「団塊の世代」と「全共闘」⑲ ――「同棲」の破壊力、と「うた」

 

● 悩み深き高校時代の団塊

◎ 「同棲」の破壊力

――話の流れがそういうことになってるんで尋ねちゃいますが、呉智英さんのヰタ・セクスアリスはどんなものだったんでしょうか。

 高校は男子校だったからさ、女のことはほとんどわからなかったなあ。全く交流がなかったわけじゃないけれど、提携校や、近所の女子高の文化祭に行ったり、共同の研究会をサークルでするくらい。一対一で深い関係になるのもいたけど、そんなのは例外で少なかった。

 そういう意味じゃ団塊の、とくに初期世代はわりに純真だったかもしれない。六○年代後半から七○年にかけてはフォークソング・ブームがあって、男女を対等に恋愛の対象としてみるようになったし、同棲が流行ったのも同じ時期だよね。それらサブカルチュアは一連の地平、土壌の上に成り立っていたわけだ。上村一夫の漫画『同棲時代』が七二、三年、かぐや姫の『神田川』が七三年。でも、それらはその五年前だと明らかにネガティブ、否定されるべきものだったんだよ。


――ふしだら、って感じですかね。同棲は。

 「ふしだら」というよりも、当時同棲するとしたら、その相手がいわゆる「お水系」だったりしたんだよ。っていうか、そういうクロウト相手の想定しか普通はあり得なかった。設定としては、男は地方から東京の大学に来ている。この場合たいてい慶應なんだけど(笑)、そこにたまたま飲み屋の女で色っぽいのがいて、男はそういうのは初めてだったからウブで、いいように転がされて親にも言えずに同棲しちゃう、というのが、いちばんありがちなケースだ。実際、私より二年上の早稲田の学生で岐阜の良家の坊ちゃんがいてね、彼のうちに行くと奥さんが料理を作ってくれて、夕方になると奥さんは店にご出勤、というのがあったよ。


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――うわあ、それはまたベタな……なんか、かつての日本映画か、劇画の設定そのままのような。

 いや、そう言うけど、当時はそういうのが実際にあったんだよ、これが。たとえば、地方の坊ちゃんが、東京の大学を受験するにあたり、東大、慶應、早稲田と受けて、ようよう受かったと思ったら、都会の女に絡めとられる、といったケースだな。で、高校の頃は、みんなそういうのに憧れたものなんだ。

 当時流行っていた歌にが平岡精二作の「爪」(歌・ペギー葉山)ってのがあって、「二人暮したアパートを/一人一人で出てゆくの/すんだことなの今はもう/とてもきれいな夢なのよ」。最後に、女は年上らしく世慣れた感じで、あなたが嫌いになった訳ではないけれど、親や世間のことなどを鑑みて「もう一緒にはいられない。私が最後にあなたにいうのは、悪い癖、爪を噛むのはよくないわ」、と。この曲はねえ、当時ものすごくモダンに聞こえたものだったなあ。


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――うはははははは……あ、いや、笑っちゃいけない。

 とにかく、こっちは地方の高校生だったから、何年かしたら東京へ行って、そういう学生生活を真似したくてたまらなかった。実に衝撃的だったね。まず、同棲をしている、都会的である、しかもちょうど流行り出した赤坂、六本木界隈、その盛り場の少し向こうに文化住宅、今でいうマンションがあって、そこにいっしょに住んでいるわけだ。女が少し年上で仕事を持っている。ものがわかっていて、しゃれてもいる。仕事は水商売のクロウトかもしれないけど、根は純だ、と。それで、男の方は実はどこか甘えっ子的なところがある。だから爪を噛む。しかしお姉さんから見ると「あんた、その癖やめて、いいとこの坊ちゃんなんだから、田舎に帰ってお父さんの跡をついで、県会議員でもやりなさい」となる。なんか、そういうのが当時のフランス映画のストーリーにもありそうでさ、曲がダブって聞こえたんだよ。

――なるほど。その少し後だと、「また逢う日まで」になって、さらにくだると沢田研二の「勝手にしやがれ」みたいにそういう主人公がそのまま学生、って印象は拡散してきますね。続いてもうキャンディーズの「ほほえみがえし」になって主体が女の側になって、80年代に入るともう、「そして僕は途方にくれる」、と(笑) なにしろ男の側が置いてきぼり食って途方にくれてるという始末ですから。昔ながらのもの言いだとコキュとか寝取られ男ってのにつながってくんでしょうけど、そういう「去ってゆくオンナ」から放り出された男の側の心象みたいなものの系譜、ってあると思うんですよ。地味だけど、山下達郎の「ターナーの汽灌車」なども同類かなあ。とにかく、そういう具合に放置される男の側に根深い「おんなぎらい」というか、それまでと違ってひとめぐりしたところに突き放した視線と感覚が宿ってくる、っていうのがあるかも知れないというのは、ずっと思ってます。



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 でも、その大学生ってことに当時は、そういう性的な解放みたいな意味も実は背後に宿っていたってところは、案外これまで見過ごされてませんか?

 まあ、十五、六の時は、「二十歳になったらそういう大学生をやるぜ、おれはやるぜ」と息巻いてたもんだけど、二十歳も過ぎると、これはちょっとやり過ぎかな、学費出してくれている親に対してもまずいかな、という考えになる。それに、この歌に出てくる女性は明らかに「お水」だな、というのもわかるようになる。ところがその頃同時に、しかし「お水」ではないものとして出てきたのが、これが同棲だったわけだ。

――ああ、「恋愛」幻想がまたぐっとせり出してくるんですね、シロウト相手の「同棲」になると。

 そう。それまで同棲といえば、ネガティブなものと決まってたんだよ。都会の軽薄才士が、お水系の女と若気の至りでアバンチュールをする、というものだった。男はシロウトで相手の女はクロウト、って設定だな。ところがそれから五、六年たつと、シロウト同士の「同棲」が新しい形で始まる。それこそ、あの「神田川」や「赤ちょうちん」の世界だよ。早稲田の近くなら神田川沿いの周辺。地方出身の学生同士や、高卒でもデザイン専門学校を出てイラストレーターを目指しているような若者が、知り合ってあちこちに部屋を借りる。貧しいけれど、寒い中二人で銭湯へ行くのがうれしい、不安なのは将来ではなく、あなたの優しさでした、というような暮らしを本気でしていたわけだ。


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――本気で、ってあたりが今さらながらにすごいな、と思うんですが、でも、言われてみれば、何となくそういう雰囲気の残り香くらいはまだ、あたしなんかが学生やってた頃もありましたね。もう少し後になるともう、下宿ってのはそれ自体二十四時間ラブホテル、みたいな認識になるんですが。いや、「下宿」じゃないな、すでにもう。「下宿」はまだホモソーシャルな空間が前提になってたわけで、考えたら「下宿」ってもの言いが後退してゆくのと、そういう同棲から発していったような性的なドロドロもひっくるめた空間になってゆくのとは重なってるような気がします。


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 フォークというとみんな「神田川」を言うけど、あれは七○年代の始めだな。でも、多くの人が勘違いしているんだが、最初のフォークソングというのはそれより少し前の六六年、マイク眞木(フォーク歌手・俳優/一九四四│)の「バラが咲いた」だったんだよ。あれをまず聞いたときに、私はたまげたんだけどね。何が、って、何よりもまずあの内容のなさ(笑)だってそうだろ、バーラが咲いた、バーラが咲いた、真っ赤なバーラーがー、って、だからどうなんだ、って。さみしかった僕の心にバ-ラが咲いた-、って、おまえたかがそんなことでそんなにうれしいのか、と(思わず力説)。


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――ほとんどもう、人生幸朗師匠みたいなことに(苦笑)

 だから、あまりのバカバカしさにそれ以来、フォーク自体に興味がなくなって、少し後に評判になった「チューリップのアップリケ」なんかも聴かなかったな。後で聴いてみたら、あれは当たり前だけど、岡林信康(フォーク歌手/一九四六│)の一種社会的な主張で、要するに、部落民の父ちゃんが靴をトントン作っている描写があった、ってことがすごかったってことなんだけど、それはそれでまあ、当時、意味はあったんだろうとは思う。でも、私は別に感動しなかったな。


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――それはまた、どういう理由で?

