―――現在の日本では、食うに困らない程の稼ぎなら、何をやってでもできます。ダメならダメでも、いいと思う人。ダメかもしれないけれど、もうひとふんばりしてみたい人、どう考えても自分には才能があるとしか思えない人、この世界が好きでたまらない人、他に行き場がなかった人……そういう人だけが、入ってくるでしょうし、残ってゆくのでしょう。
――糸井重里
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「ギョーカイ」という言葉が、どこかに小骨のようにささっている。
この一〇年ばかりの間、さまざまな場所で、さまざまな表情で、さまざまな口ぶりとさまざまな声とで、誰に聞かせるでもなく、しかし声高にばらまかれていたこのどこか国籍不明の響きを持つ言葉。その背後にある、ばらまかれている限りにおいてはすでに自明のもののように共有されてきたらしいなにものかが、どのような背景のもとに、どのような気分とどのような意志とを伴って同時代の空気に溶け込まされていたのか、ということが、ずっと気になっている。
それは、この一〇年、僕の身のまわりをかすめていった生の軌跡のいくつかに、確かにひっかき傷のような尾を引いている。
この際だ。ひとつだけ虫干ししてみよう。
大学時代どこかの芝居の現場で行きあったことのある女に、卒業後三年ばかりたってから、偶然行きあわせたことがあった。雑誌か何か、いずれ仕事のからみだったと思う。
もともと首都圏近郊農村の出身で、いきなり東京に出てきた自分に自信が持てない分まわりとの関係に敏感で、一生懸命場になじもうとすればするほど軽薄なところばかりが目立って浮いてしまう、そんなタイプの女だった。当時そろそろ週刊情報誌としての体裁を整え始めた『ぴあ』に赤鉛筆でチェックを入れては、オールナイトや小劇場にまめに日参し、そのくせ、あらかじめどこかで仕入れてあった評論家の能書き以上のことは決して見てくることのできない愚鈍さがあった。板にあがった時も、そういうものだとばかりに型通りの罵詈雑言を言いたい放題言いつのる演出家の言葉じりに対し、これまたそういうものだとばかりにいちいち過剰に反応しようとし、あげくの果てに、実際に落ち込むよりも先に落ち込んでいる自分を周囲にディスプレイすることが目的化されてしまう、といったうっとうしさを常にふりまいていた。要するに、バカだったのだ。
さてその日、打ち合わせのため喫茶店に入ってきた彼女は、ニキビ跡の多いしゃくれ顔にすりこまれたファンデーションまみれの営業用笑いを満面に浮かべ、席につくかつかないうちにもう、立て板に水とあらかじめ決められた語りを始めた。こちらの顔などロクに見ない。もともとが地黒のところにもってきて、当時サーファーギャルやらがはびこった時期だったせいか、はれぼったい一重まぶたに目一杯のアイシャドーを塗りたくり、貝殼でできた安物のネックレスをちゃらつかせるものだから、ますます正視に耐えない。打ち合わせもへちまもあったものじゃない。
と、妙にのっぺりした指先でつまみ出され、テーブルに差し出された横長の名刺を見て、あれ、どこかで会った名前だな、と思った。おぼろになっていた記憶を引っぱり出し、それをどこかのカタログで固めたようなおよそ身につかぬ風情の眼の前にうまく重ねることができるまで、それほど時間はかからなかった。が、その間、彼女は眼の前にいる僕を網膜に映しはしていたが、間違いなく見てはいなかった。
彼女が眼の前の僕に気づいたのは、冷やタンの氷が八分がた溶けてしまった頃だった。それまでたれ流されていた薄っぺらな語りが、予期せぬ遭遇にほんの一瞬崩れた。が、それもつかの間、「えーッ、今、どうしてんのォ」という間抜けたフレーズをまた新たな引きがねに、彼女は、自分がいかに今充実した仕事をしているか、どのような華やかな人々と仕事を通して出会えているか、ということを同じシフトでまくしたて始めた。こちらの反応などお構いなし。ひっきりなしの雑な笑いと、異様な速度とカン高さの語り。それは、その頃流行っていた「MANZAI」の、あの高圧のフラストレーションを一気に叩きつけるような速度によく似ていた。
一方的な独語ではない。隙を見てかろうじてはさみ込むこちらの言葉にあいづちは打つ。だから一応「会話」という形にはなっている。しかしその実、確実な意味のキャッチボールは何ひとつされていない。そのサイダーのような泡立つ語りに頻繁にはさみこまれる「ギョーカイ」という発音だけは、しかしやけに耳に立った。
