【翻訳】D.A.メッサーシュミット「手もと足もと」での人類学について――文化人類学における「自文化研究」の今日的意義

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Donald A. Messerschmidt

On anthropology“at home”

In Anthropologist at Home in North America : Methods and Issues in the Study of One's Own Society.

Edited by Donald A. Messerschmidt

Cambridge University Press, 1981*2

 これまで、通過儀礼を正しく理解することは、われわれがその中で社会的にしつけられてきた居心地の良いねぐらを敢えて後にし、異なる土地における、あるいは少なくともわれわれ自身とは異なる人々の間での調査研究の試練と苦難に立ち向かうために、駆け出しの人類学者――マーガレット・ミードがかつて見下すように言及してみせたような「赤ん坊の人類学者」――にとって不可欠なものだと考えられてきた。現地調査というのは、概ね海外で行うのが望ましいとされてきたわけだが、たとえどこで行われるものであれ、それは人類学という専門職にとっては守るべき規範であり、習慣的なものであり、公認され称揚された伝統であり続けている。カッセル(Cassell)が記したように、これは「人類学的理想」であった。加えて、それはわれわれの専門性を他の領域と厳然と分け、専門性に至る壁を構築するものであり、またそれによって、研究するものとされるものとの間に「永遠の深淵、社会的な亀裂であるような」「古典的な関係」を準備するものでもある。

 今日、われわれの仲間の間でも、現地調査という作業の実用性について疑う者はまずいないものの、しかし、そのような古典的で異国的で異文化的経験を要求する人類学にそのまま熟練できるようになると信じるものも、また少数派である。たとえば、ウォルコット(Wolcott)が言うように、通文化的調査の経験は未だにひとりの個人としての人類学者に対して要求されている。しかしその一方では、「むしろ研究者自身の属する社会に対するエスノグラフィックな調査が、人類学自身にとって必須条件(sine qua non)なのかも知れない」(大意)のだ。

 だが、一部のものたちはまた、もしもわれわれがわれわれ自身の社会を研究することで果たして伝統的な意味での人類学者になり得るかどうか、疑問を抱いている。われわれは何にしろ、これまでの標準的な人類学の定義を大きくゆがめるようなことをしていないだろうか。またあるものは、われわれ自身が普段そこになじみ暮らしているような近代的な環境において、果たしてどのように充分に人類学を実践することができるかについて悩んでいる。彼らは問う。果たしてわれわれはまともな研究対象を獲得できるのだろうか。そして何よりも重要なのは、本質的に近代以前の人々に対する調査研究から得られてきたこれまでの方法や理論によって、今を生きるわれわれは不自由にさせられていないのだろうか、ということだ。もしもわれわれの基本的な関心がアルカイックでプリミティヴな社会にあるのなら、ダイアモンド(Diamond)や レヴィ=ストロース(Levi=Strauss)などが言うように、北米において自文化研究としての人類学を試みるようなことはそれらの基本的な関心とは真逆の方向になる。けれども、もしも人類学が、アルカイックな社会と同様近代的な社会においても広汎に維持されている人間と社会環境についての研究であるのならば、われわれにも〈いま・ここ〉で果たすべき役割が何かあるはずだ。

 われわれの研究対象は常に、さまざまな場所、時代、環境、そして現われ方における人々であり、文化であり、社会構造であり、コミュニティであった。われわれの方法論は、現在的な要求に応じて、過去からもそして関連する自然科学、人文科学からも借用してくる、その意味では常に革新的で折衷的なものである。われわれの最終目標はいつも人間の置かれている環境についての理解を広げてゆくことだった。そうして、なるほど確かにわれわれ北米の工業社会は、これまで世界中のどこであれ存在してきたいわゆる未開社会におけるのと同様に、人間の本質を露わにするという意味において、そして現在を生きるという課題において、重要な存在である。

 われわれが提示するような現代社会に対する人類学的調査研究の計り知れない可能性と重要性をよりよく理解するためには、そしてこの多様性に富んだ人類学的実践の枠組みを明確にするためには、北米における自文化研究、「手もと足もと」の人類学についていくつかの問いが議論されねばならない。そもそもその課題とは何か? その方法論とは? われわれがすることは何か?そしてなぜそれをするのか?それは役に立つことなのか?それはどのように呼ばれるべきなのか?何よりもそれは何故記述されるのか?これらの問いは、本書の以下の部分で検証されるはずである。


●● 今日的論点の人類学 (anthropology of issues) とその課題

 近年いくつかの局面において、年配の人類学者たちから人類学のいわゆる黄金時代について語られるのを聞かされる。それは研究者が研究対象やテーマ、そして雇用される仕事について広汎な選択肢があった時代のことだ。そして今日、そのような黄金時代は過ぎ去った、と広く信じられている。とりわけ、われわれが異なる外国の社会から自らを閉ざすようになり、新たに輝かしい博士号を獲得した多くの若い世代が、彼らがめざして精進してきたアカデミックな世間において満足に職を得られない状況が明らかになるにつれ、そのような考え方は一般的になってきた。しかしその一方で、多くの人類学者たち――アカデミックか否かを問わず――は、アカデミックな世界の研究計画と評価という制限の概ね外側の、行政組織や産業社会といった世界において、あるいはまたここ10年ほど前にはわれわれの多くが夢にも考えなかったような種類の学校組織やコミューンなどの世界においても、それぞれ充分な人類学的実践の場を見いだし始めている。人類学者たちはいまや、これまでになかった非伝統的な研究や仕事の機会にあわせて、これまで以上に自らを再調整し始めているし、われわれのより革新的で急進的な一部の仲間と学生たちは、人類学の専門性についての新たな重要な方向づけについて自ら省みることを始めている。これらはまさに、われわれの従来の伝統的な方法論や研究視角を金科玉条ディシプリンとしてわれわれをそこに依存させるものでなく、エキサイティングで新しい、これまでと異なる種類の論争や課題にわれわれを勇躍、赴かせるような変化なのだ。

