま、藤本先生が注目しておられる、認められている児童まんがには何がありますか?」と尋ねたところ、「鳥山明さんの『Dr.スランプ』は凄く面白いです」という返事が返ってきました。「今、自分の考える“児童まんが”が描けているのは、鳥山さんだけなんじゃないかな」ともおっしゃって、ほめてらっしゃいましたね。」