オグリキャップ、笠松へ

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 カリッと乾いた冬の空気、まぶしいような陽の光。左手、一コーナーのはるか向こう、装鞍所から馬場へと出てくる通路に、ぽつんと白い馬が現われる。くすんだ勝負服のノリヤクを背に、まるで散歩のような気軽さで、それはゆったりとこちらへ向かって歩いてくる。
 あぁ、出てきた出てきた、あそこ、ほら、オグリキャップだ、え、どれどれ、ほんとだ、オグリンだ、なんか小さいよね、でも、かわいいじゃない、へぇ、あんなんなのね……

 波のように小さな声が広がる。その水仕事に荒れぬ手ににぎりしめられ、あるいはダッフルコートの胸に抱きしめられた何千個のオグリたちは一様にちょっとくすぐったい。短い四肢をへたり込むような姿勢に伸ばし、白や青のメンコをつけた頭を斜め右にかしげた韓国製大量生産の彼らは、200mほど向こうの白い馬に見えない挨拶を送っている。

 タテ折りにした『競馬東海』を手に持った常連のひとりは、襟元に防寒ボアのついた作業服の胸に突っ込んだハイライトをまさぐりながら、「国会議員だってこんなに人は集まらんわ。えらいもんだわ」とかたわらの仲間にささやく。彼は、かつてここで走っていたオグリキャップを覚えていない。彼の記憶にあるのはゴールドレットであり、ブレーブボーイであり、フェートノーザンだ。あいつら、どいつもこいつもみんな戦車みたいに強かったな。砂を蹴散らしてグイグイ伸びてくるのを見るたびに、それいけ、それいけ、って腹の中でどなっていた。そうそう、もう十年も前になるかな、中央競馬の招待レース。笠松からも二頭出るというんで仕事休んで中京競馬場まで見に行ったさ。馬場にはカネ持ちの家みたいに芝生がビッシリ生えていて、売店に串カツもトンチャンもないのにがっかりしたけど、なんの、こっちの馬は強かったで。リキアイオーとかいう中央の馬とガリガリ逃げ合戦やって一歩もひかずに競りつぶしたのがダイタクチカラ。ゴールほんの手前で他の馬にさされたでアレーッて思ったけど、なんのことない、よく見りゃそっちも笠松の馬、リュウアラナスよ。あの時はうれしくて財布が空ンなるまで呑んで帰って、結局翌日も仕事休んだわね。

 ほんとうにオグリキャップの記憶はない。小学校の卒業アルバムの隅に写っているということでしか同級生だということを確かめられない、そんなヤツ。どんなに記憶を掘り起こしてみてもそこにいたということが自前で確認できない目立たぬ男が知らぬ間に偉くなってしまったのを見るように、それでも彼は「なんせ日本一じゃもんなぁ」とため息をつく。


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 岐阜県笠松競馬場。急行も停まる乗り換え駅、名鉄笠松駅をおりる。左手に口をあける地下道をくぐり、道をひとつわたり、土手の石段をゆっくりのぼれば眼の下に正門がある。馬場は右回りの一周1,100m。幅員20m。川砂を敷きつめたどこにでもある公営競馬の馬場だ。

 1月15日。成人の日。快晴。この日、オグリキャップの里帰り引退式に集まった人数、およそ40,000人(最終発表)。収容人員18,330人のこの競馬場にはもちろん手に余る数だ。

 「もうスタンドは入れんようになっとるってよ」


 「こりゃ、名鉄儲かってしょうないわなぁ」

 正午少し前、木曽川に向かう土手の上を走る名鉄本線の下、三コーナーから四コーナーへと向かうあたりに設けられた駐車場で、斜めにスタンドを望む外ラチに寄りかかりながら、「岐阜県」の腕章を巻いたジャンパー姿の男たちが口々に言い合う。その顔は、時ならぬお祭り騒ぎの予感にかるく輝いている。口ぶりからは競馬組合の職員ではないらしい。警備のために動員をかけられた一般職の県職員だろうか。
 兆候は現われていた。前日の夜、八時半に知多の大学生ふたりが一番乗り。夜中、午前三時にはすでに正門前に三十八名が集まっていた。愛知から二十三人。東京から七人。大阪、三重から各三人。そして地元岐南町から二人。主催者はストーブ二台、それにカップラーメンと湯を差し入れたという。