 そんなもの、ならば「がんばろう」はどうなる、共産党のやった歌声運動はどうなんだ、と、そのへんが深く疑問だったんだよ、私は。そういう意味じゃフォークソングなんかよりも歌声運動の方をむしろ評価したいんだな。だって、歌声運動によって、一般の政治意識が目覚めた、その目覚めたことの善悪は別にして、とにかく政治的な有効力は明らかにフォークソングなんかよりもそっちにあったわけだからさ。


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 基地反対運動にしても、当時は住民運動なんかまだなかったから、みんな荒木栄(作曲家・歌手/一九二四│一九六二)なんかが作った歌を覚えて歌って、そのことによって身の回りにある矛盾や問題に気づいて、それが結果として政治運動になっていったわけだからさ。「沖縄を返せ」で、本当に何十万、何百万の人が動いたんだよ。「がんばろう」、「沖縄を返せ」、「おれたちは太陽」とか、当時そうやって歌われた歌の多くが荒木の作曲によるもので、音楽の素養のない普通の人たちがあの手の歌から実際に歌うようになる、オクターブの音域の幅があるからそれに合わせて親しみやすい力強いメロディーだし、また歌詞もわかりやすいものだったしね。決してあなどっちゃいけない。それに対して、あの「バラが咲いた」とか「チューリップのアップリケ」を歌っても、どこに政治運動があり、何をプロテストしたのか、ということだよ。



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――まあ、そのへんは今の若い読者が100%真に受けるかも知れないんで、呉智英さん一流のギャグ、というか諧謔という意味も含めて、少し補助線引っ張っときますが。


 でも、真面目な話、あたしでさえそう思いますよ。うたごえ運動と言えば、そりゃ関鑑子ですが、学校や職場でサークル活動の一環としてコーラスだの合唱だのを革命運動を組織するツールとして、戦後のあるタイミングで使った日共ってのは、そりゃ政治としてたいしたものだったな、と。なにしろ、未だにやってるんですよ。日本のうたごえ全国協議会なんてのがあって、講習会やって全国まわったり。なんかこのへんは民俗学が全国組織つくっていったやり口と微妙に重なったりして、個人的に鬱なんですが。


 歌って踊って恋をして、革命もやって、でも婚前交渉はなし、というのが理想の「進歩的」青少年像、だったわけじゃないですか。少なくとも代々木共産党というか、民青的には。あたしらの頃にはもうそういう民青的なるもの自体、ギャグにしかならなくなってましたけど、でも考えたらそういう理想像って「戦後」の価値観にしっかり裏づけられたものでもありますよね。それこそ「寅さん」のさくら夫婦(笑) 


 

 まあ、歌声運動自体は戦後直後からあったわけだ。民青の前身だった青共に中央合唱団を設立し、まさにさっき大月君が言った関鑑子(歌声運動創始者/一九××│)が指導者となって運動を広めた。

  

ただ、これも案外混同されるんだけど、歌声喫茶共産党の歌声運動は、ダブりながらも一応別の問題なんだよね。歌声喫茶は市民生活の中で楽しめるという場ということで、東京では、新宿のカチューシャ、灯(ともしび)、それに有名などん底なんかがあって、そこは文化人と身近に接することができる場でもあった。どん底の歌集などを改めて見ると、そこにメッセージが出ていて、たとえば、三島由紀夫なんかもメッセージを寄せているんだよ。あの右翼で切腹した三島由紀夫が歌声運動の「がんばろう」とか「母さんの歌」とか「沖縄を返せ」とかに手を貸している、なんてのは後の三島からは考えられないかも知れないけど、でも、実際に彼はその歌集に、おれの青春はどうのとか、大真面目で書いてるわけだ。

 

――ああ、それはおそらく舞台、演劇の関係で入ってきたんじゃないですか。

 そうだと思う。それと、今では別の意味で有名な三輪明宏、当時は丸山明宏だけど、彼もそういう歌集にメッセージを載せているんだよ。当時、あそこで無茶をやるのは相当大変だったろうと思うけど、とにかく共産党の歌声運動の市民版である歌声喫茶の中で、丸山明宏や三島などまでもいわば党派を越えてメッセージを載せるような、そういうところだったってことだ。

  

――確かに「歌う」ということ自体の意味、ってのがあったんでしょうね。それも「みんな」で「一緒」に。そう考えれば、少し後の新宿フォークゲリラなんかにも、そういう「みんな」で「歌う」ことの共同性みたいなものは揺曳してたんじゃないですかね。


 基本的に日本人には、集団で、みんなで歌うという習慣はなかったんだよね。歌は個人空間で歌うものだった。当然、和音、ハーモニー(和声)という発想もない。明治になって、西洋人が初めて合唱を持ち込むんだけど、それは軍隊とか学校で歌うというのがせいぜいだった。それまでの歌舞音曲ってのは、たとえば座敷で芸者の三味線に合わせて端唄を歌うとか、あるいは櫓の上で誰かが音頭を取ってドンドコやると、「ああ、どっこい」と間の手を入れながら歌って、その周りを回る、というものだったりしたわけだ。日本以外のアジアやアフリカなんかへ行くと、いまだにそういうのがあって、やはり太鼓を打ったりマリンバを叩くのがいて、周りがみんなでワーワー歌う。つまりはこれ、盆踊りじゃないか。

 日本には、鑑賞する音楽性をもちながらも、声を合わせて集団で歌う習慣はなくて、近代以後、西洋から入ってきてようやく普及したわけだ。西洋音楽の洗礼を受け、軍隊で「万朶乃桜」を歌い、学校では校歌を歌い、文部省唱歌を歌うようになったわけだけど、でも、戦前はせいぜいそこまでだった。それが学校の授業や軍隊の演習といった公的な空間ではなく、個人が自分の心を楽しませるために、しかも集団で歌うこともある、という経験を組織したのが、戦後に起こった歌声運動だったんだと思うよ。

――今じゃPTAのおばさんたちがコーラスのサークルで頑張ってますけどね。あれも学校や職場のサークル活動の一環として、当たり前のように「コーラス」「合唱」が導入されていった来歴があるわけで。そういう風に考えてゆくと、あのデモなんてのもある種の身体的表現として見てゆくことができますよね。