その「ギョーカイ」にまつわらせて彼女が気負い込んで説明してくれた境遇というのは、その頃急に増え始めていた編集プロダクションのひとつ、放送局系PR誌の編集の下請けのそのまた追い回しといったところにぶら下がってる、ということらしかった。その、どう見ても見当はずれな空回りをしている自分の現在におそらく彼女自身かすかに気づきながら、何かその不安を一途に任せて癒してしまえることのできる呪文――確かにそんな角度と方向とで、その「ギョーカイ」という言葉ははさみこまれていたように思う。ペラ数枚の、誰が書いても違いはないようなその仕事でさえも、決められた通りの手続きと語りとをひと通りなぞってみることがその「ギョーカイ」に生きる者のアイデンティティであるかのように、ひとしきり騒いだ彼女はそそくさとレシートをつまみ、斜めに減ったローヒールのかかとを少し気にしながらレジへと立っていた。だが、その呪文が彼女にとってどんな世界の広がりを支えていたのかについては、その時は結局確かめることができずじまいだった。
「学校」という 居留地 の中、たとえあらかじめ定型化された「自由」であってもそれを食いちらすことを覚えてしまった意識が、卒業というデッドラインに控える「就職」に追いつめられたあげく、手軽に食い扶持を稼ぐ手段としてそのような「ギョーカイ」周辺に消極的に引っかかってゆく、という構図は、おそらく同時代にかなり普遍的に現われたものだと思う。そしてつけ加えれば、正社員かそうでないか、就労形態はどうであれ、いずれ見事なまでに後ろ向きの選択である場合しか僕は見ていない。「就職」という言葉とそれまで食いちらしてきた「自由」とを最も安直に盛りあわせた結果であることは明白で、しかしそのことに当人たちはほとんど自覚的でない、という難儀。そんなわけで「ギョーカイ」という言葉は、僕にとってはあまり心地良くない記憶を引き出すインデックスとなっている。
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本来の「業界」という言葉にまつわっているのは、自分が足をつけていると積極的に自覚できるような、仕事についてのある自明の広がり、とでもいうような意味のはずだ。
『広辞苑』ならもっと明快だ。
「ぎょう-かい【業界】……事業または職業の仲間、また、その世界。」
何にせよ、これが「仕事」という軸に即して規定されてくる言葉であることに違いはない。だが、「ギョーカイ」となるとその「仕事」にある特殊な条件がこびりつく。
ここはひとつ、「ギョーカイ」とみなされ得る仕事の条件を、思いつくままランダムにあげてみよう。
● まず、九時〜五時の決まり仕事ではないこと。つまり朝寝、夜ふかしが可能なこと。
● 仕事の時間管理に関してタイムカードにそれほど拘束されない伸縮性のあること。
● 服装は必ずしもネクタイをしめなくてもよく、ということは、いわゆる「フツーの会社」に保たれているさまざまな慣習や規律から相対的に自由であること。
● 仕事の基本的な質としてはデスクワークであること。そして、その程度には単純労働ではなく、つまり具体的に何かモノを売ったり、やりとりしたりといった質のものでもなく、といって素朴な肉体労働というわけでもなく、何にせよ「知的」で「クリエイティヴ」と思えるような仕事であること。
● しかし、四六時中デスクにへばりついていたり、空気の悪い室内にこもりっきりというのでもなく、「取材」や「打ち合わせ」といった言葉で示されるような「いろいろな人に会える」機会があちこちに設定されていること。
● 別な角度から測定すれば、「現場」という言い方が特権的な響きと共に使われている仕事の場であること。
● そこから派生して、新幹線や、飛行機や、自動車といった交通手段を自由自在に駆使し、一分一秒をも惜しんで厳密な「スケジュール」の下に高速移動するような多忙で振幅の激しい状態が常であること。できれば、それは時に「海外出張」というようなより一足飛びの舞台設定も可能であるような仕事であること。
● さらに、願わくば「有名人」、ないし「芸能人」といった「見られること」を身に凝縮させている人種に「仕事」という特権的な名目の下に個人的に会える可能性があること。
● 血縁、地縁といった一次的社会関係を仕事の現場で意識しないでもすむようになっていること。それぞれの背後にある「家族」は意識の向う側に隠されており、その限りで男女差は薄く、いわば「学校」のような男女平等が成立しているようにその場の男女共に思えること。
