「地球環境」という偽善

 数年前、京都で国際捕鯨委員会が開かれた時、鯨捕りの本場、和歌山県太地の漁協の人たちが大挙してデモにおしかけたことがある。

 もともとそのようにタバになって何かを主張する、てなことを潔しとしない根っからの漁師さんたちのこと、揃いの鉢巻にプラカード、そして街頭署名と、ひとまずそのような「運動」のお約束を型通りなぞってはみたもののどこか居心地悪そうだったりしたのだが、そんな中、ひとつ面目躍如だったのが、あれは横幕だったかプラカードだったか、とにかく墨の色も鮮かな野太い字で大書して曰く――

ムチャ言うな、白人!」

 感動した。ただし、居並ぶ報道方面のカメラは、この圧倒的に感動的な文句をきれいにはずして「絵」にしていたことは言うまでもない。

 タヒチでのフランスの核実験反対運動についての報道映像を見ていて思い出したのは、実にあの文句だった。まごうかたなく「白人」の官憲が、どう見ても白くはないおそらくは現地の反対運動の側を力づくで鎮圧してゆく。ああ、なんてわかりやすい植民地主義だ、と思っていたら、なんと、わがニッポンの報道の文法は「地球環境」をタテにした論調ほぼ一点張り。それって、違うんじゃないか。

 昨今もてはやされる「自然」とか「環境」とかのもの言いにいやな臭いがまつわるのは、それを言うそれぞれの具体的で等身大の「立場」まで見失った大文字の「正義」に吹け上がりがちだからだ。同じ海でも「自然」や「環境」として語られる前に、そこに生きる人たちにとってはメシのタネである魚をとる海である。と同時に、都会に住む人間にとっては休日に楽しみに行く海でもある。場合によっては先進国(都会)相手の観光資源として、あるいは今どきなら「環境」問題をタテにとって政治化するための貴重なタマとして存在するってこともあるだろう。面倒な利害や思惑がからむのは当然だし、口はばったいが、その面倒臭さがわれわれの生きる現実ってもんだろう。それらも含めた世間の脈絡で考えようとするのが本当の環境問題だと思うのだが、声高に「環境」を叫ぶ人たちに限ってそんなおのれの立場をなかったことにしてたりする。まして、国会議員までそのノリだったりすると、こりゃ眼も当てられない。 

 あの現地での反対運動が、タヒチや南太平洋諸国の独立運動とどう連動しているのかいないのか。またそれが、同じご近所でもオーストラリアやニュージーランドなど「白人」主体の国の「立場」とどう違うのか違わないのか。そのあたりのことが一番知りたかったのだが、報道現場が失語症なら仕方ない。ここはひとつ、あっぱれ「現地」に飛び出し大見得を切った武村サンにでも教えてもらいますか。