 そこで当時、公的なものとして、デモ行進があったわけだよ。デモで歌った歌をそのまま個人の空間の呑み屋に来て、みんなで肩を組んで歌っていいんだ、となってくる。それが六○年代の後半になるとさらに変わってきて、それぞれ自分で作詞作曲をするようになってきた。それは、それまでの近代百年の音楽教育の蓄積があってのことなんだけどね。というのは、だいたい六○年までは、何か自分の中のエモーションを歌にするときには、替え歌というものしかなかったんだよ。だからたとえば、旧制一高の寮歌「アムール川の流血」が、幼年学校の「万朶乃桜(「歩兵の本領」)」になり、今度は「聞け、万国の労働者」という労働歌の替え歌になってくる。メロディというか節は同じで歌詞が変わるだけだよ。つまり、学校とか軍隊で習った歌にそれぞれ違う言葉を載せて、替え歌という形で自分たちの心情を吐露するしかなかった。なにしろほかに音源を知らないんだからさ。五線譜は読めないし、かといって黒人奴隷から始まったジャズのようなものを作る能力もない、と。あるとしたら、三味線の何とか節とか、それこそ浪花節浪曲のたぐいでしかないわけだ。


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――あ、浪曲をそういう風にバカにされるのにはちょっと異議をさしはさみますが(笑) 浪曲ってのはニッポンの近代における最初の「個」的な大衆音楽、とまで言えなくても表現手段ではあったんですよ。三味線が伴奏についた語りもの、ですが。でも、三味線とのコラボレーションで「語る」ことで近代に直面する気分や感覚を期せずして表現する形式を発見していった、というのが、あたしの浪曲浪花節理解の大枠です。「うなる」ことで不特定多数の、具体的には千人くらいの規模までの「聴衆」に向かって表現する「ワタシ」=「個」、ってのがまずもって快楽だったわけで、だからこそレコード産業の基礎も奈良丸と雲右衛門で作られた、と。それくらい「近代」を生きる新たな勃興してきた常民=流民も含めたプロレタリアート、の生活感覚にどこかでシンクロするものがあったんですよ。

  

 ところが六○年代になると、戦後音楽教育が二十年蓄積されて、まあ、音符くらいは読めるやつが結構混じるようになる。それから、豊かな家庭の子供は、ピアノを買えないまでもエレクトーンとかオルガンを買ってもらって、そうじゃなくてもハーモニカとか縦笛など学校の授業でやるものだから、簡単な音楽はみんなおよそわかるようになった。それこそ「宮田ハーモニカ」がハーモニカを広めてくれたおかげで、私は今でも音符なんかろくに読めないけど、普通にハーモニカをやればだいたい自分の好きな曲が適当に吹けるぐらい、誰でも吹けたわけだ。


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――宮田東峰、ですね。ミヤタハーモニカ。大正時代に盛んになった楽器ですが、本格的に普及したのはやっぱり昭和に入ってからですかね。小沢昭一さんじゃないですが、「ハーモニカが欲しかったんだよお~♪」というのは、当時の街育ちの男の子のある部分、共通感覚だったのかな、と。

   



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 これがもう少し高度になってくると、今度はギターになる。ギターで弾いて、自分が歌う。ハーモニカは小さいから、携帯に便利なんだけどね。ギターはやはり戦後の社会が安定してきて余裕が出来てきたということだ。ウエスタンとかジャズとか、さらにロカビリーとかに広がっていく。

 当時の世相で、映画の中でも『ギターを持った渡り鳥』とか、風俗の一部にもなる。自民党の先日亡くなった代議士・原健三郎も実は渡り鳥シリーズの原作を書いてたんだよ。後に大臣や衆議院議長をやった保守の大物が、実はそういう深いところに絡んでいるんだよね。だから、日本の保守というのは単純に侮ってはいけないんだな。


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――弦楽器系の洋楽器は、戦前だとせいぜいマンドリンで、あれはでも古賀政男明治大学にこさえたマンドリン倶楽部に象徴されるように、やっぱりクラシック経由ですし、「大学生」のエリートカルチュアだったんだと思いますね。明治期の演歌師なんかにまで普及したバイオリンがいくらか大衆化・通俗化した弦楽器と言えるかもですが、範囲は限られてたし、昭和初期に編成されてくるいわゆる“ボーイズもの”の漫才でもギターは入ってきてますが、中心とは言いにくい。ワカナ・一郎にしても鍵盤系のアコーディオンですし、それ以前の無声映画の伴奏にしてもギターって選択肢はまずないですね。



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もともと軍楽隊の木管金管系の楽器を扱った連中がサーカスに流れて「ジンタ」になり、さらにはちんどん屋のあのアンサンブルにも派生してゆくわけですが、マーチングバンドはやっぱりブラスが中心なわけで、弦楽器ってのはそれこそ街の流しなんかが出てくるまではなかなかなじみはなかったんじゃないですかね。兵隊の慰問袋にハーモニカや明笛は結構つきものだったようですけど、さすがにギターを抱えた二等兵、ってのはわが帝国陸軍ではあり得ない(笑)『兵隊やくざ』のカツシンもギターつまびくより、やっぱり物干場で「紺屋高尾」のさわりをひと節うなってくれた方がグッとくるわけで。



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 考えたら、ひとりギターをポロンポロンやる青年、っていうイメージは、どうしても戦後の、それも都会の単身生活者、学生だけじゃなく場合によっては労働者だったりもするわけで。それだけ「個」にまつわる楽器、ってイメージがありますね。これがスチールギターが戦後になって入ってきて、ハワイアン経由ですけど、そこから電気ギターが国産で作られるようになる。最初にこさえたのが麻布・一の橋の建具屋で、だからブランドが「グヤトーン」だった、なんてのはこれはもうトリビアになりますが。でも、電気ギターは進駐軍が持ち込んで、おそらく基地まわりのバンドマン連中などから演芸関係に結構早くから広まってたようですね。河内音頭鉄砲光三郎藤井寺球場で電気ギター持ち出した、ってのはあれは確か昭和二十年代後半じゃなかったかな。ましてや、オンナが弦楽器を手にする、なんてのはかなり珍しかったんでしょうね。


 

 弦楽器と言っていいのかどうかわからないけど、いいうちのお嬢さんが琴を弾く、というのはあったよ。地方の旧家で。料理と裁縫と琴を習わせる、みたいな。事実、私より一歳上の従姉妹などはやってたよ。百姓の地主の娘は、琴とお茶、あと学歴は戦後だったら短大出、ってのがステイタスになってたりしたけどね。

 まあ、それはともかく、戦後の十数年に培われた、音符を読んで場合によっては自分がアレンジしたり一から音楽を作ったりもするという、そういう種類の素養は小・中学校の授業で、○○のような気持ちで音楽を作ってみましょうとか、台詞のない音楽を聞いて、「これについてどう感じましたか、感想を言いなさい」といった情操教育があったから、それによって音楽を作る才能も、まあ、それなりには芽生えた、ってことだと思う。それまで、私たちがちょうど全共闘とか反戦とかという一九六五、六年以前には、基本的に自分の感情、情緒を発露していく手段は、さっき言った替え歌しかなかったんだよ。荒木栄なり、一部の才能を持っている人たちが労働運動の中で歌を作って、それが浸透して大衆運動に変わってくる。そのうちに、自然発生的にギターを弾く年代が出てくる。前に言った「バラが咲いた」(一九六六)なんて、まさにその世代の典型なんだな。「これは自分で作った歌だ、ゼロから作った。だから、大人から与えられた歌じゃない!」と、それが彼らの主張だ。だから、内容もゼロなんだよ。