● そして、これが最も重要だったりするのだが、いわゆる「フツーの会社」の仕事よりも現実に収入が良いか、少なくとも、それほどの落差はないこと。最悪の場合でも、今はそのような金銭条件が悪くてもいずれ良くなる可能性がたっぷりある、ということが幻想として保証されていること。
● もう少し分解すれば、「一発当てる」という言い方にきれいに収まってゆくような 何ら連続性のないバクチ性の下の根拠なき楽天主義が、あらゆる無軌道と判断停止に対する自己正当化の言説として常に発動し得る状態にあること。例えば、「夢を追う」とか「可能性を試す」といった決めゼリフが節目節目で現在の悪条件を正当化するための処方箋として、しかも自明のものとして語られるような空気があること。
● 以上のような属性が、実態としてはともかく、イデオロギーとしては「自分」に収斂してゆくような構造になっており、その限りでは「自分」についての裁量範囲が広く、だからこそ「自由」だ、と感じられるようになっていること。
このような属性を持つ仕事の場とは、どこにもないイメージを巧妙にでっちあげる、そしてその分具体性の乏しい第三次産業の範疇に収められるような仕事であり、ミもフタもなく言えば、いわゆる「マスコミ、広告」方面の仕事である。「ギョーカイ」という言葉から引きずり出されるものは、いずれこのような断片を手前勝手につづり合わせた果てに結晶しているある独特の仕事の場である。
そこでは、学生時代と変わらない生活様式と価値観が、「学校」とは違ったもっと直接的な資本の運動力を背中に背負う場で、より野放図に、よりわがままに肯定されている。そこに貫かれているのは、学生時代以来の何ら当事者性のない「そのままでいいのさ」であり、「いつまでもこのままでいたい」ということのイデオロギー的表現である。
かくて、「世間」と「学校」、社会人と学生の間に宙吊りになる足をつける場所の危機を最も低い次元で擬似的に解消する特効薬として、この「ギョーカイ」は注視される。自分自身をも含めた同時代の視線にあらゆる方向から見られること。その見る/見られる関係の上に、この「ギョーカイ」は君臨している。その限りでそれは芸能界に等しい。仕事の実態は多種多様であっても、それは最終的にそのような見る/見られる関係にまとめあげられるような現場である限り、ボクもワタシも「ギョーカイ」に足をつけている、といううるわしい統一感は保たれる。一方、そのような場から疎外されていると思う者たちにとっては、その見る/見られる関係の磁場にとらえられていることにより、それは常に発情した視線を投げかける対象であり続ける。
これは、それだけ「ギョーカイ」でない「フツーの仕事」――つまり「会社」の抑圧が強い状態において、半ばユートピアのように裏返しに想定され、共有された幻想である。少なくとも、それが何がしかの羨望を喚起するような位相で社会に共有されている限りにおいては、だ。言い換えればそれは、ニッポン型企業社会の壮大な陰画である。「会社」にまつわって想像されているさまざまなうっとうしい規制から逃れた仕事の世界、それが「ギョーカイ」なのだ。
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この「ギョーカイ」神話について最も重要なのは、それが必ずしも「学校」の階段の果てに存在するものではない、ということだ。しかし、人が「社会」に生まれてゆく社会化の過程で「学校」の偏差値的序列化に馴らされきった者たちは、そこへと至るために同じく「学校」的、偏差値的明快さに支えられた誰もが「平等に」そこへ至ることのできるマニュアルを渇望する。
「資格」という呪文と共に浮上した専門「学校」がその渇きを埋めた。その卒業証書を手にさえすれば「ギョーカイ」に入ることができる、という幻想を売る商売は、塾の遍在によってそのような「学校」の生産する序列化にしかアイデンティティが求められなくなっている意識が、ある世代を境にして膨大に存在し始めていることに支えられている。もちろん、その「資格」が実際に「ギョーカイ」へのパスポートとしては役に立たないことに気づく時は、彼らとて確実に来る。だが、その瞬間から今度は「コネ」というもうひとつの明快さが蔓延する。「コネ」を持つか、持たないか、が新たな「資格」の効果を担う。それはそれでまた別の「学校」的序列化の制度が構築されてゆくし、専門「学校」もまた「○○とのパイプが太い」といった形でその「コネ」による序列化をとりこんでゆく。しかし、再びそれもまた、「ギョーカイ」へと至る明快な階段とはなり得ない。