 このように、人類学者が自分たちそれぞれの属する「手もと足もと」の文脈に戻ることがもっと大きな流れになったなら、次にはその社会での社会問題と共に自身の文化を把握しようとする、われわれが現在注目しているようなエキサイティングな変化の本質も姿を現すようになってくる。われわれの仲間の多くは、論点の矛先をわれわれ自身の属する社会・文化の人々に直接向けるように転換しつつある。都市的環境で生まれた人類学者たちは今日、ビジネス社会や産業社会における居住、教育、行政など都市的環境での社会的関心を持つようになりつつある。インド系アメリカ人の人類学者たちは、都市部のインド人のコミュニティで彼らの抱えている問題を調査している。メキシコ系アメリカ人(チカノ)の人類学者たちは、多くのスペイン系住民の社会的経済的な苦境を軽減するよう動き始めている。フェミニストの人類学者たちは、女性の政治的活動や性差別とその反対運動についてコミットするようになっている。いずれにせよこのように、われわれ人類学者はこれまでよりもずっと、これら手もと足もとの生活や近隣関係、互いに手をつなぐこと、健康や福祉、心のケア、高齢者とその孤立化の問題、官僚主義と政治的過程のこと、経済と社会的関係、社会的環境とエコロジー連邦政府と地域の関連性、学校教育と経済的背景の問題、などなどについて関心を持ち、それらを研究する足場であるような、われわれが日々生きる手もと足もとの「地元」に身をとどめ置くようになってきている。そのようなわれわれは短期間の契約で仕事をし、あるいは長期間の複数の研究に縛られることになる。われわれにはアセスメント=査定・評価が切実に必要である。われわれは計画し、設計し、実行し、評価し、報告し、そして助言する。われわれの作業は、親族関係やコミュニティや相互扶助や経済、交換、政治的過程と社会経済的変化、などについての伝統的な人類学者の研究と基本的によく似たものである。その意味では、伝統的な人類学者たちが今日の高度に発達した産業社会の官僚主義機構に発見するだろうものと、われわれの見ているものは基本的に変わらない。

 われわれは新たな種類の人類学――今日的論点の人類学(anthropology of issues)の開花を自ら証明し、そしてそこに参与する。この人類学は単なる応用人類学(たいていの場合、事態に介入し調停し変化を制御するためずさんに不正確に定義される)以上に実践的であり、と同時に、より理論(純粋、かつ抽象的)人類学でもある。むしろ、それら双方にまたがる独自で不可視の関連性を示唆するものでもあるだろう。さらにより最近の傾向としては、人類学者は純粋で理論的なアプローチと応用的なアプローチを、その専門的な調査の営みにおいて統合しつつある。われわれは、われわれの専門分野を長い間分断していたあの通俗的な理論と実践の二分法をはるかに越えた地点に到達しつつあるように見える。思えばわれわれはどれだけ長い間、あの年老いた古臭い、総論概論的な人類学と、個々の五体的な社会行動についての調査と実践の人類学とで侃々諤々争ってきたのだろう。今日起こっているように思えることは、バスティード(Bastide)の言う「実践についての理論的科学としての応用人類学」なのである。彼はそれを「人類学の一分野」として定義したが、それは単に文化変容の制御と統制に関する、あるいは改革や革命的営み(マルクス主義者の言うような意味での「実践=プラクシス」)に関する比較的通りいっぺんの総論的アプローチに向かうだけでなく、実践的な活動と計画立案の間の協業を示唆し提案する人類学として定義した。あのブリニスロウ・マリノフスキーが書き記した、実践的人類学(practical anthropology)についての半世紀以上も前のよく知られた1929年の論文を思い返そう。伝統的な人類学がどの入門的な教科書にも書かれていたような主要なトピック――権力と政治、宗教と世界観などを分析していたのと全く同じように、今日の眼前の実際的な活動と計画立案を分析するのもまた、まさしく人類学に他ならないのだ。(バスティード(Bastide)、アングロシーノ(Angrosino)、チャンバース(Chambers)を参照のこと)

 このような形の人類学についての楽天的見方と挑戦は、われわれ自身の属する社会の実際的論点についてのわれわれの視野やスキルを適用するために、われわれを身の回りの日常である「手もと足もと」へと誘う。われわれを取り巻くさまざまな問題を強調し、その性格やそれらを取り扱う実際の作業と同じように、われわれの専門性についての方法や理論についても改めて焦点を合わせることを意識させる。そのようにして獲得される人類のありように対する新たな識見は、人類の種としての改善と生存について今日的論点の人類学から学ぶべきものになる。このような新たな傾向は、単にアメリカだけのものでないことは強調されるべきだろう。これは、われわれの同時代の目安となる標識的な論点をとらえるようになることによって、われわれの専門性が時代に必要とされる時期に至っていることについての、世界規模での宣言であり暗示なのだ。