「びっくりしましたよ。こんなこと、笠松じゃなかったことですから」

 そして、明けて当日の朝、開門時から続々と集まる客、また客。取材陣も異例の数だった。新聞、雑誌の記者やカメラマンはもちろん、テレビカメラを抱えたクルーたちが何人も事務所へと向かう渡り廊下にひしめく。耳の遠い警備員のオジさんはそのたびにしゃっちょこばって大声を出す。スタンドのいちばん端にある記者控室は見るからにギョーカイ顔した下ぶくれの若い衆で埋まる。黒と銀とのいかめしさがまるで銃器のようなカメラの器材。誇らしげに貼られた社名入りステッカー。広報課で準備したプレスシートが無造作に机に投げ出される。フィルムの空ケースが灰皿にたちまち山となる。部屋の中、一番目立つところに中央競馬会のモスグリーンの腕章をした男たちがいる。馬券を買っているのだろう、あごをしゃくり、眼の下を通り過ぎるレースの出目を大声で叫んでいる。

 人と人との間をすり抜けて外に出る。鉄階段をおりる。一コーナーの脇、スタンドから金網一枚へだてられた所にあるちょっとした広さに、場内清掃のオバちゃんたちが何人かひなたぼっこをしている。そばに立っていると声をかけられる。

 「ニィさんどこの人ね。東京から? まぁ、大変やねぇ。なに、このオグリなんとかの取材かね」

 グレーとピンクのしゃれた作業服。胸には「サツマヤ」の縫い取り。そこにいる警備員のオジさんと一緒になって、少しの間、僕はむだ話に息をつく。

 「わたしら競馬のことはよくわからんけど、この競馬場にこんなに人の入ったことはないよ。暮れの競馬なんかでもこんなことはないからね。うん、オグリってのはどんな馬か知らんけど偉いもんだねぇ」

 見ると、ひとりのオバちゃんの手には小さなカメラがある。

 「いや、知り合いになんか知らんけど、撮ってきてくれ、って言われてね、そんで持ってきとるんよ」


 「わたしらこんな特等席で見られるからね、客席のお客さんたちは、ほれ、身動きでけんでしょうが」

 小さな身体のオバちゃんたちはキャッキャッとはしゃぐ。金網越しに見るスタンドはもうぎっしり詰まっている。おそらく、馬券はもちろん、トイレに行くこともできないに違いない。と、一般レースの馬たちが、返し馬で眼の前を通り過ぎてゆく。

 「ところで兄さん、ね、どれなんよ、そのオグリなんとかってお馬さんは」。

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 オグリキャップは英雄だったろうか。この身が世界に向かってふくらんでゆくようなかけがえのない瞬間を、同時代に生きる者の胸の乾板に本当に、くっきりとしたコントラストで焼きつけてくれた英雄だっただろうか。

 昨年暮れの有馬記念に失望したという声は、翌日からもうそこここであがっていた。同じ日の同距離900万条件のレースよりもゆるんだラップ、遅い時計。逃げるべき馬が逃げず、オサイチジョージステイヤーズステークス並みのスローペース。道中、行きたがる馬をむりやりおさえ、直線また狭いところに突っ込んで脚を余したホワイトストーンのちぐはぐな乗り方。もうあとがないはずのメジロアルダン渡辺徹も真っ青の太め残り。年明けて、このレースで「好走した」と言われた連中が軒並みくすぶっているのも、それが「オグリ神話」の終幕にふさわしい水準のレースではなかったことを示してはいなかったか。

