「大学」という場所のいまどき (往復書簡)④

拝復

 同じ駄菓子屋の店先での経験、興味深く読みました。

 一次的に立ち上がる欲望としての「欲しい」よりも先に、自分がどんな品物を選択するのか、そしてその選択した自分がどのように見られるのか、といったところに焦点が合ってしまう自意識のありようを自覚した瞬間を貴兄が逃れがたい原体験として記憶していることは、なるほど最近の貴兄の仕事にも関わってくる部分だなぁ、と改めて思います。

 とは言え、このような種類の自意識過剰は、おおむね子供の時期に誰しも持っているものでしょう。言われて思い返してみたのですが、小生とて、お話しした駄菓子屋の店先で貴兄の言うような自意識過剰から全く自由だったということではないはずです。ただ、それでも小生の記憶の底を探る限り、何を選択するか、というその選択をその場にディスプレイすることによって何らかの自分を誇示しようとするような、言わば「場」に臨んでの余裕というか、あるいは「場」のありようから身を一歩退けておくための薄皮というか、そういう仕掛けを自分の内側に作るだけの知恵は当時、まだなかったようです。カネを使う、その使うことによって見知らぬ人間と関係を結んでゆく、それを平然ととりおこなうことのできる同い年が眼の前にいる、しかも彼らは学校で同じクラスである……このような事実に対する驚きというか茫然自失というか、何にせよそのような衝撃の方がまず先で、さてひとつこういう趣味のいいものを選んでやろう、こういうものを選ぶ自分を顕わにしてやろう、なんてところまではとてもとても。その意味で、同じ駄菓子屋の店先でのことと言え、貴兄の原体験は小生のそれと似ているようで、ある部分でかなりかけ離れた内実を伴ったものと言えるのかも知れません。


 一昨年からとりかかっていて、最後の一〇〇枚あまりが未だに仕上げられず版元から叱られ続けている、「無法松の一生」についての小生の仕事のことは、すでにお聞き及びでしょう。あの「無法松の一生」――最初の小説の原題は「富島松五郎伝」というのですが、あの中に出てくる無法松にかわいがられる少年敏雄もまた、過剰な自意識を小さい頃から抱え込んでしまったような子供でした。

 「いったい敏雄はおとなしすぎた子どもで、すべてが引っ込み思案で、何事も控えめにする気の弱い子どもだった。」

 こういうシーンがあります。敏雄を連れて運動会見物に行った無法松が、棒倒しに熱狂して大声でヤジッたり声援を送ったりするのを前にして、敏雄は恥ずかしくていたたまれなくなります。

 「……敏雄はたまらなくなって、松五郎のももをつねった。松五郎は、はっとして敏雄の方を振り向いた。敏雄は着物のすそをかんで、恨めしそうに松五郎をにらんで、かぶりを振った。その顔は、もうすでに泣きださんばかりの表情だった。(…)棒倒しが済んだ時、敏雄は「小父さん帰ろう」と松五郎に帰宅を促した。松五郎は、今の声援が、きっと敏雄の気にさわったに違いないと思った。子どものくせに、周囲の人々の心の動きに細かい気を配る敏雄のおどおどした態度が情けなくもあり、腹だたしかった。」

 筆者岩下俊作の視点は明快だと思いませんか。この「子どものくせに、周囲の人々の心の動きに細かい気を配る」ような子供であることが、敏雄と周囲の「普通の子供たち」との間に溝を作っています。しかも、別の個所では明らかに敏雄は「普通の子供たち」と顔つきや身ぶりまで違っていることを、これまた冷徹に描いています。

 「坊ん坊んといわれた子どもは、まゆの濃い口元の小さな、そしてひとみの大きい奇麗な子どもだった。そして、これらの子どもたちと全然環境を異にした良家の少年らしく、身なりもきちんとしていたし、おとなの使う荒いことばをののしるようにいうわんぱく連の中にあるのでひとしおかれんさを増した。」

 舞台の設定は明治三十年代の北九州・小倉です。しかし、ここで描かれたような過剰な自意識を早くから抱え込んでしまったような種類の子供というのは、半世紀あまりの後、高度経済成長期にそれまでになかったような力でもってこの国のマジョリティにされていっただろう、他でもない我々の姿のように思えます。


 先日、いわゆる団塊の世代に属するルポライターの人と話している時に、「あんたらの世代はほんとに人のアラとか見つけるのがうまくて、かわいげがないんだよなぁ」と言われました。この「かわいげのなさ」は、おそらく我々の世代的属性だろうとは思います。思いますが、ただそれを、早い時期に過剰な自意識を抱え込まざるを得なかったような生活環境に全て還元してしまうようなことは、ギリギリまで小生はしたくありません。そのような生活環境に、さらに言い換えればそのような「時代」に、我々が規定されていることは間違いない。けれども、そのような周囲の中でなお、どうしてそのような自分になっていたのかということについては、やはり貴兄なら貴兄、小生なら小生固有の事情や問題というのがあったはずだと思うからです。

 というわけで、貴兄にお尋ねしたいのは、駄菓子屋の店先でどのような選択をしてやろうかと目論見ながら立ち尽くすその心性というのは、“もの”が立ち並び、眼の前を埋め尽くしているような状況でしか立ち上がらなかったのでしょうか。たとえば、これは唐突かも知れませんが、街なかを歩くのにどのような服を着てやろうとか、どのように目立ってやろうと思う心性と、それはどのように違い、またどのように通底しているのでしょうか。