 本書の寄稿者の全てが、ひとつのあるいはそれ以上のやり方によって、この今日的論点の人類学にかかわっている。それはわれわれの専門性の主要な力に急速に成長しつつある。単に人類学的な知識やスキルを応用すること、単にあるひとつの世代的な社会理論である以上に、それは完全な専門的な場所を占めるものになっている。そして、それは理論と実践を「一方で(われわれが)総合的総論的な人類学への基本的貢献をすることを妨げず、かつ同時にもう一方で(われわれが)社会的実践に関わることも妨げない」(バスティード)ような方法で統合することに他ならない。

 研究のための論点の射程と、われわれの現代社会においてわれわれの仕事が求められる機会は共に非常に広い。そしてわれわれはその表面をわずかにひっかき始めたに過ぎない。われわれ自身の手もと足もとに眼を向け焦点を合わせることで、われわれは方法論的な遺産や全体的総合的な視野を捨て去ることはない。むしろ、われわれはそれらの基盤の上に充分な変革を構築しつつある。このような意味で、われわれは専門性の再活性化の動きを証明しつつあるし、人類学の新たな「黄金時代」を現出しつつあるのだ。


●●●「手もと足もと」での人類学、その方法

 ロジャー・バスティードは、新しい人類学が古い従来のそれと「全く同じ技術とアプローチ」を使うことを宣言している。とは言え、誰もがこのことに同意するわけではない。

 本書に寄稿した筆者たちに共通する問いは、果たしてどのような方法論、戦略、スタイル、そして技術が、現代社会を研究する人類学の応用に際して採用され得るのか、ということだ。それぞれの筆者は、たとえば、それほど複雑とは言えない部族社会、ないしは農民社会での調査研究によって育まれてきたわれわれの専門性の多くの伝統的枠組みが、今日の複雑かつ高度に産業化された社会の調査研究についても有効性と妥当性を持っているか否かを問われ、そしてそのことを自らそれぞれ考察している。このような問いは、人類学者たちが伝統的でエキゾティックで「原始的な」あるいは「異なる」どこかの土地の文化の研究から戻ってきたり、ないしは逃げ帰ってきたりして、われわれがわれわれの仲間の間に入り交じって調査を行う限りにおいて、常に議論の的になるものである。

 その一方で、社会科学者の一部は、人類学が複雑な現代社会の研究という作業について十分耐える理論や方法論を使えるかどうか懐疑的である。たとえば、ギリン(Gillin)は20年以上も前に、人類学者として「われわれは、社会学的な視点から識別される現代の国家制度についての、文化的視点からの十分な理論的分析を欠いている」と表明している。このようなギリンの関心に対して、イェフディ・コーエン(Yehudi Cohen)は、「部族的、農民的集団についての研究から生成された概念やパラダイムや方法論は、誤解でなければ、産業社会についての研究には不十分である」と呼応している。(クシュナー(Kushner)、スパイサー(Spicer)も参照のこと)

 「人類学におけるアルカイズムの概念について」という論文で、レヴィ=ストロースはわれわれのこのような試みについてはっきりと批判している。

「「未開」という人類学にとっての特殊な対象についての自覚を失ってゆくにつれ、アメリカの人類学が、かつてその創始者たちによって開かれ、しばしば単純化されて理解され、あいまいで信頼性の低い調査研究の技術として使われもしてきた彼らの、その正確で誠実ではあるものの極めて偏狭な経験主義に依拠してきた方法論の統合、改善を禁じていることは、正しく指摘しておくべきことだろう」(レヴィ==ストロース 1963年 p.102)

 だが、その一方で、一部の人類学者たちは、多くの方法的理論的伝統は現代的で複雑な調査研究環境に対して直接応用できるものであると主張し続けてきている。(デスプレ (Despres))この視点の支持者たちは、「人類学は、複雑社会を研究するために罰されるべきでもないし、わざわざ一から新たなものにされるべきでもない」(ウィーバー&ホワイト(Weaver&White))と言っている。

 本書の筆者たちの複数が、われわれの専門性の理論的ルーツと方法論的伝統の完全な破壊を擁護していることは、重要である。また、彼らのうちの何人かは、われわれの持っている道具は全く新たな研究対象や環境へ応用され、新たな論点への挑戦を試みるために変貌できるし、それだけの豊かさを備えていると主張している。彼らは、われわれの標準的な調査研究へのアプローチは、今日的な社会問題や論点、これまでにない研究環境に対して有効であるとしている。たとえば、本書の中で、アーモット(Aamodt)とモルガード(Molgaard)とバイアリー(Byerly)は、彼らの地域医療とケアの実践についての研究でエスノサイエンスの方法論を使っている。グラハム(Graham)は、ふたつの炭鉱町の間の社会的相互作用の研究においてネットワーク分析の継続的有効性を強調している。ベネット(Bennett)とコール(Kohl)は、彼らの研究を進めるに際して文化生態学の理論に依拠していた。そして、全ての筆者が、いささか小説的な手法ではあるものの、ズィマー(Zimmer)が都市の食糧生産の研究に際して採用した参与と助言の複合のような、参与観察法の伝統を維持することの重要性を強調している。