というわけで、誰もがそこへ至ることを渇望しながら、実際にそこへ至る者はごくわずかで、しかもその資格というのはいまひとつ明快な基準がない、というこの状態は、必然的に「しょせん、人生大バクチ」という厚みのない意識を生み出し、自分が変わり得る、ということを信じられないまま、今の自分そのままで何か「ギョーカイ」に都合良く居場所を見つけてくれるような、そんな「出会い」を夢想する状態を普遍化させてゆく。まるで回転寿司のように、眼の前に流れてくる「チャンス」をパッとつかむこと、それだけを目的とした意識は、「才能」という、背後に生の過程の連続性を想定した本来すぐれてダイナミックであるはずの言葉でさえも、何か最初から動かしがたい、先天的に備わったものとしてその意味をねじまげて解釈してゆく。自分が作り出してゆくものとしての「才能」ではなく、まるで親の遺産のように「運」を媒介にしてしか手にできない「才能」。それは、一方で本来の意味での「才能」を作り出し、評価する社会的な視線の衰弱にも連動しているはずだ。
このような「ギョーカイ」へと向かう意識におとずれる葛藤は、経験の質としては「受験」のヴァリエーションである。「学校」というある種明快な序列化が作動する場と新たにそこに参加するための「受験」という仕掛けのセットは、この国に生まれた者たちが社会化の過程で繰り返し経験するものになっている。その反復は、実際に「社会」に組み込まれ、職業人として生き始めねばならなくなっても終わらない。今や「会社」も、その「受験」を組み込んだ「学校」の階段の果てに存在している。「就職活動」は「受験勉強」とさして選ぶところはない疾風怒涛のうちに経験される。その向こうにあるのは、「会社」という最終「学校」であり、しかもその「学校」はどうやらこれまでと違って数十年の間逃れることのできないものらしい、ということになっている。「受験」にまでさかのぼる偏差値的序列化によってひとたび「ランク」が固定されれば、この先の人生、すべてその「ランク」の中に押し込められてしまう。
こうなると、「サラリーマン」というかなり自嘲的な響きを持つ言葉が自分の身におこることとしてがぜんリアリティを持ち始める。それが「社会」の、「世間」の「フツーの仕事」だと思われているにせよ、いや、だからこそ、その抑圧は濃縮される。だが、この「学校化社会」では、そこから逃れる術を模索する時にも、やはり「学校」的序列化の経験からしか対策を探れない不幸が口を開けている。「才能」のあるなし、「コネ」のあるなし、「資格」のあるなし、といった部分の差異を本質だと錯覚して奔走し、「会社」という最終「学校」から逃れようと「ギョーカイ」を凝視しながらジタバタする。
かくて、この「ギョーカイ」という神話は安泰のままだ。
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しかし、社会に共有されている「フツーの仕事」のリアリティから外れた仕事の場が存在するというのは、別に今に限ったことではない。
小川徹太郎は、かつて大阪港にいた「ニゴ屋」という仕事について聞き書きしている。「ニゴ屋」とは、港湾荷役の過程で出るおこぼれ(「ニゴ」)を本船や艀から半ば強制的に収集しては横流しして回る連中のことだ。
「大体、ニゴ屋の仕事ほどラクなものもないらしい。
通船の待合室へ行って貨物船の入港予定表を事前に見ておいては、朝方、三十間堀にある船溜りから*綱を解いては小船を漕ぎ出す。本船に横着けして、ニゴの買付けに成功したら、早速、持参した袋に詰め替える。……(中略)……いずれにしても、陸の寄せ屋へ漕ぎ着けたところで、たいてい昼にはなっていない。これだけだと、確かにラクである。