――おお、なるほど! そうつながってくるわけですね。わかりました(笑)「戦争を知らない子供たち」、みたいなもんですね。あの歌も小学校の頃に歌わされた記憶がありますが、子供心にも、だからどうした、みたいな感覚はどこかにありました。あれ、今このご時世に大声で歌え、って言われたらとてもじゃないけどできませんね。拷問ですよ。というか、見事な放置プレイ。



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 まあ、だから当時のフォークソングの類は、結局のところ、みんな「おれたちは若者だ」と言っているようにしか聞こえなかったな。私は、自分が若者であることが嫌で嫌で仕方がなかったから、若者ってことはそんなに偉くないだろう、おまえら何がうれしいんだよ、と、ほんとに不思議だったんだよ。

 だから今、「ちょい悪オヤジ」なんてのを見てても、そんな彼らが年を取り、中年になっても「若者だ」と言っているようで、老いるという自覚がないんだろうな、としか思わない。結局「ちょい悪オヤジ」というのは、昔は不良青年だった連中が、今は不良親父がいいんだ、と言い張っている主張に過ぎないんだよ。

「団塊の世代」と「全共闘」⑱ ――団塊的「恋愛」について

●時代の急激な変化の中で――団塊恋愛論

◎愛子出現のトキメキ

――そもそも、「恋愛」ってやつもまた、これまでとまた違う位相で抑圧になってきている経緯がありますよね。最近だと「モテ」「非モテ」みたいな言い方も一部では出始めてて、それは主としてオトコの側なんですが、でもオンナの側も性的な対象として見てもらえないことについてのストレスというのは、それまでよりも内向して複雑になってる部分があるように思います。「恋愛」ってのも考えたら複合してるわけで、「恋」と「愛」とがくっついちゃってる。「こい」は以前から日本語の語彙にあると思うんですが、でも「愛」は全然違いますからね。それをひとつにくっつけて「恋愛」なんて、いかにも明治の文明開化風な漢字の熟語にしてった経緯ってのも、考えたら重要なんですが。

 愛という言葉について、日本人がアンケートなんかでいちばん好きな言葉が「愛」となったのは一九七○年くらいからだった。それまでは「幸福」、ヤクザだったら「仁義」、「男」とかね(笑)。

 愛という言葉を私が初めて意識したのは、小学校の頃だったな。愛子という名前の三十歳くらいの先生がいたんだよ。その当時だから「愛国」から付けたのかもしれないが、その名前が子供心に新鮮で、みんなで「田村先生は愛子っていうんだよ」なんて話題にしてたくらいだった。

――それまで「愛子」という名前には、遭遇したことがなかったんですか?

 なかったな。でも、洒落た、モダンな名前だ、という印象が子供心にもあった。

――同い年くらいの子供たちの間には、「愛子」はまだ少なかったんですかね。

 同学年に一人くらいはいたかなあ。とくに可愛いわけではないけれど、でも、名前から逆照射されて、なにか気になる女の子だったりした(笑)。

 ほかには下に「子」がつく名前が多かった。それ以外ではカオル、ミサオ。これは男女ともに使えるしね。そしてメグム、メグミ系だね。名前にむやみに愛の字が使われるようになったのはこの三十年くらい。七二年にフィギュアスケートのジャネット・リンが出場し、札幌の選手村の壁に「Peace & Love」と書き残したのが大きく取り上げられた。あれはアメリカのヒッピー文化の単純な直輸入なんだろうけれど、どうもあの頃から愛という言葉が流行り始めた印象があるな。恋愛結婚と見合い結婚の比率が逆転するのも六○年代後半くらいだから、まあ、おそらくその頃から変わり出したんだろう。


――思えば、学校の教室の中に半分異性がいる、という状態は、戦後もたらされた大きな衝撃だったと思うんですよ。で、同年代の異性同士が意思疎通するための雛型ができていない。だから、「討論会」とかいう形式で何とかしようとする、そういう「戦後」改革体験ってのも確実にあったわけですが。ムラの若者組だって、そういう意味じゃ性別で棲み分けられていて、その異性同士で個人レベルでやりとりするなんてことは、フォーマルにはなかなか雛型はなかったんですけど、それが「学校」という近代の装置に横すべりした時には、さらにその「フォーマル」にバイアスがかかって、結果「討論会」みたいなタテマエの水準でしかやりとりできない。これが高等学校から大学の段階まで一気に移行してゆく時期が、六十年代だったと思うんです。

 今でもそうだろうけれど、当時、大学で女の子が多いのは文学部、教育学部だったしね。だから「女子大生亡国論」が出たわけだけど、本来は、特に私たちの頃は文学部ほど男らしい学部はなかったんだよ。大学を出ても就職先はない、将来はないけどハラ括って自分はやる。「シラーが好きだから大学へ行く」、「ゴーリキーをやりたいから露文へ行く」……考えたら、こんな男らしいコースはなかったわけだよ。

 

――今じゃ、獣医学部でも半分以上女学生なんだそうですよ。隔世の感がある、と競馬場の獣医がしみじみ言ってました。あたしと同じくらいの世代なんですが。

 ところが、文学部が女の巣になったことで教員たちがパニックになった。政経や法学部には学年に五、六人しかいないのに文学部に行くと女子に占領されてる。当時早稲田で教えていた暉峻康隆(国文学者/一九○八│二○○一)は、自分のクラスを見渡して愕然としたわけだ。「婦人公論」に掲載された「女子大生世にはばかる」で「女子大生亡国論」に火がついた。
  
教育学部の場合は女でも堅実な子が「文学部ではいい仕事につけないが、教員になれば就職口があるだろう」と考えて入ってきた。同様の目的で来る男もいたので、女の比率は他学部よりは高かったが、しかし文学部ほどではなかった。そういう意味じゃ、同じ大学の学内で、文学部はやはり特殊な感じがしたもんだよ。 


◎古典的理想と現実的憧憬の狭間

――類として異性を見る、ひとくくりに「オトコ」「オンナ」として見るフィルターが良くも悪くも前提にあって、その向こう側にかろうじて「個人」の輪郭が見えてくる、という遠近感だったと思うんですよ、ある時期までは。極端に言えば、嫁にするのは「オンナ」であって「個人」としてはとりあえず不問である、というようなタテマエがそのままある程度まで現実になっていたわけで。で、それは向こうさんにしても同じなわけで、旦那に求められる属性はまず家柄とか財産とか肩書きとか、その意味じゃ少し前の「三高」願望なんかもある意味、伝統かも知れない(苦笑)

 当時は、思えば人間の不思議な心理なんだけれど、はっきりと自意識を持った女と共に人生を歩もう、という気持ちになる、そんな時代でもあったんだよ。早稲田はほかの大学と多少違ってたのかもしれないけど、でも一般的に言っても、その頃からだんだん、そういう感覚というか志向を持つ人間がまわりに増えてきたと思う。女の側も、学生運動があったり、同棲があったりで、それまでみたいに大学まで来ていながら何もそういうことを考えていない女が少なくなった感じがあったね。

 

 でも、そこは旧ソ連でもよく言われたように、女が自立して党役員かなにかになり、役員同士で結婚して家庭に入ると、男はウォッカばかり飲んで嫁さんが家事全般をやらなければならなくなる、といった愚痴がよく言われてもいたんだよ。つまり、男は女に対して両方求めている。一方で今までにない種類の新しい女を求めつつ、また従来の女らしさも求める、と。当時よくあった合ハイ(合同ハイキング)でもさ、サンドイッチなんか作ってきてくれる女は家庭的だと評判がいいけど、でも、それだけの女には男は食いつかないんだよな。そのへん、微妙なんだ。