 また、何人かは、古い方法や新しい異なる方法論とうまく手を結べることを、同じく説得力あるやり方で主張し、一部は他の社会科学の領域から直接新たな方法論を借りてきてもいる。一例を挙げれば、ベネットとコールは彼らのカナダの地方における長期の調査で、「異なる多様な現場から多様で分析的理論的ツール、農業、経済、資源管理と維持、気候風土学、人口統計学、地域社会学、農耕学、水資源……」(本書第七章)を採用し、適合させた。

 さらに何人かは、調査のスタイルや役割、その場所と時間、そして自分の属する社会と文化において行う調査研究の可能性とその反応に関わる論点を前面に押し出している。グァルトニー(Gwaltney)は彼の都市部のゲットーでの、そこに棲む者たちの間にだけ通用する知覚と感受性を計測する調査における、黒人の協力者たちとのつきあい方やラポールについて描写している。またウォルコット(Wolcott)は、「ここ」(自分の属する社会と文化)と「あそこ」(海外)の調査研究を対比して、より弾力的に調査テーマを選択することや、自文化において身近な環境においていつどのような時に調査するのが適切なのかについて考察した。1977年に行われた複雑な郊外地域での教育システムについての彼の研究は、現代的な調査課題に関して伝統的な方法論(観察とインタヴュー)や仮説(残り半分の構造について)をどのように適応させてゆくかについての卓越した事例になっている。サーバー(Serber)とフェルドマン(Feldman)、そして私は、われわれ調査者と研究対象であり、かつ共に仕事をする関係にある官僚との間に権力の格差が存在するような状況で感じられるだろう深刻な束縛や不自由について強調している。シーバー(Sieber)は、三つの異なる都市部の学校における初期のラポール構築とデータ収集のためのさまざまな戦略をわれわれに示してくれた。

 チームによる調査と学際的、ないしは複数の領域にわたるアプローチが、現代的な調査環境における調査の複雑さに由来する問題のいくつかを解決するために使われているのは、驚くには当らない。そのような複雑さと現代社会に対する調査の問題を整理するための協業の戦略の必要は、ずいぶん前から認識されてきていた。(たとえば、ギリン,レヴィ=ストロース,サージャマキ(Sirjamaki)を参照のこと) 本書では、問題とその解決はチームによる作業とそれぞれ領域の異なる視角によることが、ベネットとコール、ボハナン、ライト(Light)とクレイバー(Kleiber)、モルガートとバイアリー、そして間接的にヘニー(Hennigh)、ホートン(Houghton)、フェルドマン(Feldman)、そして私による政府組織に対する調査(ビールス(Beals),ベルシャウ(Belshaw)も参照のこと)において例示されている。これらの議論からもれ落ちたものの全ては、人類学と社会学の関係についての徹底的な議論だった。しかし、それらもともと相近しいはずの領域同士の「手もと足もと」の自文化・自社会の環境におけるディシプリンがいかに異なっているかについてのある種ぎすぎすした課題にオープンに向かい合うため共に作業を行おうとするには、われわれは未だあまりに忙しかったというのがその理由と言える。

 おおざっぱに要約するならば、本書の筆者たちは、「手もと足もと」の自文化・自社会に対する調査研究を、彼ら自身の人となりや専門的な経験に根ざしたその豊かで洞察深い事例を介して議論していると言える。彼らは、今日的な論点に関わる人類学を構築してゆこうとする際の新しい概念やパラダイム、方法論と同じように、われわれの古いそれらが未だ有効であることを示している。おそらく、「手もと足もと」の人類学の方法論を構築してゆく時に最も重要な側面は、バーネットが四半世紀も前に解釈してみせた、ある意味高度に発見的なものである。

 今日的な要求という新たな刺激に直面した時、われわれは経験と過去からのある程度の知識を持ち込み、そして新しいものにした。その革新は「いかなる思考や行動、ないしはものごとであっても、それらは存在する形態とは質的に異なるものであるがゆえに新しい」と定義された。(バーネット1953年 p7) それはわれわれの専門性に強靱さと独自性を与える革新だった。革新とはパラダイムシフトをもたらしてゆく積み石である。それによって科学者たちは彼らの科学の上に現われる新たな要求に創造的に応えてゆくのだし、またそれによって科学の快活さ、敏捷性や適切さが維持されるのだ。(クーン(Kuhn))