では、昼から何をして過ごすのか。『昼になったら風呂いって……。風呂いって背広チャーッと着替えて……』たいてい、行きつけの喫茶店へまず顔を出す。夕凪と朝潮橋の間に商店街があって、そこに十二、三軒の喫茶店が軒を連ねていたそうだ。「三十日が三十日」出向いていく。港湾労働者の現場監督が片手間で開いている店で、暇な若衆の出入りも頻繁にみたようである。『レコード、ジャンジャン鳴らしてなあ。こんな店でも女の子が四ったり(四人)ぐらいおったわ……。ウイスキーやら何んでもよう呑みよったからなあ、酔うたらオヤジにな、ちょっと寝るでえ、いうて。ほた、〇〇ちゃん、ちょっと寝間ひいたり、いうて、奥さんがな……。二階上っていって寝るねん。自分の家みたいにしてなあ。女の子連れて、映画いっつも行きよった。ちょっと女の子かって(借りて)いくで、いうて。あんまり遅うまでおったらアカンで、いうて……。金もよう使いよったからなあ。奢ったりなんかもしたるやろ。』」(小川徹太郎「終りのない仕事」)
一日の「仕事」を午前中ですまし、あとは文字通り「ぶらぶらしている」彼ら「ニゴ屋」は、社会の「呆れと蔑み、驚嘆と羨望、種々な感情が入り乱れている」視線によって見る/見られる磁場にからめとられていたはずだ。
実際、不思議な仕事というのは存在する。仕事の持つそんな怪しさを表現するには、「商売」や「稼業」という言い方がふさわしい。より尖鋭には「シノギ」という言葉もある。別役実が言うように、「商売を商売とする精神は、かなり得たいの知れないアナーキーなもの」であり、「当面それが、局部的な状況に対して局部的にしか対応することしか出来ないとしても、無視して済ますわけにはいかない」(別役実『当世・商売往来』あとがき)という切実さを持っている。獰猛な世界に対抗してギリギリに「シノいで」ゆくための方便として、それらの不思議な仕事はその獰猛さに最も直面せざるを得ない位置にいる者に開かれていた。かつて「仕事師」という言い方に込められていた微妙な綾は、世界の獰猛さに先端の部分で対峙していたことにまつわっている。
独立独歩のこれら「仕事師」たちの仕事の場は、基本的に「カタギ」の仕事とは異なった質を持っていた。だからこそ、それは「シロウト」から正しく差別され、そのことによって「クロウト」の世界であることが保証されていた。だが、彼らはその「自由」と呼べるかも知れない融通無碍と引き換えに、それに見合った不安と蔑視と葛藤とを同時に引き受けねばならなかったはずだ。けれども「ギョーカイ」は違う。どのように巧妙な搾取の網の目が張りめぐらされていようとも、そして、「会社」に象徴されてしまう「フツーの人々」からの複雑な視線を意識しようとも、絶対的な足をつける場所の違いに根ざした差異化、つまり言葉本来の「蔑視」を身体ごと受け止めるようにはなっていない。
彼ら「ギョーカイ」に住む者たちが、蔑視されることにことさら敏感でありたい、と努めているフシはある。例えば、秋元康は「ランチでも食べながら、コマーシャルの打ち合わせをしようということにな」り、「昼どきのオフィス街」で食事をすることになった時の経験を、このように語っている。
「あちこちのビルから一斉に、サラリーマンやOLたちが、目当てのランチをめざして突進して来る。僕たちのグループは、そんな流れの中で、すっかり浮いてしまった。“浮く”というよりは、“弾き飛ばされた”と言ったほうがいい。「あんたたちの来る所じゃないよ」と言われんばかりである。……(中略)……なにしろ、そのオフィス街の人の波は、グレーか紺のスーツで埋めつくされているのだ。ところが、僕たち自由業のグループは、イタリアのハデな色合いのセーターを着ている奴はいるわ、革のジャケットに革のパンツはいるわ、古着にバンダナ姿の奴もいる。ひと昔前の言い方をするなら、「ヒッピー」みたいなものだ。」(秋元康「自由業の人たち」)
そして彼らの一行は、忙しい昼時にもセットメニューを頼まず、それぞれバラバラのオーダーをしてウエイトレスに嫌な顔をされる。昼時のオフィス街のレストランにおけるセットメニューの合理性、という「会社」の側にいる「フツーの人々」の約束ごとを悪気なく無視した彼ら自身を、秋元は「それを無視して人の迷惑かえりみず、バラバラのセットメニューを頼んだ僕たちは、間違いなく“自由業の人たち”であった」と軽い卑下の気分と共に語り流す。
しかし、はっきり指摘しておかねばならない。ここで語られている「ギョーカイ」に身を置くことの自意識は、見る/見られる関係の中の、しかしその最も表層の部分でしか足をつけることをしていない。「「画一的な「フツーの人々」/いいかげんな「ギョーカイ」の人々」という対比は、「個性」が「自由」とのべたらに重なって語られる状況では、必ずその「いいかげんな「ギョーカイ人」」の方にポジティヴな意味を背負うことになる。そのことをあの秋元が計算できなかったわけはない。