――今や「合コン」っていうのは、単に出会いどころか、どうかすると「お持ち帰り」前提、ってのもあるみたいですが。しかも、男女平等に。

 まあ、そういうのは私が早稲田だったからかもしれない。日大では違ったかも知れないけど、でも、ときには男と論争して、たじたじにさせるくらいの方が「ああ、こういう女と生涯ものを考えながら過ごしたい」とか思ってしまう、そんな欲望がこちら側に宿り始めたんだな。

   

――ああ、今で言う「ツンデレ(普段はツンツンしていながら、ふたりっきりになるとデレッとなるようなキャラクター)」につながりますね、それは。今や「ツンデレ」はある種のオタクの理想像だと言われてますが、理屈こねるとそれって、女の社会的な側面と私的な側面との分裂を反映してるんでしょう。でも、それでうっかり結婚して失敗する、と。その辺が、ある時代を象徴してますね。

 純真な女の子というのは、必ずしも人気があるわけじゃなかったな。むしろ、家事など出来なくてもいい、それここそフォークソングの「♪君に出来ることは、ボタン付けと掃除」(歌・布施明「積み木の部屋」作詞・有馬三恵子)みたいなのは、その十年ほど前ならば女として全く通用しなかっただろうけれど、でも、しょせん歌の世界だから可愛ければいい、ということもあったしね。


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――そもそも、呉智英さんのお母さんというのは、どういう方だったんですか?

 私の母親は今、八十歳くらいだけど、女学校を出てる。当時、女学校で教育を受ける基準は和裁、洋裁、料理、掃除、そして最低限の保健衛生の知識、つまり、子供が怪我をしたり骨折したらどうするかという、これが第一だったんだよね。要するに「類としての女」で、この基準を身に付けている日本中の何十万人の中のひとり、というわけだ。で、その差異はたとえば家柄の違いで、地主の娘、商家の娘と、実家の距離はどうかとか、とにかく個人ではなくその属性にあったわけだ。でも、そういう基準によってもたらされる女性に対する認識を私たちの世代の一部が拒否し始めた。自分の人生のなかで、この女(個人)と付き合って楽しいかどうか、ということだな。ただ従順なだけの、家事一般を支えてくれる相手を求めているわけではない、と。でもその一方では、家庭で自分がごろんと横になってるときに肩も揉んで家事も片付けて欲しい、ということも考えていたりするんだから、そりゃうまくいかないよね。

「財界人」と信仰、信心の関係


 京セラの稲盛和夫氏が、亡くなりました。享年90とか。いわゆる「財界人」の中でもいまどきの世間一般にまで、その名前をよく知られていた御仁でしょう。

 思えば、この 「財界」というもの言いも考えたら妙なものです。検索すると、ざっとこんな定義が出てくる。

「政治・社会に影響が大きい実業家・金融業者の世界。」
「日本国内において、大企業の経営者や実業家などが構成している社会。」
「大資本を中心とした実業家・金融業者の社会。総資本の立場で社会・経済をリードするパワーエリート集団。」

 そんな世間の中の人が、「財界人」ということになるらしい。要するに、会社勤めの月給とりの立場ではなく、その「会社」の「経営」に責任ある立場の「経営者」で、しかもそれがそこらの中小企業ではない、ある程度以上の規模と業績と社会的信頼をそれなりの知名度と共に身につけている会社、ないしは経営体であること、が求められる様子。最近あまり使われなくなった、あの「重役」などの語感にもどこか通じる、背広を着たホワイトカラー層のひと握りの成功者、いずれ選ばれた資本主義社会の勝ち組のさらに漉された上澄み、といったニュアンスが伴うのは確かでしょう。

 そういう「財界人」の、世間一般におけるイメージ形成の経緯を考えた場合、たとえば、あの松下幸之助などが寄与したところは大きかった。戦前の「財界人」は、「会社」自体が未だ世間と縁遠い存在だったのに伴い、それほど庶民から親しまれるものでもなかったのに対し、戦後の高度成長期以降は一気にそれがある種の有名人、社会の成功者として世間一般の脳裏にも結像するようになった。そういう「財界人」が功成り名を遂げ、それこそ日本経済新聞の「私の履歴書」欄に来し方を弁じたりするようになると、人により濃淡はあれど、どこかである種の宗教、いや、そこまで具体的でなくとも何らかの信心めいた心境を吐露する場面が混じってくる。それは政治家や、戦前ならば軍人などにも見られたような、人の上に立ち、群を抜く能力で衆を導く立場にある者の中に、どこかで宿ってくるものでもあったようです。

 思えば、この稲盛氏などもそういう信仰、信心の気配が色濃いひとりでした。臨済宗で在家得度をし、実際修行も重ねた挿話は有名ですし、実際、広く仏教界を財界、実業界と結びつける働きも行なってきたという。そこには単に商売っ気だけでなく、何らかの個人的な、生身のひとりに宿る何ほどかの想いが伴ってもいたはずです。

 とは言え、内実は何であれ、いまどき世間の皮膚感覚の一方では、そのような信仰や信心、宗教につながるようなもの言いや立ち居振る舞いを伴うリーダーに対していかがわしさや胡散臭さを感じてしまうのも確かです。事実、俗に言うブラック企業の経営者が押しつける新人研修や服務規程、各種ハラスメントが野放しな社内風土などの背後に、どこかそのような信仰や信心めいた頑なで偏狭な信念が背後に感じられる場合は少なくない。ならば、それらネガティヴな信仰や信心と、「財界人」と呼ばれるような人がたのそれとは、さて、どう違うのか。
 
 このへん、二次産業ベースの「財界」イメージが未だ下地としてはしっかり継承されているのかも知れません。その意味で、この稲盛氏や、オリックス宮内義彦日本電産永守重信あたりの諸氏は、いずれも松下幸之助以来、関西、京阪神経済圏を足場に台頭してきた人がたゆえの、「商人」と「財界人」の二重性、のようなものも感じます。それは、ドメスティックなものと、近代的で官僚的でもあるようなものとの、相克でありつつ融和もまたしてゆけるような雅量を伴ったものだったらしい。そしておそらく、その双方を共にわが身に引き寄せておくためにこそ信心や信仰、時に宗教と見まがわれるような頑なさや偏狭さ、確かな信念と見られる「社会的な個」の輪郭が必要だったのではないか。さらに、それこそが「財界人」と呼ばれる存在の、最も本質的な実存の拠り所になっていたのでは、と。

 

 けれども、そのような幸福な統合が時に可能であった生身の生きた世代は、そこにまつわっていた何ものかと共に、すでに過ぎ去りつつあるらしい。稲盛氏の生年が昭和7年、宮内氏昭和10年、永森氏は昭和19年。かの松下幸之助が明治27年生まれの19世紀人だったのに比べて、彼らは30年以上離れた親子の距離だったわけですが、その一方で、IT時代の寵児として出てきた孫正義が昭和32年、村上世彰昭和34年、三木谷浩史が昭和40年、あのホリエモンは昭和47年と、いずれも高度成長期以降の世代になります。ならばさて、彼らが果して「財界人」の範疇に入るかどうか。「財界人」として世に処してゆく上での、何らかの信心や信仰のようなものが、彼らに宿り得ているのかどうか。このあたり、とりとめなくも、しかし案外根の深い本邦の風土、それこそ文化論的な脈絡での大きなお題のような気がしています。