●●●● 新たな「現地人=当事者」の人類学

 自分の属する文化や社会についての「手もと足もと」の人類学を追究してゆくことで、本書の筆者たちやその他多くの者たち(文献目録を参照)は、研究テーマの選択についてかなり敏感で想像力豊かであることも明らかにしてきた。これら自文化研究の人類学の多くはわれわれ自身についての研究――親族や近隣、そして社会的で専門的な人間関係などについて関心を持たせてくれるようになった。自文化研究に携わる人類学者は、調査地で「現地の住民になりきる」という考え方に忠誠を誓うべきか否か、逡巡する必要がなくなった。なぜなら、われわれはすでに研究対象の人々の中のひとりだからだ。フライリッヒ(Freilich)の定義によれば、「現地人」(natives)とは、われわれの「もの言い、服装、食事や睡眠の習慣、互いのやりとり、社会関係、個人の認知の仕方、など……コミュニティを形成する習慣のほとんど」だという(1970年 p.2)。だが、もはやわれわれはそのような「現地人」になりきることに血道をあげるべきではない。われわれの多くにとって、研究対象であるコミュニティや集団は親しいものであり、全く自明のものであり、そのような意味でわれわれ自身がすでに「現地人」だからだ。(とは言え、モルガードとバイアリーが本書の11章でこの仮説に疑義をさしはさんでいることには留意されたい) われわれが研究する人々の多くは、それぞれのエスニックグループやサブカルチュアグループの人々、われわれと同じ社会階層、歴史、伝統に属する人々、われわれ自身の母語や肌の色や性別に属する人々であり、われわれが日々慣れ親しみ、いがみあう組織的で官僚的な権力の中心にいる人々なども含めて同様に、われわれにとって最も身近にで認識できる人々でもあるのだ。

 本書において、調査者であり同時に調査対象でもあるという立場の間で相対的に「内部の当事者にされてしまうこと」と「アイデンティティ」の距離の広大さは、仮想的な統一感から周縁的な親しさへと向かう連続体として最もよく想定される。寄稿者の4人は、そのように研究対象に密接に近づいている。グウァルトニーは彼自身がそうである都市の黒人たちに、アーモッドは彼女のウィスコンシンの親戚たちであるノルウェーアメリカ人たちに、ライトとクレイバーはカナダ人フェミニストたちの福祉団体に、それぞれ密着した。

 一方、この連続体のもうひとつの局面として、多くの場合社会的背景やマジョリティ/マイノリティというアイデンティティにおいて調査対象と相対的に地続きであり、しかしながら調査対象と親密に同化してしまうには専門的、哲学的、あるいは明らかな階層の違いゆえ自らの立場を漂白してしまえない調査者たち、という様相も呈する。モルガードとバイアリーは、自らと明らかに異なるカウンターカルチュアのコミューンに対する調査を記述し、ふたつの州の社会保障委員会の官僚的環境について調査したサーバーも、同様の課題について強調している。

 この連続体の両端の間のどこかに、執筆者の多くは自らの落としどころを発見している。ヘニーは、彼のオレゴンの僻地のコミュニティのキーインフォーマントとして自らを位置づけた。グラハムは、鉱山会社で働く者の配偶者として人類学者として、アリゾナの鉱山城下町を調査した。ボハナンとその共同研究者たちは、サンディエゴの高齢者たちを調査するに際して都市に居住するアメリカ人として接した。私自身のワイオミングの実験的学校での調査経験でも、親戚の心持ちと仲間である立場としてのアイデンティティを記述している。シーバーは都市の高級住宅街に住む「勝ち組」であり、彼の調査した都市部の三つの進学校の「勝ち組」仲間である。ズィマーは、彼がコンサルタントとして仕事をしていたサンフランシスコの食糧協同組合を記述、分析した。

 その他の寄稿者たちも、さまざまな調査対象や研究に応じてそれぞれ自らをアイデンティファイしている。だが、彼らの仕事は彼ら自身の個人的社会的アイデンティティからは、なにほどか離れたところに合焦している。フェルドマンはアラスカでの契約調査の問題を論じている。ヒューストンはネバダ州の僻地において連邦組織の末端の一員とどのように意思疎通するか、批判的な論点を提示している。ウォルコットは、本国を遠く離れたアフリカやアジアにおける場合と、自身の「日常」である合衆国における場合との、調査研究の管理指導の個人的やり方を比較してみている。アグィラー(Aguilar)は、これは本書での重要な問題提起だと思うが、内部に入り込んだ当事者的調査研究の事前/事後を考察している。

 とは言え、われわれがこのようなさまざまな自文化研究、「日常」を含んだ調査の試みにおいて、どれくらい本当の当事者になれるのかは非常に疑問である。アグィラーが言うように、専門家としての人類学者の社会的アイデンティティは、それ自身階層的な区分であり、われわれの調査対象と全面的に同化することを不可能にしている(とは言え、ベイリーは、同僚の研究者を調査研究する研究者として、これらの課題さえ達成した)

 社会科学者が典型的な自文化の、自らの属する社会の「日常」を調査研究するという事態は、果たしてそれをどれくらい当事者の感覚としてなせるものであり、あるいはどれくらいよそものの部外者としてなせるものなのだろうか。自分の属する社会の調査を強制されることは、自分自身のものでないよその社会に属する、偏見も含めた外部の人間によってなされた通常の経験ともかなり異なるものになるかも知れない。われわれはしばしばもっともらしく、見知らぬ部族社会、農民社会にまぎれこんだ人類学者という立場において、よそものとして認識され、地元の慣習のコードに対するあらゆる種類の不適切で鈍感な誤読や誤解を言い訳することができてきた。だが、これと同じような言い訳が自分の属する社会、「手もと足もと」の自文化研究を手がける人類学者に許されるだろうか。私にはそうは思えない。