身のあり方そのものにまつわる決定的な「違い」というのを双方で暗黙の裡に共有した上での卑下ではなく、程度の差はあっても「ギョーカイ」の雰囲気をまき散らす自分たちが、羨望の視線を結ぶ対象であることを彼らは自認している。いそがしげに決められたランチをとるサラリーマンやOLたちですらも、「ギョーカイ」の彼らは自分たちとは明確に異質な存在である、ということを誇りと共に語ることができなかったりする。そのことを彼らはあらかじめの優越感とともに当て込んでいる。そして、そんな「カタギ」たちが昼食をとっているその場で露骨に冷たい視線を浴びることもなく、そこから叩き出されることもないまま、薄い卑下の意識だけを漂わせて安心する「ギョーカイ」の人々もまた、やはりかつての「クロウト」のような当事者性ある誇りを喪失している。
誇りと倫理とは表裏一体だ。誇りを持って「ここにいる」と言えるためには、その「ここ」を支える鉄筋としての「倫理」が必要なはずだ。どんな仕事であれ、自分の仕事に足をつけた倫理とそこに根ざすはずの誇りとを誰もが持てなくなるほどに、妙な「平等」の神話がゆきわたった果てに、「ギョーカイ」神話は時代の意識にどんよりと重くたれこめている。
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八〇年代を通じ、このような「ギョーカイ」がとんでもなく大きなグレートマザーとして語られ、神話となっていったその背後には、それ以前、高度経済成長期を通じてふくれあがった「会社」という仕事の場が、この一〇年あまりの間に、ついにその最終段階にまで「見えないもの」になっていった過程を想定することができる。
商社でも銀行でも証券でもメーカーでも、少なくともいわゆるホワイトカラー労働に関する限り、その仕事の最も現場の部分のリアリティに依拠したことばは組織されてこなかった。それは会社に関わる者たちが自分たちの仕事を語ることばを持っていなかったということでもある。
「サラリーマンの悲哀」という言葉は定型として流通していても、それがどのような業種のどのような職種について述べられたものなのかまでは、まず誰も突き詰めようとはしない。「我々サラリーマンは」という言い方を口にすることはあっても、そこで設定されているのはせいぜいネクタイを締め、背広を着て、日々電車に揺られている大量の、しかし漠然とした後ろ姿だけだ。「サラリーマン」という漠然としたイメージだけがうすぼんやりとたなびいていて、具体的な自分の日々の生とそのイメージとの距離については誰もが積極的に埋めようとも問題にしようともしないですんでいたのだ。
「サラリーマン」が「党」になり得ない最大の原因は、おそらくここにある。「党」を形成するための具体的な利害や生活基盤について顧みようとすればするほど、あらかじめ共有された「サラリーマン」のイメージとはかけ離れたものになってゆく。だから、背広を着、ネクタイをしめ、通勤定期を持って会社に通う、という本当に表層の部分でしかそのイメージを共有するコードがないのだ。世論調査などで使いつくされてきた「中流」という言葉にしても、言葉本来の「中流=ミドゥルクラス 」ではなく、おそらくこのような漠然とした「サラリーマン」のイメージに対応するリアリティを別の言葉で言い表したもの、といった受け取りかたをされていたに過ぎない。かつて、花森安治が「どぶねずみ色」と評したこの国の「サラリーマン」たちは、その表層の姿に個々の具体的な仕事の場まで侵食されていったらしい。
そのような状況では、当の「サラリーマン」自身が家庭の中で仕事について語ることができないのも不思議ではない。子供たちはオヤジが「サラリーマン」であることは知っていても、具体的にどのような企業のどのようなセクションで、日々どのような手順を追って仕事をこなしているのかについて想像力を働かせることすらできない。銀行員であることと自動車メーカーに勤めているということとの間の違いはなんとなく認識できても、その違いが具体的にどのような仕事の違いに根ざしているのかについては理解できない。第一、オヤジ自身、自分の仕事が社会のどんな役に立っているのか、より素朴にどんなに面白いのか、について、誰も妻や子供たちに熱っぽく語ることができなかったのではないだろうか。