 「ホクトヘリオスを出さんかい、ホクトヘリオスを」。

 僕はいきまいていた。絶好調時のホクトヘリオスでなくてもいい。イナリワンスーパークリークがたとえ八分の仕上がりででも出ていれば、攻め馬並みの三角ひとまくりでゴールに飛び込んでいたはずだ――競馬好きの仲間の前では、そう言ってはばからなかった。オグリ神話? 冗談じゃない。そりゃあ確かに競馬のことだ、何がおこるかわからない。日々馬をこすってるわけでも、背中にまたがって勝負に行くわけでもないこちとら馬券ファンは、こういうこともあるんだな、としか言えやしないさ。でもな、それが気持ちのいいレースかどうか、味のある競馬かどうかってのは、たとえテレビの枠の中でしか見えないことであってもきちんと判断する、それがどこまでいっても第三者でしかないファンの仁義ってもんじゃないかい。直線、オグリが先頭に立った時、白状するけど、やっぱ眼の前が曇ったさ。首を伸ばしてゴールへ飛び込んだ時には背筋がザワッとしたさ。でもな、いつからこんな損なファンになっちまったのかは知らないけど、言うぜ、そりゃウソなんだ。ウソの競馬に感情だけが先にドーピング食らって昂ぶってる。カマされてんだよ。そんな自分のお人好しにはさすがに愛想がつきたよ。

 僕は何度も問いかける。何年か先、昼下がりの競馬場にすわり、オグリキャップの強かった日のことを自分の子供に、孫に、語って聞かせることができるだろうか。その筋肉の躍動のさまを、その強かった日のことを、夢見るように語りつぐことが本当にできるだろうか。

 僕自身のことを言えば、全く自信はない。僕が子供に熱を込めて語ることのできるのは、町工場の腕利き職人のようだったテツノカチドキであり、無口な相撲取りのようだったスズユウであり、元気いっぱいのやんちゃ坊主のまま姿を消したクリノロイヤルであり、どこか薄倖な野球少年の面影があったサンオーイなのだ。いや、公営の馬だけではない。最後の最後まで元気印、油でも塗ったようなビカビカの毛艶だったアラナスゼットも、誇り高きサムライのようにいつも首を高くあげてあたりを睥睨していたテイオージャも、長っ手綱で「世界」を向こうに回したカツラギエースだっている。だが、そこにオグリキャップはいない。

 身をくぐらせた視線の定まらぬ先にどんな英雄もいない。この眼で確かめた、と間違いなく胸張れる経験。うるさくあおり立てる雑誌の見出しも、アナウンサーの絶叫も、塑像のように切り取られた艶やかなグラビアも、何もなくてもいい、ただひとりじっと熱くなるような瞬間を馬と自分との間に見出だし、そしてそれをある広がりの中で共有できたと思えるならば、そこに語るに足る英雄は像を結ぶ。たとえそれが、見る見るうちに延べ広げられてゆく大きなことばの舞台にとってはほとんど意味のない、どうかすればあの「人それぞれ」という反吐つくような卑しい定番でかたづけられてしまう程度のとるに足らない重さの想いであったにしても、だ。


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 「笠松競馬場は、僕を有頂天にした。僕は、ほとんど狂喜したのである。何がそんなにうれしいのか、うまく言えないが、一口で言うならば、そこに昔の浅草があったということになろうか。……(中略)……笠松は浅草であり、いや、もっと場末の祭りの情景に似ていた。」

 その駆け足でめぐってゆくどこかめまぐるしい速度にも関わらず、やはり名著だと信じる『草競馬流浪記』(新潮社)の冒頭、山口瞳はこうつづっている。

 「オデン屋、ヤキトリ、ソース焼きソバ、まむし(鰻)などの屋台店がびっしりと立ちならび、物の臭いがたちこめている。屋台店と書いたが、のぞきこむとテーブル、椅子の土間があり、その奥に小座敷があり、瀬戸物の火鉢が置いてあったりする。その脇で、うらぶれたような中年男が赤ん坊の襁褓を取りかえている。……(中略)……わが笠松は、狭いところへ諸設備がひしめきあっていて、細い通路、細い階段の上り下り、大人でもたちまち迷い児になる。階段の脇の通路と思われたのが喫茶店であったり、人が立ってうどんを食べているので、うどん屋かと思ったら、そこが単複の売場であったりする。」