 セイルス(Sayles)が指摘している。「人格的な違いや真逆の文化的価値は「開かれる」ことを要求するものだが、それは異文化においてよりも自らの属する文化において達成する方がしばしばより困難である。」おそらく、ある文化の内側に当事者としてあることに最も近い合理的なアプローチは――それが権力の文化であれ、抑圧者の文化であれ、われわれ自身の、あるいは他の誰かの文化であれ、ズィマー、グウァルトニー、ライトとクレイバー、ベネットやコールが彼らの仕事で示したように、その文化に属する地元、当事者のインフォーマントに彼ら自身の言葉でできる限り自ら語らせてやることだろう。


●●●●● その理論的な根拠

 近年の評者たちは、自文化における人類学的作業の最近の盛り上がりには、複雑にからみあった要因があるという立場に同意し始めている。この問いに対してアグィラーとハヤノ(Hayano)の論文から要約した五つの理由が想起される。これらのうち四つ――資金、排除、競争、そして個別化専門化は、最近のアカデミックな雇用への関心を反映している。残りのひとつ、実用性は長期的に見てより重要である。

 資金は、全ての科学的研究に携わる者にとって深刻な問題になっている。自文化および自分の属する社会に対する研究と、見知らぬ海外での研究への資金は、共に近年、劇的に縮小している。全ての費用が高騰し予算の優先度が変わってきたのにまさに比例して、社会科学も含めた科学的研究の費用は、政府および財政当局によって致命的に見直され劇的に削減されてきた。それに伴い、研究者の雇用の可能性も危惧されてきている。

 排除は、われわれが直面する二番目の問題である。かつての植民地で新たに独立を獲得した国のいくつかは、素朴にわれわれ人類学者を歓迎しないし、動きのとれぬよう厳しく追い詰めるか、さもなければなるべく遠ざけておくような排他的政策を打ち出してきている。ハヤノが言うように、もはやわれわれにはわれわれ自身を助けてくれる植民地的権威の保護はない。さらに、われわれ人類学者を締め出すことはしないと決めた新たな国民国家の多くにしても、彼らにとってとても貢献的で好ましく興味が持てるものか、さもなければ以下に記すように彼ら自身の手による仕事であるようなもの以外、さほど関心の持てないわれわれの調査研究を制限し、その内容を問うようになってきている。(ナッシュ(Nash)とウィントロブ(Wintrob)も参照のこと)

 自文化研究の最前線における競争が、三番目の問題である。北米の人類学は今日、よく教育訓練されたマイノリティと、海外で生まれた社会科学の専門家たちの流入を身をもって経験している。彼らは、かつては白人で、かつ男性の欧米人類学者たちが支配的に独占していた研究領域で仕事をするようになってきている。そのような独占状況は急速に姿を消しつつあり、風通しの良い健康な競争の精神が感じられるようになっている。女性、エスニック、非欧米人たちが専門領域にたくさん流入するようになってきた。アグィラーが指摘するように、北米のカレッジや大学でエスニックスタディの問題が勃興するようになったことは、エスニック出身の人類学者たちに彼ら自身の文化や社会を研究する気運を大きく後押しした。多くの人類学者たちは今日、彼ら自身を研究することに高い優先性を認めている。(ロサルド(Rosaldo)&ランフェア(Lamphere)、ファフィム(Fahim)、ハヤノ他)たとえば、グウァルトニーは黒人の人類学者として彼が感じたことを直裁にこう表明している。「現地人による人類学の最新の最低基準について議論すること」は、「理論形成において伝統的に無視されてきた視点」を編入してゆくことを助ける、と。その他の論者も伝統的な人類学の偏りを指摘し、彼らが「新しいアプローチ」と呼ぶ、他者の排除のためにいくつかの人々のタイプを研究する代わりに、「人間そのもの(humankind)を研究するための人類学の再編成」(ロイター(Reiter)1975年p.6、強調部分は原文通り)を求めている。

 人類学的探求における個別化専門化が、四つ目の関心である。そのような分野における専門化とは、都市研究、医療人類学、高齢化、教育、女性およびエスニック研究、法と社会的影響の評価と分析、などが想定されるだろう。また、これら下位領域を専攻する学生たちはそれぞれの手もと足もとにより近しい課題の調査研究を模索し始めるだろう。こうした流れの結果、「多くの大学院生たちは、少なくとも博士論文を書く以前のフィールドワークのいくつかを彼ら自身の社会的文化的背景において行うようになる」(ハヤノ1979 年p.99)し、彼らの多くはそこにとどまり彼ら自身のキャリアを形成してゆくようになるだろう。伝統的な海外調査によって専門家としての長いキャリア形成を始めた者たちの中からでさえも、それら手もと足もとの環境、自ら属する社会や文化における今日的論点を相手どった人類学へと転身する者が出てくるはずだ。

 本書においても、寄稿者の一部は調査研究の射程を狭めてきているし、その他もひとつかふたつの特別な興味や方法論をまとめることをし始めている。介護の人類学的研究に携わるアーモッドは、彼女自身が親族のひとりでもある近隣関係に関心を集中していたし、ボハナンは都市の加齢と高齢化について記述している。ライトとクライバーは女性研究と都市人類学、そして医療サービスの研究を統合しようとした。グラハムはコミュニティ研究にネットワークメソドロジーを導入している。

