女たちの「西部」

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 写真家テレサ・ジョーダンの“Cow Girls:Women of the American West”(1982)は、アメリカのフロンティアの歴史の中でこれまで裏側に押し込められてきた「西部の女たち」の「くらし」が、肉声でつまっている楽しい本だ。インタビューと、資料と、写真とで綿密に構成してゆく手法は、歴史学民俗学、人類学といった領域で注目されている oral history と呼ばれるものに近い。だが、難しいことは抜きにして、僕たちが失くしてしまった「くらし」のリアリティに迫るひとつの読みものとして、この本は週末の乗馬クラブ一回分くらいの愉しみは、たっぷりプレゼントしてくれる筈だ。

 彼女たちは誰も、馬や牛が「くらし」の中に在ること、に向かって、まっすぐに立つことだけを自分に課す。例えば……八年前、二八歳でコロラドの牧場の男やもめのところへ押しかけ、そのまま女房になったというドナ。何やら「アメリカ版・吉永みち子」という気もするが、自身ワイオミングの牧場育ちというテレサのインタビューに、彼女は歯切れ良く応えてゆく。

 「牧場をやめようと思ったことがあるかって? そうね、そりゃ誰だってたまには思うんじゃない? あなただって、仕事を放り出したくなるでしょ? でも、またいいこともあるじゃない。もしやめちゃったら、その次にやってくるいいことも知らないままなのよね。これ以外のあたしの人生なんて考えられないわ。これがあたしの人生なのよ。だって、あの人もこの仕事しか知らないし、この仕事しかやってこなかったわ。」

 「何が支えだったのかって? 本当のところ、まわりのこと全てに対するチャレンジだったかも知れない。おカネじゃなかったことは確かよね、そう、そんなわけない。(笑)それとね、あたしは街じゃ幸せになれなかったってこと。それに、ここではね、いつだって勉強することばかりなのよ。毎日そうよ。まだ知らないことばかりってのはいいことよ。だから、頑張れるじゃない」


 こんな女たちが、と言うよりも、こんな人間たちが、と言っておこう。もちろん、ドナだけではない。テレサのカメラとペンに捕らえられた二八人の「西部の女たち」は、誰もがみな、神話の中の人物のように素敵な表情で「くらし」を語る。無数の名もない「彼女たち」の汗と想いを背景にして、おそらく、馬もまた馬以上の何ものかになってゆくことができる。

 それは、動物と人間とのコミュニケーションの在り方の問題である。成人病に苦しまなければならなくなったこの国の「動物」たちはもちろん、競馬場を疾駆するサラブレッドにしたところで、生き物としての一頭の馬という以上に、文化の裡に育まれ、存在させられているという側面を色濃く持っているのだし、それは、結局のところ、彼らとつきあう僕たち人間の「くらし」の鏡に他ならない。彼らが不幸せな時代は、僕たちもまた不幸せなのだ。

 「くらし」の中での、馬たちとの気の遠くなるような「つきあい」の歴史の中に初めて、口ずさむに足る物語が宿る。僕たちが僕たちの時代に本当に馬の英雄を求めるのならば、まず、その間に折り重なったまま忘れられているこの国の馬と人間たちとの「つきあい」の物語に眼をやることから始めなければならない。馬が、「くらし」の中にあたり前にものとしてそこにいる、そんな風景を前提にして競馬場の熱狂も光り輝く。そして、おそらく、僕たち自身も――

 「あたしが彼を変えたのかって? 男の人を変えたりできるものかどうかなんてわからない。でも、うーん、そうね、あの人も、女だってしたいことをする、ってことはわかったと思うわ。あの人、こう言うのよ。『おまえがどうしたいかいちいち言わなくてもいいぞ、おまえはとにかくやっちまうんだからな』って」

*1:ノコノコ北米まで出かけて仕入れてきた洋書の山からひとつかみ、な一冊。

*2:てか、JRAの仕事も末端ながらしとったんだわなぁ、この頃は。確か三つ折りの「女性向け」広報パンフみたいな媒体で、四谷だか新宿三丁目あたりの雑居ビルに入ってる小さな編集プロダクションが下請けで仕切ってた仕事だった。