 笠松競馬場の屋台店は、たとえば競輪場のそれに近い。メニューも雰囲気も、だ。公営競馬場の売店ハンバーガーとフランクフルトがデカいツラし始めたらその競馬場はヤバい、というのが僕の経験則だ。間違いなく客層が変わり、それにまた過剰反応した主催者がどこか勘違いな「サービス」にドタマをカチ割られ始めている可能性が強い。大井の串に刺した大判焼き(サツマ揚げ)、川崎の醤油ラーメン、浦和の天プラつき握りメシ、水沢の死ぬほどうまい米の焼きおにぎり、宇都宮の惣菜つき丼メシ、笠松のキャベツ取り放題の串カツ、荒尾の名前はわからないけど貝の煮込みのようなもの……安くてうまくて腹がふくれて、百円玉数個でこと足りる。これはもうリッチで豪華でデラックスな娯楽の場における食いものの王道である。どだい、赤飯と大福とみたらし団子が堂々と胸張って真ん前に出ている店など、公営競馬場か競輪場にでも行かなければ、今どきちょっとお目にかかれないはずだ。

 「僕は如何わしいという感じが好きだ。それから、何事によらず一所懸命というのが好きだ。むろん祭が好きだ。笠松競馬場は、この如何わしいのと一所懸命と祭とが渾然一体となっている。そいつが充満している。そうして、それだけでなく、そこで大好きな競馬が行なわれていて、金の匂いがぷんぷんしている。」

 ベタほめである。オマージュである。公営競馬に対するこれほどまでに直裁で短絡的で気恥ずかしいまでにまっすぐなことばと、それに見合うような思いの傾き。しかし、僕もまたそれをどこかに抱え込んでいる。この本一冊をカバンに詰めて、とりあえずのカネと暇さえ作れればポイと公営競馬を見に行っていた日々がある。楽しかった。中でも、笠松についてのこの部分はいたく気に入った個所だった。

 よし、笠松の、公営競馬の素敵なところを、僕も少し話そう。

 ケイシージョーンズという馬がいる。アングロアラブである。父はサラのペール。泣く子も黙るパーソロンの弟で、公営競馬では割とよく見かける血統だ。母の父はフロルア。入厩した時から500キロもあるデカい身体をもてあましていた。

 弟もいた。中央競馬へ買われた。夏の中京でデヴュー。他の馬たちを持ったまんまちぎって捨てた。そして、あきれるほどの強さの数戦のあと故障発生、馬場に散った。ベンセルシーダーといった。

 当の兄貴ケイシージョーンズは、大井にいた。モリモリ食って、グーグー寝ていた。三歳の秋遅くに使い出した。最初はモタついていたが、明けて四歳春には調子を上げて、二連勝で敢えてぶつけたアラブダービーでも三着に食い込んだ。勝ったのは当時南関東のアラブ四歳では無敵だったオオヒエイ。そこからいくらもないところにいきなり突っ込んできたのだから、厩舎も馬主も喜んだ。

 馬主は名古屋の人だった。馬名も考える暇もないほど忙しい人だった。能力試験を受けられるほどに仕上がったきた頃のこと、馬名登録の締め切りの朝、いきなり僕は調教師から「おい、時間がないんだ。あと一時間でなんかいい名前考えてくれよ」と言われた。眠い眼をこすりこすり、それでも頭の中をひっくり返して三つばかり紙に書いた。書類にして出したらそのまま通った。だから、このケイシージョーンズの名づけ親は僕ということになる。ジョンヘンリーと同じ、アメリカの蒸気機関車機関士の英雄譚の主人公。アメリカ人なら誰でも知っている筋肉モリモリ、「キンタマ」のヒーローだ。