 これらの関心のそれぞれは、彼らの雇用に対して効果的だった。(もしくは一部の者たちが経験したような生き残ることについても) 北米における社会文化的状況は過去20年で劇的に変わりつつあり、この変化はわれわれ人類学という領域の自己イメージも根本的に変えつつある。危機に支配された1960年代から70年代にかけての社会的経済的関心――人種差別、戦争、貧困、エネルギー問題、環境問題、失踪者の増大、そして世界的規模に拡大した反米感情――は、アメリカの新しい社会政策と価値志向の反映であり、われわれ自身が何者であるのか、そしてどこから来てどこへ向かうのかについての明快な定義と説明の要求に根ざしたものだった。これらの変化は全て、一般的なアカデミシャンの社会的役割を、とりわけ社会科学者のそれを根本的に変えていった。

 ゴールドシュミット(Goldschmidt)は、そのような人類学における変化を「職の危機」と呼び、アメリカ社会の変化を「文化の危機」の反映としたが、それらは共に「価値の危機」の反映でもある。(レヴィ=ストロースも参照のこと) 以下のような表現は、より実践的な人類学が求められている例である。「文化の危機であるがゆえに、人類学的経験がとりわけ必要とされるのである」とゴールドシュミットは結論づけている。(1977 年p.300) 社会と政府、そして人類学者には全て責任がある。応用人類学の方へ、そしてわれわれ自身の社会的経済的な病いと課題のいくつかを解決する手助けへ赴く新たな機会が今や開かれた。その機会は地域的なものであるが、しかしわれわれの伝統的な古い道具を積極的に、かつ注意深く再生することを要求し、いくつかの場合においてわれわれの理論的アプローチに大きな再検討の必要を示唆するものでもある。

 人類学に関する職の有無への関心は広まった。学会の専門委員たちは、この問題について継続的に議論し、慨嘆している。最近の「人類学会ニュースレター」においてもコメントと質疑応答が掲載された。(ネルソン(Nelson)、ケイ(Kay)、トンプソン(Thompson)、アングロシーノ(Angrosino)他、ヒックス(Hicks)) 普通の市民でさえも、一般的な報道メディアを介して、このわれわれの問題を知るようになっている。たとえば、『タイム』誌に掲載された「アメリカ人という部族を研究する」は、この挑戦についての率直な評価と人類学的なジレンマのリアリティについて報じている。

 身だしなみの整ったふたりのオトコは、つやつやで金ぴかのシカゴゴールドコーストビルディングに入ろうとした。その時、ドアマンが警官を呼んだ。自分たちはシカゴ大学の人類学者で、富裕な家族の研究をしたいのだということを、彼らは伝えた。「警官は信じてくれませんでしたよ」とひとりが言う。「彼は私の持っていたブリタニカ百科事典を、その次に手にした掃除機を見て、これはいったい何の冗談だ、と尋ねてきました。」

 冗談ではなかった。マーガレット・ミードのサモアマリノフスキーのトロブリアンド諸島から数十年、人類学者たちは今や、エキゾティックでも何でもないアメリカ合衆国内部の都市やそこらの道路沿いの町に張り込みをするようになっていたのだ。

 人類学の黄金時代、と年輩の学者たちの多くがなつかしく呼ぶ時期はすでに過ぎ去った。地元に即した社会問題への高まる関心は、かつて世界中を股に掛けた冒険旅行から彼らが帰還するようになった理由のひとつである。と同時にまた、未開の人々が少なくなり、彼らの多くは人類学者が訪れることを厳しく制限するような、政治的に扱いにくい新興国家になっていたりする。このような時代に人類学志望者は、CIA関係者じゃないことを証明する能力や、調査で得た資料や成果をその国と共有する寛容さ、植民地主義的な態度や身振りを完全に捨て去っていることなどについての強力な証明書を持っていた方がよかったということになる。(『タイム』 1974.12.23 p.54)

 人類学者の雇用問題についてあけすけに言及(なにしろサブタイトルは「仕事がない」、なのだ)しつつ、タイム誌の記事はこう続けている。

 ちょうど海外調査の機会が減り始めた頃に、人類学を専攻する院生たちの博士号を取得する割合が記録的に伸びた。……これまでは90%の人類学者が大学に戻って職に就いていたが、いまや1990年までにアメリカの大学は人類学者のわずか25%しか雇用できないだろうと言われている。取材に対してミードは、今日の人類学者は「アカデミックな世間で通用する自分自身を自らプロデュースすることにばかり専念し、この世界で現実に求められていることへと眼を向けなくなっています。彼らは、猫の額のような狭い世間で交叉イトコ婚などの重箱の隅をつつくような取り沙汰にばかり多くの時間をかけています」と答えた。

 全アメリカ人類学会の前会長のジョージ・フォスターは、「われわれが新しい分野の研究へと若い世代を赴かせるよう訓練し、誤ったプライドを打ち砕かない限り、われわれは滅びてしまうだろう」と言う。(『タイム』 1974.12.23 p.54-55)