   

「団塊の世代」と「全共闘」⑰ ――俗流「世代論」の落とし穴

第二章 団塊の世代が作り出したパラダイム・ターミノロジー

団塊団塊と呼ばれる理由

――さて、ここからは「団塊的なるもの」は本当にあるのか、というあたりに絞って、話を深めてみたいと思います。


 今までの話では、団塊の世代批判というのは本質的な批判になっていないものがほとんどで、結局、みんな同じじゃないか、となってしまいかねないわけですが、そもそも、団塊の世代を批判する時に、半ば自動的に想定されるその「団塊的なるもの」の中身は、果たしてどういうものか、ということを考えてみたいな、と。言い換えれば、イメージとしての団塊、に焦点を当ててみよう、ってことです。

 ならばとりあえず、ありがちな団塊批判のステレオタイプを、ざっと並べてみようか。

 まず、世代的に人数が多い、とか束になってかかってくる、というのがある。これに、言っていることとやっていることが違う、とか、議論をすると理屈っぽい、というのが加わるね。
実際には、「若い頃は社会が悪いと反抗していたのに、今はのんべんだらりと現実を受け入れている」なんていう形になってくるんだけど。まあ、このあたりの組み合わせが団塊の世代に対する批判のお定まりのパターンになっていると言っていいよね。でも、ちょっと立ち止まって考えたらわかると思うんだけど、こういうのは何も団塊の世代だけの特徴というわけじゃない。いつの時代にも存在している人間性のひとつに過ぎないんだよ。

 たとえば、「すぐ群れたがる」というのがよく言われるけど、戦前の世代だって、やれ遺族年金を出せ、戦時の補償をしろ、と、みんな束になって訴えていたじゃないか。人口の問題として、団塊はひとつの塊になっている、というのなら、それは単に統計的事実でしかないしね。

 だから、先回りして言ってしまうと、その「団塊的なるもの」が真実であるかどうかという問いかけは、意味がないと思うんだ。ただ、やはりみんなが、団塊の人たちに特有の性格ってあるな、と思っているならば、じゃあ、そのように語られる理由が何だろう、ということだね。その印象が果たして正しいかどうかは、科学的に検証できる範囲では、取りあえず関係ない、と私は思っているけど、でも、ならばなぜみんな団塊の世代についてそういう風に語りたがるのか、ということにはまた何か別の理由があるはずで、おそらく、そこをほどいていくのが団塊論をやろうとする時の課題だろうと思う。

――それは全く異議なし、ですね。客観的科学的に真実かどうか、よりも、どうして人々はそのように考えたがるのか、語りたがるのか、というところに焦点を合わせる。狭い意味での「ファクト」を超え得る社会的な真実=〈リアル〉ってのはそういう認識の上にようやく姿を現すようなものなんだと思います。


 「団塊」論、というのはその意味でも、もうひとつ別の角度から言えば、どうしてみんなそれほどまでに「団塊」が気になるの? ということでもありますよね。

 そう。さらに同時に、その「団塊」をダシにあなたたちは何を語ろうとしているの? でもある。
 科学的に検証可能かどうかわからないけど、そこに一種のアトモスフィア(空気・雰囲気)があるのは事実だろう。「団塊」という言葉でみんながなんとなく了解して、うんうん、と頷きあっているのだから。

 たとえば、これは批判というほどではないんだけど、団塊世代の多くは子育てに失敗した、とよく言われるよね。なぜかというと、父権の喪失と言われるように、あまりきついことを言わない、物わかりのいい親父になりがちで、これは個人主義とも関わるんだけど、それが定年を迎える頃になると、今度は最近言われるところの「ちょい悪オヤジ」系に傾いてゆく、と。どっちにしても、かつての厳父のイメージはもうない。それは確かに団塊の世代以降にある傾向だと言えるんだけど、でも、不思議なことに、団塊批判をする連中はあまりその点に触れないんだよ。

 たとえば、「ちょい悪オヤジ」について、何で団塊のちょい悪オヤジたちは政治に参画しないのか? という意見はあるけれど、そもそもその「ちょい悪」自体はどうなの? と問うと、それは別に悪いことじゃないよ、とくる。これが私にはどうにも納得いかないんだよ。
 たとえばさ、戦前だったら、勤め人は五十二、三歳が定年で、官員たちは退職した後、ちょっとカネもある暇もできた、ということで、夏になれば、絽の浴衣を引っかけてカンカン帽をかぶり、嫁さんには内緒で女郎屋やカフェに行くような輩がいたんだよね。もっとも、それができるのは豊かな層だけだったんだけど、でも大きく言えばそれも今の「ちょい悪オヤジ」みたいなものかも知れない。

――都市部の新中間層、って言われてたような中に出現し始めていたんでしょうね。文字通りの「中流」ですが。

 要するに、高度成長以後の、富の蓄積による豊かさで、日本人の多くが「ちょい悪オヤジ」ができるようになった、ってことなんだよ。戦前は都市部の、それもごく一部に過ぎなかったものが、社会が豊かで、富がそこそこあまねく広がったものだから、みんなが「ちょい悪」に参加できる。世間では「ちょい悪」の雑誌が出て、「プチチョイ悪」のアイテムも売れるからさらに増えてくる。で、普段は団塊の世代に対して反感を持っている今の三、四十歳代も、それを見て、ああ、自分もああいう具合にやってみたい、と実は思ってるわけだ。だとしたらだよ、団塊もそれを批判している側も、基本的な価値観は同じじゃないか、ということを私は言いたいんだよ。

 くり返すけど、群れたがるとか、そんな昔から普通にあるような行動形態を、どうしてわざわざ批判するのか? といえば、実は彼らは批判なんかしていないんだよ。自分たちの批判には理屈があるというけど、理屈なんていつの時代にもあるのが当然なわけだ。たとえば、終戦直後なんかは、理屈が理屈として通らなかったんだよ。だって、「おまえら、日本人として恥ずかしくないのか」とか「大和魂はどうした」とか、とにかく理屈として通らない批判ばっかりだったから、議論にもならなかっただろ。理屈というのは、双方が噛み合って初めて成立するんだしさ。

 そのへんをていねいに解きほぐしていくと、では、六○年代に起きた事態は本当は何だったのか、結局そういうものがわかってくるはずだ。で、そういうことはいいことも悪いことも全部つつみ隠さず伝えるべきだと思う。これは歴史の反省とかそういうことじゃないよ。社会が豊かになれば、豊かさは同時に退廃を生んでいくのだから、それによって世代の特性が形成されるのは、ある意味必然なわけで、ただ、それを自覚できているのか、無自覚にそれを享受してしまっているのか、そこが大事なんだよ。

 『父性の復権』をいった林道義(元東京女子大教授・日本ユング研究会会長/一九三七│)じゃないけど、いわゆる「父権」的なものが世の中からどんどん後退しているのは、これはまあ、確かだよね。あの林は、ユング心理学の解釈に基づいてラディカルフェミニズムへの批判を積極的に展開したわけだけど、彼自身はもともと六○年安保で全学連織部長をした人なんだけどさ。