 アラブダービーのあと、調子を崩した。担当していた厩務員はまだ若かった。期待馬を持たされて一生懸命だったけれども、なかなか思うような成績が上げられない。伸び悩んだ。人気を裏切るたびに新聞の印もみるみる減っていった。馬主さんは自分の手もとに戻してみようと決心した。夏のある日、ケイシーは大井を去った。

 これが笠松で立ち直った。「最初は夏負けがひどくてね」という状態だったが、秋になるとがぜん調子を戻し、明け六歳の今年2月現在、当地での戦績は11戦して4-4-2-1。あっという間にA2級まで駆け昇った。「奥手だったんかも知れんよ」と言うが、もちろんそこまで立て直すだけの環境と技術とが笠松の厩舎にあったことは無視できない。俗に言う「水が合った」というのは、実はこういうこと全てを含めてのことなのだ。

 「今年はオープン張るで、見とってよ」。

 笠松で彼を管理する吉田秋好調教師は、ニッコリ笑って胸を張った。

 馬をなおす、という技術がある。なおす、という言い方があまりに一面的ならば、もたす、という言い方を並べてみてもいい。いずれどこかに故障を抱え、腫らした脚もと、出の悪い肩、少し強いところをいけば(強めの調教をすれば)とたんにおさえる(かばう)弱さを見せる流れ流れの競走馬を手もとに置き、癒し、少しでも能力を発揮させてやるように全力を尽くす、そんな技術とそれを支える経験の蓄積とを、時に公営競馬の厩舎は持っていたりする。僕が厩舎という場から離れられないのも、そういう不思議の背後にあるさまざまな事実、さまざまな知識のありかたをもっと身にしみて知ってみたいからだ。

 競走馬は消耗品である。馬を「使い切る」という言い方がある。馬にはそれぞれある限られたキャパシティがあり、そのキャパシティいっぱい使ってしまえば、あとはその馬はどのように頑張ってもかつてのように能力を発揮することはない。一律に年齢や、あるいは血統などで判断するのでなく、その生きた馬のキャパシティを計り、そこからどれくらいの余力がまだ残っているのか、それをこそ判断する。同じ九歳馬であっても、休み休み使ってきた馬と、使い詰め、引き付け目当てで押せ押せで使ってきた馬とでもその老い方は違ってくる。そんな馬の個別具体的な違いをきちんと引き受け、それぞれに最も合った手当をしてゆく――ここ笠松の吉田厩舎は、間違いなくそんな「いい仕事をする」厩舎のひとつだ。笠松のリーディングトレーナーを何回もとり、どんなに調子の悪い時でもランク上位に必ず顔を出す。ここ数年でもフェートノーザンやイーグルジャム、アエロプラーヌといった実力全国区のオープン馬を手がけ、安藤光彰、安藤勝巳という笠松を代表し全国でも指折りの腕きき騎手を擁する名門厩舎だ。

 笠松競馬場のまわりには、そこここに外厩がある。朝、調教時などは馬場への往復に田んぼの脇を歩き、道路を横切る馬たちののんびりした姿が見られる。この風景がいい。木曽川のほとり、なんとなくまだ田んぼの広がる中に、ちょっと気をつけて見れば柵に囲われた空き地めいたところどころに馬が放されているのが見えるし、家々の中には明らかに厩舎施設とわかる横長の建物を敷地の中に持っているものもある。千葉の奥や茨城あたりでも見られるこれらの風景。だが、ここ笠松では馬房を持っているのは牧場でも何でもなく、多くは調教師たちだという。調教師が自分の家の庭先に馬房を持ち、休養馬などはそこにつなぐ。もちろん、競馬場の中に主催者の管理する厩舎施設があり、厩舎の管理する競走馬はそこにつながれるのがスジなわけだが、そこはそれ、郷に入れば郷に従え、それなりに事情もあるわけで、たとえば主催者に正面から問い合わせてもこのような外厩は一切ないことになっている。

