昨今、宮本常一とその仕事を語ることが、すでに耐用年数を過ぎて自浄作用も見込めなくなった民俗学の、何か免罪符になっているようなところがある。いずれ狭い学問の世間でのことだが、それでも、宮本常一という名前は、この国のあちこちに埋もれた小さな暮らしについての資料を豊富に発掘した人間として、歴史学や社会学といった民俗学よりはまだ折り目正しいはずの学問の方からも、何やら注目されているらしいのだ。
まぁね、民俗学なんてそれをやってる民俗学者も含めてもとからそういう扱いを受けるもんらしくてさ。何だかわからないけどまっとうな学問の脈絡じゃ引き上げてこれないような珍奇な見聞をたっぷりとその身にまつわらせているらしい、てな当て込みで、こわいもの見たさでおずおず近寄ってくるのが定法。それでも、あ、こりゃ料理の仕方さえ間違えなけりゃ結構おいしく食えるものらしい、ということが理解されるようになっていったのは概ね戦後のこと、それもはっきり高度経済成長期のことだ。
そのような、結構おいしいデータベースとしての民俗学(者)という理解がどのように世間に流布していったのか、という問いを立ててみた時、この宮本常一の占める位置はかなり大きなものになる。
明治四〇年、瀬戸内海に浮かぶ山口県は周防大島、今の大島郡白木村の生まれ。十七歳の時に大阪へ出て、小学校の訓導などをやっていたが、渋沢敬三、沢田四郎作、柳田国男といった、拡大期の民俗学を支えた親分衆に出会ったことから民俗学を志し、渋沢敬三の屋敷内に住んで、それこそ行商人の身体でこの国を隅々まで歩いた。その膨大な知見は『宮本常一著作集』(未来社)本編五十冊に別集が三冊に、ひとまずまとめられている。
彼の方法は、徹底的な「あるく・みる・きく」だ。それによって集積される「事実」のはらむ文字に対する批判力に賭けるという、柳田国男が構想した「旅」という方法の可能性を、最も素朴に受け継いごうとした人かも知れない。だが、と同時に「現場」が無条件に尊いもの、素晴らしいものだという神話化の過程もそれに連れて立ち上がってゆき、彼とその仕事を必要以上に持ち上げるようにもなっていった。
必要以上に、と言った。そう、たとえば『宮本常一著作集』は厖大なものだが、しかし正直言って手応えに欠ける。もちろん個々に素晴らしいものはあるが、全体として見渡した場合、何か水増しされたような薄味な印象なのだ。
宮本常一の最も良質な仕事は主に戦前のもの、百歩譲ったとしてもせいぜい昭和二十年代までのものに限られるんじゃないか、という意見が民俗学まわりの若い世代を中心に出始めている。基本的に同感だ。とりわけ晩年、最も悪い意味での日本文化論的な大文字のもの言いにからめとられるようになってからの言葉の上滑り具合というのは、ちょっと辛い。逆に、本当に「あるく・みる・きく」を身についた速度でやっていた早い時期のものは、どれも一定の凄味がある。渋沢敬三のアチック・ミューゼアムで出していた報告書の類は言わずもがな、昭和十八年に書かれた『家郷の訓』などは、今でも宮本常一の仕事で読むべきものは、と人から尋ねられた時に迷わずあげる一冊だ。
後に、戦後復興期から高度経済成長期にかけて、彼は民俗学的知見をより広い文脈に解き放つ啓蒙家として世に出て行くことになる。『日本残酷物語』などの出版企画を支え、講演に奔走し、自らもいくつも本を出した。また、離島振興法が制定される時には大きな力となったこともよく知られている。その功罪はともかく、みるみる変貌をとげてゆくこの国の戦後の「現在」に、何らかの意志をもって関わろうとしていったことは間違いない。 たとえば、近畿日本ツーリストの援助によって日本観光文化研究所を設立したことなどは、そのような世俗的な事業としての才能を持ち合わせない人間が多くなった柳田以降の民俗学者の中では出色のものではあった。あったが、しかしそれが一体どんな経緯で作られたのかを考えると、そうほめてばかりもいられない 。
「これからは労働時間よりも自由時間の方が多くなる。今までは自分の仕事にぶちこむことで自己の成長完成があったが、これからは自由時間の利用による人格形成の方が大きくなるのではないか、それにはその対策が考えられなければならぬ。そのひとつは人びとを太陽の照る下にできるだけ出てもらって、いろいろ考えたり、行動したり、その中で人間として成長していくようにすることも大切な条件のひとつになるのではないか、というような話になり、これまでの日本人がそういう機会をどれほど持っていたか、これからどうなっていくか、また観光資源とは何かというようなことを体系だてて研究していくことも必要ではないか、「ひとつそういうことをやってみませんか」――「やりましょう」ということになって日本観光文化研究所が発足したのである。」(『旅と観光』あとがき)
ここには、眼の前の等身大の現実を語る小さな言葉に素朴に驚き、書きとめようとしていった昭和十年代の彼の知的抑制は薄くなっている。言いたかないが、言葉の空虚さにおいてバブル期のリゾート屋あたりと選ぶところはない。晩年の彼の重要なモティーフになった「観光」についてのもの言いというのは、基本的にこのような水準を出ていない。それまでの言わば農業改良家的な誠実さが、そのまま「地域」の利益になる事業としての「観光」の方へと横滑りしてゆく。そのありさまは、昨今の「地域」起こしの指導者たちによく見られる意識の退廃の原形にも見える。このような横滑りがどうしてここまで抵抗なくなされていったのか、それを検証するのは今後の宮本研究の大きな課題だが、今この場でひとつ言えることは、理念なき実践至上主義の悲劇ということだろう。厖大な事実を抱えながら、それを意味あるものにしてゆく枠組みの脆弱は、“変わってゆくこと”への盲従や批判力の欠如を生む。それは、よりよい変革を志すために正しく歴史を知る必要がある、という柳田国男が説いた民俗学の本願からは遠いものだ。渋沢や柳田といった、「組織」の効果をその政治的能力と共に熟知した官僚的資質の親分の下で手足となって働くデータマンの有能は、しかし大所高所から絵図を引く才能とはまた別のものだ。
ひとまずの結論。「よく歩いた人」といったもの言いで宮本の営みを無条件に称揚し、神話の増幅に加担することはこれから先、この国の学問にとってプラスにならない。目算なき実践、いや、もう少し詳しく言えば、目算を実践の方から先に規定するようにのみなった、そんな種類の実践は、実践なき空論よりもなおひどい退廃を現わすこともある。宮本常一から今、前向きに学ぶべき教訓には、案外こういうところもある。