つきつめれば翻訳ものであり、その意味でこの国の「会社」の具体的状況とはまるで異なった背景において書かれたものにすぎないはずの『サラリーマンの息子に送る**の手紙』があれだけ爆発的に売れたことは、この国のホワイトカラーが自らの経験を家族に語りかける自前の言葉を組織してこなかったことを裏返しに証明している。
地元の政治家にとりいる手練手管、接待の気苦労とそれをくぐった果ての取り引きの快楽、新しい企画をめぐっての上司との打々発止……地上げに奔走した不動産屋ならば、猫の額のような土地にしがみつく黄色い歯をした貧乏人の横ッ面を札でひっぱたくのがどんなにゾクゾクすることなのか、でもよかった。田んぼを一枚なんぼで売っ払ってカネをつかんだ百姓が、その後どんなに狂乱し、変わってゆくのか、でもよかった。それを生きる場の「誇り」と「倫理」とともに語りえなかったこと、そのことの不幸を思うべきだ。
世間並みの水増しされた倫理ではない。むしろ、世間並みの水増しされた倫理だけをスローガンとして押しつけるのは余計にタチが悪い。仕事の現場の論理は、たとえそれが世間並みの水増しされた倫理として許し難いものであっても、それを正当化する個々の倫理と言説とを組織してゆく可能性を常に持っている。農薬をばらまいてうっかり座るとズボンの色が落ちるようなライを作るゴルフ場経営者にしても、抗生物質漬けで自分たちはとても口にできないようなハマチを育てる養殖業者にしても、あるいは、土地をころがして濡れ手で粟の儲けを画策する政治家にしても、そのような仕事であることについての語りは等しく持ち得る。問題は、日々の経験とそれを解き放つ言葉とがそれぞれの意志とは別のところであらかじめ深刻な肉離れを起こしてしまっていること、そして、ともすればきらびやかに語られる「高度情報化社会」とは実はその肉離れを滋養にして生きのびているらしいこと、まずはこの二点だ。
それは、大学受験に際してほとんどの受験生たちが大学の学部、とりわけ文科系の学部がどのようなことを勉強する場所かについての想像力を欠落させていることと、構造的によく似ている。
ごく普通の受験生にとって、経済学と法律学の違い、政治学と経営学の違いはまず理解できない。「〇〇学部」という看板は偏差値という序列の中のインデックスに過ぎないのであり、受験に限ればそれは引くべき宝クジの通し番号以上の奥行きを持つことはない。高校までの「学校」の過程に埋め込まれていた「英語」のアナロジーで理解できる「外国語学部」や、あるいは、週刊誌の占いや心理テストなどの連想からなんとなくなじみやすく興味の持てる「心理学科」といった選択に彼らの「人気」が集中しているのを見れば、そのことは理解できる。選択しようにも、そのための身の大きさの材料が手もとにないのだ。まして、そこから先に控えているはずの「就職」という過程は、彼らにとってはその「就職」ということの意味をも含んでほとんどが謎だ。
学生たちが会社勤めを「先が見えるからいやだ」と言っていたのは、本当に入社してから定年になるまでの数十年の間のさまざまな仕事の場の綾まで具体的に透視できてしまえたから、ではもちろんなかった。それは、そのような具体性と当事者性を欠け落としたままの「サラリーマン」のイメージに依拠した、先走りの語りに他ならなかった。
具体的な言葉として流通する「会社」についての語りは、ほとんどの場合、そのネガティヴで非人間的な側面を強調するような方向で流通していた。企業社会の「病理」について精緻に分析した書物はあっても、その企業社会の内実について具体的に語ってくれる書物はほとんどなかった。あるとしたら、書店のビジネス本のコーナーに山積みされているあまり「知的」とは思えない装丁の、けれどもかなり「わかりやすい」と思えてしまう言葉でつづられたハウツーものでしかなかった。家の中の、最も身近な「会社」経験者である父親にしても、うまくその経験を語ってくれる言葉を持っていなかったし、第一、「家庭」はそのような牧歌的な場が設定できるような状態にはもうなっていなかった。かくて、まだ何も始まってもいないうちにあらかじめ「先が見えた」ような気になれるほどに、「サラリーマン」のイメージはのっぺりと均質なものとしてしか認知されなくなり、それに従って「会社」もまた具体性のないただ漠然と「いつかそこに行くべき憂欝な場所」「逃れられないこわいもの」として意識されるようになっていた。