 吉田さんも自宅にそんな厩舎施設を持っている。招き入れられた応接間の壁一面には口取り写真がいくつも飾られている。ひとつひとつ眺めながら、話は流れる。

 「アエロプラーヌね。これも追い切りかけるとすゥぐ足もとくるんだ。だもんで、それまで四号鉄はかしとったんを五号鉄はかしたんだ。すぐ肩くるんだ、左肩へ。そいでね、ハリしながら二連勝したんだわ。ワシは若いもんとつきっきりでやったんだ。気ィつこうたで。ただ、芝は下手だな、あの馬。だいぶん前に中央持って行ったけど、まだ温泉おるらしいで」

 セントクレスピンの肌のマルゼンスキー産駒。その名の通り「飛行機」のような走りを見せていた南関東のA級馬だった彼も、ここ笠松の吉田厩舎を経由して、今は中央競馬に籍がある。弟のカイウンテンシは同じ中央で、こちらはまだ900万条件あたりを走っているはずだが、この兄の方は馬の温泉で休養中。大井にいた頃もデリケートで有名な馬だったから、中央デヴューまではまだ時間がかかるかも知れない。

 「中央の一勝でね、それも未勝利をやっと抜けた馬をさ、馬主が、テキなんとかならんかい、言うてこないだ持ってきたがね。賞金が三〇万ほど足らんで、そいで金沢積んでやったわね。金沢で二着とって六〇万稼いで賞金足りたわね。厩舎は走ると思うて置いといてくれ言うからしばらく置いといたら、そのうち1,500m(一分)四〇秒近くかかるようになって走らんようになった。それがウチ来たら四連勝したわね。オープンでも足りるような時計で勝ったわね。その厩舎のやりようによって馬ってのは変わるもんだわね。そういう勉強をこれからのノリヤクはせなならんと思うわけだわね」

 どんな馬もきちんと能力だけのことは走るようにしてやらねばならない――その仕事への想いは「職人」ということばに結実する。

 「わしらは職人としてやっとんだわ。職人であって経営者であってセールスマンであって、けど、わしとこから持ってった馬をどこ(の厩舎)もひとつもよう仕上げんよ。五〇万の馬でも五千万の馬でも、馬主さんはその人の力に見合った身ゼニ切って買っとるんだわ。こっちは五〇万の馬主さんのことも考えて勉強してかなしょうないからね。ノリヤクから調教師になる時、ワシ考えたんだ。何が大事か。馬育てるのも大事だけど、馬主育てるのが大事なんだと。それの個性を生かせて悪いとこなおして完調に少しでも近ずくようにするのが大事なんだと。そういう風にもってかないかんな、という信念でやってきたね」

 小柄だが頑丈そうな身体。ノリヤクあがりの人特有のしまった皮膚に力が入る。。

 「……馬主の馬じゃないんだ、と。吉田厩舎に入った以上は我々の馬なんだ、と、みんなオレの馬や、と。若い衆が三頭やったら三頭おまえの馬なんだ、と。馬主の馬だと思うなバカヤロ、って言うんだ。おまえたち馬主が三〇万のカネ預かってくれって預けてくれるか、って言うんだ。これ馬だから百万でも五千万でも預けてくれる、おまえみたいなもんでも。その預けてくれた品物でカネ儲けするんだからこんなええ商売ないぞ、と言って聞かせてんだ。ところが、今は社会党共産党が仕事したらいかんっちゅう時代だし、ワシもそれにさかろうてはやってけん時代だから、まぁ、若い衆おだてたりすかしたりしてやってるんだけどね……」