――ああ、そうみたいですね。なんかそういう方向転換は、かつての清水幾太郎みたいですが。

 要するに、団塊の世代、若い頃、まだまだ十分に厳格で頑固だった親たちに対して反抗し、闘いを挑んでいた。だから、自分たちの子供に対して同じことをするわけに行かないんだよ。でも、昔はそういうことが平然と行なわれてたんだよ。若い時は反抗的だった子供だって、大人になると一転して頑固な親父になったものだったし、それが別に当たり前だったんだけど、なぜか今はそうならないんだよね。

――人がみんな必要以上に自省的になっちまったというか、自分の心や自意識が大事になってきたことと比例して、過剰に他人の思惑や内面を気にするようになってしまってますからね。それに、ライフコースの上での「大人」の枠組み自体が溶解してますから、それこそ通過儀礼的にひとつ「大人」になる、あるいは「親」になる、という自覚が持てなくなってるんだと思います。

 おそらく、なんだけど、五○年代、六○年代の文化、もっと言えばその頃の「豊かさ」を吸収しながら生きてきた人間は、昔みたいな厳格な父にはならない。というか、なれないんだよ。もっと言えば、そうなってしまうのはいけないことだ、と固く思いこんでる。それよりは、物わかりがよくて、やさしくて、それこそアメリカのテレビドラマのように、一家には常に明るい笑いが絶えない……そんな父親像がどこか理想型として抱かれているんだよね。 小谷野敦比較文学者/一九六二)などが怒っているように、ジョークが言えない人間は駄目だ、みたいになってきて、ジョークの講座まで出てくる。

――「社交性」、あるいは最近だと「コミュニケーション・スキル」とかいう言い方でその種の抑圧は増幅されてますね。人間関係が希薄になってきたと言われる分、まわりとうまくつきあう能力のあるなしが必要以上に自覚させられてるって側面もあるんでしょうが。


 柳沢厚生労働大臣の「産む機械」発言ってあったじゃないですか。あの時の柳沢大臣の対応見てると、ああ、この人、ほんとにそういうものわかりのいいオヤジが理想型になっちまってるんだなあ、と感じて痛々しかったですね。あの人、七一歳じゃないですか。なのに、自分の娘か息子の嫁ぐらいの世代の福島瑞穂辻元清美高市早苗に袋だたきにされても、ひたすらあやまって涙ぐみさえしてたわけで。奥さんは版画家だっていうから、まあ、ほんとにそういうアメリカのテレビドラマみたいな家庭を理想型としてやってきた七一歳なんだなあ、と思いましたよ。また、叩く側もそういうキャラクターを見抜かれてるから居丈高にからんでたってところもあるのが見えて、それもいやらしいなあ、と。なんか「戦後」家庭内の人間関係の縮図みたいなものが期せずしてあらわに見えちゃった、みたいな感じでしたね。

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 そういう「戦後」的なオヤジ像みたいなものがどういう風に形成されてきたか、というのは以前からずっと気になって追っかけてて、自分自身の仕事としてはそれこそ『無法松の影』のその後ってことなんですけど、たとえば木下恵介の戦後のフィルムなんかがひとついい補助線だと思ってます。バンツマの『破れ太鼓』なんて、その後の高度成長期のテレビドラマの「頑固オヤジ」の雛型になったところがありますけど、あのバンツマの家族と対抗的に描かれていたのが、まさに今呉智英さんの言ったような「戦後」の理想像としての家族、なんですよ。オヤジが滝沢修、母親が○○○で、息子の宇野重吉は絵描きを目指している。で、息子のやってることに理解があって、話し合いで何でも解決しようとして、と。でも、今見るとその家族よりバンツマの頑固オヤジの方がよっぽどまともなんじゃないか、と思えたりするんですが。


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 そもそも、「団塊の世代」って言葉、大月君の言い方だともの言いってのが、最初とは中身が少しずつ変わってきてるところもあるんだよ。最初に堺屋太一が「団塊の世代」と言いだした時は、それはまったく統計的な話だったんだよね。

 彼は通産官僚だから、消費者動向を知る意味で数字は出せる。たとえば、学生たちがGパンを穿き出したという、これはカジュアル文化の話というより、明らかに量の問題だった。たとえば、五人か十人、ちょっと変わり者がGパンを穿いて学校へ行っても、「何か変わっているやつがいるな」で終わってしまうよね。ところが、日本全国でGパンを穿いて大学へ行くのが当たり前になれば、その分だけ、それを作る生産、流通というのが必要になるじゃないか。

 Gパンの流行という風俗の背景に、産業構造の違いが出てくることになるわけで、またそれを大学生に送り込めるということは、高校生やほかの世代にも送り込めるだろう、と。すると当然それによってGパン文化が縦横に広がっていく。それはまさに団塊の世代の力なんだけど、かといってGパンを穿いている学生たちが、おれたちの世代は何百万人いるから「みんなでGパン穿いて、流行らせようぜ」とは、誰も思っていなかったわけだよ。


 だから、まさに堺屋が「団塊の世代」と呼んだということ自体が、最初からそういう世界観を前提としたジャーゴンであったわけだ。しかも、出発点からして官僚的発想なんだからさ。

――それこそ「産む機械」って言ってしまう発想と同じですよね。数字で現実を把握して、それをどのように政策的にハンドリングしてゆくか、という目線からのもの言いなわけで。

 そうそう。で、そういう経済官僚だからこそ、堺屋は統計的な消費者動向を把握し、政策立案しなけりゃならなかった。その場合に、大学を何年にいくつ増やさなければいけない、とか、主には経済効果の問題で、これだけ分母がいて、その数の若者がこういう行動をとればこういう産業を興してゆけばモノが売れる、といったことを考えるのが彼の仕事だったはずだよね。当時、すでに消費文化は始まっていたから、若者の購買動向が変わったら、それまでだったら相対値がこれだけだったけれど、絶対値が大きくなったから今後はこれだけ増えますよ、といったことを、彼ら通産官僚は考えるのが仕事なんだからさ。これからは若者の動向を考えていかないと商売はできませんよ、と産業界に提言する、その意味で「団塊の世代」というキャッチコピーは有効だった。でも、その渦中に生きている人間にしてみれば、自分たちの世代は何百万人いるからこれからはおれたちの時代だよな、なんて普通は思っているわけないじゃないか。

――ですよね(苦笑) 普段日常を生きている限りは、そんなもの、自分たちの世代が国民全体、人口構成の中でどれくらい多数派かどうか、みたいな意識はまず持つわけない。というか、そういう目線なんか持ってしまうような人間自体がヘンなわけで。

 そういう意味で、むしろそういうことを思いたがる人間の方が、ポジであれ、ネガであれ、「団塊の世代」というもの言いに反応してしまうところがあるんだと思ってるよ。俗流世代論の落とし穴というのはそういうところがあって、本当に役に立つ世代論をやっていないからこそ、危ないんだよ。

「団塊の世代」と「全共闘」⑯ ――個人という「正義」

● 個人と組織、個人と社会、個人と共同体

 組織がなくなって、「個=正義」という時代になってゆくと、組織にまつわっている政治も蒸発するみたいになくなってしまった。ただ、それでもあの六○年代後半は、個であることを主張しようとすれば、もちろん大した覚悟ではないけれど、それでも今よりはまだ何らかの覚悟が必要だったんだよ。たとえば、まず親や世間に対してまだそれなりの葛藤があったしね。ところが、今はその団塊世代が親になっているから、子供に対して「どうだ、その顔ならパーマかけたら」とか「茶髪にしたら似合うぜ」みたいな風になってるわけだろ。そんな子供の側には、親や世間ってものに対する葛藤はもう全くと言っていいほどなくなってる。