もちろん、そのような神話の仕掛けが、擬似的にせよ暴かれる機会がないわけではなかった。例えば、いくらか年の近い親戚の〇〇ちゃんとか、あるいはサークルの先輩の××さんなどから、確かに自分がくぐったものとしてナマな形で語られる「会社」経験は、そのようなあらかじめ流通している情報の偏りを修正する働きを持っていたかも知れない。しかし、それはほとんどの場合、「仕事」という生の連続的な過程を前提にしたものではなく、「就職」という刹那的なバクチについての成功/不成功譚だった。こうすれば内定がとれる、このような段階を踏めば印象が良い、といったレヴェルでの断片化した「教訓」しか引き出すことのできないように変形され、ひからびたマニュアルの語り。その限りでは、好むと好まざるとに関わらず、それは同じようにすでに高度にマニュアル化され、事実それまでの生の中で誰しもくぐってきたあの「受験」の経験と等価のものとしてしか語り示すことのできないものとなった。
そこからいくらか逃れたものがあったとしても、次には「やってもみないうちにわかったつもりになるな」といった企業の側で準備する悪質な分素朴な実感主義の言説を補強する方向でしか働かないものになっていった。例えば、内定から実際に仕事の場に直面するまでの間の広い意味での「研修」の過程で、どんな方法ででもいい、いきなり立ちはだかる身の大きさの人間関係の具体性に眼眩まされ、それまでの「常識」と化していた「会社」イメージをうまく転倒させられることにハマったならば、そのような「悲惨な会社人生」という言説のイデオロギー補強効果は抜群のものになる。当たり前のもののような顔をして流通してきた灰色の「会社」と、それらを全て否定してしまえるような壮大な未経験の領域としての「会社」とが、いずれどこにもない虚構として相互補完的にからみあう。その結果、それまでとりあえずは「こちら側」として漠然とした親近感と共に辞書登録されていた「学生」という言葉が、新たな意味を吸収してふくらみ始めた「社会」という言葉とネガティヴに対置されるよう、「新・社会人」たちそれぞれの辞書機能の変換が行なわれるのも、この過程においてだ。
そのどちらに傾いてゆくか、ということについて言えば、「学校」が社会にまんべんなくまき散らすそのイデオロギー、その抑圧に対してどのような角度で向かいあったか、ということがその方向性を決定する。ある程度「学校」の階段を自明のものとしてなじんだ者には「会社」が先送りの抑圧となって増幅されるし、逆に早くから「学校」からおりざるを得なかった者には「会社」が先に触れたような意味での素朴実感主義の温床となった。いずれにしても、冷静に足もとを見つめた上でのステップを踏めなくなっていた、という意味において大した違いはない。しかし、好むと好まざるとに関わらず「学校」からおりざるを得なかった者の方が、より具体的な仕事の場に接続してゆく回路が準備されていたこと、そして、そちらへと向かわせる倫理が、例えば「先輩・後輩」といった具体的な人間関係の場に乗って語られ、共有される可能性が相対的に高かったこと、などによって、うまく「社会」に「復員」してゆくことが可能だったかも知れない、ということは言っておいていい。かつて、まだ正しく街にたむろしていた頃の暴走族の間で、「二〇歳過ぎてまでバカやってられねェよ」という言い方が決まり文句のように語られていたことは、この意味で象徴的だ。
逆に、積極的にせよ消極的にせよ「学校」という仕掛けに自分をなじませてきた者にとって、そのような「復員」の過程はより屈折し、過酷なものにならざるを得なくなってゆく。現在、多くの大学生にとって、「就職」の過程は巧妙にある段階を踏んだものになっている。それは、半ば「ガン告知」による「死」の自覚に至る過程によく似ている。雰囲気に乗せられての「就職活動」の後に「内定」が決まってから、いざ実際に仕事に就くまでの半年余りの間に、深刻な「足をつける場所の危機」が襲う。その危機に対処するために、ただ「会社」とのつながりを継続的に確認させておくためさしたる意味もなく事前に課せさられる「課題」や「研修」から、「もう二度と長い休暇はとれないから」という脅迫に乗って借金と共に駆り立てられる「卒業旅行」――まるで「最後の晩餐」じゃねェか!――に至るまで、過渡期の不安定な意識を徐々に別のシフトに移行させるための仕掛けがきっちり「商品」として張りめぐらされている。実際、そこまでおかいこぐるみにしておかなければならないほどに、そして、そのようなおかいこぐるみであることを直視しないですむほどに、「会社」とはどこか「こわいもの」になっているのだ。