 吉田さんはソファに横になりながらゆっくりと話す。体調が良くないのだ。フェートノーザンの故障の一件で「わきゃア女の子やマスコミやテレビ局から電話ジャンジャンかかりよるわね、なんとかタネ馬にして欲しい、殺さんといてくれーっちゅうね。ワシと若い衆一ヵ月寝れんかったわね。そしたら若い衆肝臓ポーンとやられちゃってよ、ワシは胃やられたんだ」と言う。そのせいで今も寝たり起きたり。「昔はもっと怒っとったんよ」というカミナリぶりももう影をひそめたと苦笑いする。その生い立ちからノリヤク時代の話、そして押しも押されもしない名門厩舎になってゆくまでの物語はそのまま笠松競馬の栄光であり、それ自体ひとつの厩舎裏版公営競馬史だ。だが、残念ながら今はそれをゆっくりつむいでゆく余裕もスペースもない。ただ、オグリキャップ笠松草競馬笠松と一律に語りこめられるその背後には、確かにこのような「いい仕事をする」人々とその仕事の場があること、僕はそれを忘れたくはない。



 ブラスバンドの演奏する頼りなげな「ロッキーのテーマ」。待ちかねた観客が例によっての「オグリコール」を絶叫する。スタンド前にシートが広げられ、式台が設けられる。すでに人気者になった池江厩務員が引いたオグリは、そこから少し離れた場所で、安藤勝巳騎手を背にスタンドの前、ゆっくりと輪を描いて回る。背広着た人たちの挨拶。人垣を作る報道陣。カメラのシャッターとモータードライヴの音。びっしりと埋まったスタンド。ヘリが舞う。歓声にキャーッというどこかうわずった女の子の声が混じる。「ジョッキー、手を上げてよ」。カメラマンの注文に安藤勝巳騎手は無造作に右手をあげる。オグリは馬銜をしゃぶりながら気持ち良さそうに歩く。

 ラスト・ラン。オグリキャップは馬場をゆっくりと二周した。笠松競馬場としては異例の大観衆を前にキャンターで駆けるオグリ。内馬場にどでかい送電鉄塔がそびえ立ち、畑やら傾いた作業小屋やらが、向こう正面を行く彼をときおり隠してゆく。背景の木曽川の堤にも観客が鈴なりになっている。

 「日本一じゃもん、日本一」

 スタンドの空回りするような吹け上がり具合に比べていかにもあっけなく馬場を去るオグリキャップを見送って、誰かがそうつぶやく。三々五々、観客はそこから動き始める。次のレースに出走する馬たちが、スタンド正面、馬場の内側に設けられたパドックに姿を現わす。だが、競馬に向かう視線はまばらで、馬たちも何か場違いな感じだ。

 「なんね、みんな見物ばっかで、誰も馬券買うとりゃせんがね」

 外れ馬券を掃除する道具を持ったまま、「サツマヤ」のオバちゃんたちが笑う。この日、ふだんなら観客一人平均50,000円は買っているという笠松競馬場の売り上げが、平均10,000円にまで下がったという。だが、馬券とは裏腹に、ぬいぐるみからパンツに至るまでありとあらゆるキャラクター商品に化けたオグリは、この日、場内に臨時に設けられた売店で圧倒的な売れ方を示していた。積み上げられた段ボールの空箱はそれを証明していた。

 狭い正門から笠松駅までびっしりひしめきなかなか流れない人波を、スタンド裏の階段に腰をおろしてぼんやり眺めながら、僕はまだしつこく自問していた。それでも、やっぱりオグリキャップはこの時代の英雄だったのだろうか。長く胸にとどめ、語りつぐに足るまぶしい存在だったのだろうか。

*1:引退して種牡馬になって北海道へ帰る前、笠松に立ち寄った時の取材記事。例によって『別冊宝島』だが、まだ中央競馬地方競馬の間に、厳然とした「壁」があった頃のこと。この14年後、オグリは再び、この笠松に戻ってくることになるのだが、それはまた別の話。 king-biscuit.hatenablog.com