――親が理屈抜きでこわい、とか、世間の大人自体に何となく気後れがする、みたいな感覚、ほんとに薄くなってしまっているんでしょうね。幼稚園に入るか入らないくらいの頃から、自分の趣味や好みみたいなものをどんどん増長させるようになっているし、子供向けの学習雑誌の類なんかでもすごいことになってますよ。小学生に化粧の仕方とか、男の子とのつきあい方なんかをおおっぴらに指南してたりするし。親がそれをまたよしとしてるどころか、率先して煽ってたりしますね。

 私たちの頃、いや、大月君たちの頃くらいまでもまだそうだったと思うけど、まず何より、学校ってものが葛藤を生んでくれていたんだよ。丸坊主にしろ、と言ってくる学校に対抗して、髪の毛を伸ばすためには、まず校則を変えなければならなかったんだしさ。

――ありましたねえ、校則反対闘争(笑) いや、でも笑いごっちゃなくて、校則変えなきゃならない理由ってのはおおむね髪の毛伸ばさせろ、だったりしたのも確かなわけで。生徒手帳に書いてある校則ってのを、それで初めて真剣に読み返したりしましたよ。おかげで、ああいう法規的な文言というか、制度の言葉ってのに対する免疫がある程度できたかも知れない。


 そういう葛藤の中で個人と社会、自分と共同体との付き合い方、距離感などを学んでいったわけだ。この程度のことをやらかすのならこういう覚悟でいい、でも、ここまでやるには命がけで生涯棒に振る覚悟が必要だ、ならば、自分は根性ないから一歩退こう、または、生涯棒に振っても食っていけるだけの手立てを考えてからやろう、とかさ、それはいろいろ人によって、場合によって学んでゆくことができたんだよ。

 たとえば、私の場合だと、最後は弁護士になればいいと考えていたんだ。私の場合、常にそういう保障は弁護士だったな。いざとなったら資格を取ればいいや、と。

――ああ、呉智英さんの頃はまだ、法学部、ってのがそれくらい法曹関係と直結してたんですかね。あたしの頃だともう、それはかなりあやしくなってたような気がします。浅羽通明みたいなのは初手から司法試験狙いだったみたいですけど、でも、同じクラスでも入ってきた時からそっちに決め打ちしてかかってたのは四十人ちょっとのうち、そうだなあ、おそらく十人内外だったんじゃないかなあ。あたしみたいに、文学部入りたかったのに法学部しかひっかからなかった、って外道も含めて、ですけど。

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 資格にも当時は難易度があって、下のほうにはボイラーマンなどもあったけど、私たちの場合は大学に行っていたし、学生運動をやっていた連中は運動を止めたら二、三年勉強して司法試験に合格すればいい、と考えているのが多かったな。現に何人かが弁護士になったしね。教員免許もあったけど、これは現役じゃないと意味ないし、何より、学校への就職がある以上、学生運動の前歴があるとすこし支障がある。まして、前科が付いているとマズイだろ。でも、弁護士の場合は前科でさえも不問だったからね。

 

――親なり大人なりが、きちんと責任もって抑圧を与える、ということができなくなっているんでしょうね。「嫌われたくない」というのが先に立って、果ては何かというと「子供の心のケアが……」となったり。あれも、そこまで相手の内面、気持ちの問題が気になるという、こちら側の問題が大きいように思ってます。


 長谷川伸が自伝で書いてたことなんですが、彼はご存じのように明治時代に大きくなった人ですけど、家が没落して社会の底辺を小さい頃からウロウロしていた中で、とにかくそんな彼が何を思い、何を感じているか、なんてことをまわりの大人のほとんどは全然意に介そうとしていなかった、と。しかもそれを、淡々と書いてるんですよ。もちろん彼は感受性の強い子供だったわけですからそれはものすごく辛いことだったわけですけど、でも、彼の筆致はそのことを嘆いているだけ、というのとはちょっと違う。それが当たり前で、ちゃんと意に介してもらいたかったら、早くそれだけの、ひとかどの人間になってみせればいい、という感じなんですよね。

 子供の内面なんかひとまずなかったことにしていい、という約束ごとをしれっと演じられるくらいの強さを、大人の側が持とうとしないことは、かなりまずいんじゃないか、と思ってます。これは単に個人レベルじゃなくて、社会や国家といったレベルでもそうなんじゃないかなあ。

 経済、文化という面で日本と同じレベルの国は多くあるし、先進国の中にも種々あるけれど、彼らはもう少しそれなりに覚悟を持って生きていると思うよ。日本人はあまりにも恵まれたぬるま湯の中で、ほんとにボケてしまっているみたいだね。

 

 ひとつは進学率の問題がある。大学進学率が日本は五○パーセントを超えているけど、こんな異様な国は世界中探してもまずない。しかもこうなったのはせいぜいここ二十年足らずのことだからね。それまでは、たとえばうちの子はそれ程頭がよくない、という場合なら、親父と一緒に修理工場で働くか、小さいけれど雑貨店でも出すか、という風になっていたのに、今やそういう発想すらなくなってきているだろ、誰もが大学へ行って卒業すれば、ネクタイ締めて仕事に就けるだろう、と、まだこの期に及んでも思ってるところがある。

 何よりその手前の、学生になること自体にもう引っ掛かりがないしね。大学受験だってはっきり言って今は決して厳しくない。だから、学生になったことに責任も伴わない。私たちの頃は、学生証を持っているってことは大変なことだったんだよ。

――「学割」ってのがどうして存在したのか、ってことですよね。上は国鉄から下はストリップに至るまで、学割がきいてたわけで。


 それが今や、大学へ行かない方が珍しくなった。たまに行ってないのがいると、あれ、おまえ高卒? と意外に思われ、何で大学行かなかったの、と単純に不思議がられるだろ。

――ちょっと前までは確かにそうでしたね。ただ、今世紀に入るくらいからはさすがに状況が変わってきたところもあって、とにかく学歴自体がもうアテにならない、ってことが世間の側にもわかってきたフシはありますね。それと、大学どころか高校まで含めて、実態はもう専門学校か就職予備校状態ってのが現実ですし。名前は「高校」でも中身は美容師や調理師になるための課程がメイン、とか。大学ももう福祉系や医療系の資格がとれるコースがある、ってのをウリにしてないと学生自体が集まらないし。

 昔は高校の商業系学科が、なまじの大学よりランクが高かったんだよ。今、そういう商業高校があったとしても、教師の側が恐怖心を抱いて「一流の商業高校に行くくらいなら、三流ランクでも大学に行っておいた方がいいんじゃないの?」と普通高校に行くよう指導してしまうし、親も親で、経済的に余裕があるからその程度の大学なら行かせておこう、と考えるからね。

――まず文学部、なんてのは十年内外でおそらく消滅するんじゃないかなあ。実際、早稲田でも露文や仏文がなくなるっていうし。思想だの教養だの、って言って呑気なこと言ってたいわゆる文科系ってやつが、もう音を立てて崩壊している段階なんだと思いますよ。大学でまだ教えている友人なんか、ほんとに辛そうですもん。逆に、新聞社とかを途中で辞めた団塊の世代が、どんどん大学の教員になってたりしてますけどね。余生を若い学生相手に大学教授で、なんていうのが夢なんだなあ、と思って眺めてますけど、でも、それはまだ大学に幻想がある世代だからなんでしょうね。