 このような雇用危機と機会の変貌への強い関心は、自分にはポール・ボハナン(Paul Bohannan)による後成的破綻(epigenetic catastrophe)についての最近の研究をパラフレーズする勇気を与えてくれた。後成説(epigenesis)とは、生物組織あるいはシステムの二次的、あるいは副次的な徴候の出現であり、特に環境が変化することに伴い現われるとされる、ある種の変態(metamorphosis)である。

 われわれの学問的ディシプリンは、そのような変態をくぐり抜けている。それはわれわれがこれまでその中でぬくぬくと繁栄してきたような社会的、政治的、学術的な環境の変化に対応したものである。われわれの全てが、われわれの先輩たちのたどってきたような、伝統的で時間をかけた研究と雇用の道のりをたどることをこれからも続けられると期待しているわけではない。専門的な定型は大きく変わりつつあるのだし、それに伴いわれわれも変わらざるを得ないようになっている。適応は痛みを伴うものであり得るし、美しく、革命的で、刺激的で、全て一挙に報いられるものでもあり得るだろう。

 実用性は五番目の、自文化研究という「手もと足もと」での人類学にとって留意しなければならない最後の課題であり、潜在的に最も重要なものである。実用性とは、企画された研究の効果や成果をプロデュースする力である。手もと足もとでの研究に従事する際、われわれはさまざまな合理化に直面する。それらは資金、排除、競争、個別化専門化に根ざしたものであり、それらの全ては雇用を直接的かつ実践的に考えることに導くものである。しかし、最終的なところでは、これら自文化研究の人類学の最も重要な成果は、その実践主義と理論への貢献が合致したところにあると言える。ゴールドシュミットは、われわれのこのような実践主義への多大な要求を指摘し、われわれがこれまで伝統的に人類学的な問題として定義し擁護してきたことの多くが相対的に重要でないことを考察した。アグィラーは本書の第二章で、この新しい領域が留保している理論的生成への可能性を論じている。

 実用性と、自文化研究の人類学の挑戦は、アメリカでは数十年前から認知されていた。(テイラー(Taylor),ギリン,エディ(Eddy)とパートリッジ(Partridge)を見よ) しかし、真に瞠目するような理論的貢献も十分に報告できなかったのか、時期尚早だったのかも知れない。とは言え、本書の論文においていくつかの低いレベルでのパラダイムシフトは示唆されている。

 いわゆるアメリカ土着の部族についての研究は新しいものではない。われわれの先輩の多く、コンラッド・アレンスバーグ(Conrad Arensberg)やソロン・キンボール(Solon Kimball)、ルース・ベネディクト(Ruth Benedict)、ウォルター・ゴールドシュミット(Walter Goldshmidt)、ジョン・ギリン(John Gillin)、ジョン・ベネット(John Bennett)らは、今日の若い世代の人類学者が生まれるより前から、そのようなアメリカ社会の研究を追究し記述してきていた。レヴィ=ストロースは早くも1958年にこう記している。

アメリカのこの四半世紀は、社会科学の研究において特筆すべき進歩を証明した。それは、現在のアメリカ社会の価値の危機を明らかに表現しているという意味での進歩である。(際限なき自己満足が縮小し始め、距離を置いた専門的調査者による調査を通じて自らを理解することの基準が求められるような)(レヴィ=ストロース1963年 p.102)

 彼のこの言は決して真実ではなかった。巻末の文献目録の中の1960年以前のアメリカの自文化研究について厖大な参照を見れば、彼の批判を退けるに十分だろう。

 今日の大きな雇用危機の流れ以前の、手もと足もとでの自文化研究の人類学の多くこそ、非常に重要で適切で、有効性も実用性もあるものだ。それは革新的で生産的である。それらは人間存在についての洞察力ある新しい知識を、その成果として提出している。それらはそれ自体の権利として重要であるばかりか、今日でも未だ重要であり続けている。それらは、他の領域の多くができないような、ある課題に対して客観的かつ全体的に観察すること――総合的な社会現象という立場から――によって、現代社会における需要を発見することになった。以前からわれわれは、そこに実際に住む者たち自身の目的のために社会問題に対処することの重要性を認識していた。はるか先のこと、昨今の雇用危機が忘れ去られてしまった後でも、このような手もと足もとで人類学を行うことのその理論的根拠は、それが求められ、かつ実用性が期待されるからであるという理由が最優先されていることを、私は信じるものである。


●●●●●● つまり結局のところ (In the long run)

 本書に収められた論文と、文献目録に記された業績は、北米の社会における調査研究のほんのわずかに過ぎない。これら以外のあらゆる土地についての伝統的な調査研究と比較して、これらの業績は今後、時間という試練をくぐることでどのようにその価値が測定されてゆくのだろうか。そのような挑戦をこれらの業績が受けるだろうことに、私は満足している。

 もしも、革新が美徳であるならば、方法や手もと足もとの今日的論点についてのわれわれの仕事は明らかに美徳である。もしも、長所が倫理的基準で計測されるものならば、われわれがここに示したものは確かに誠実でまっすぐなものだ。われわれの一部は、北米社会における強い者と弱い者の相克にまず何よりもナイーヴであったけれども、われわれは明らかにわれわれ自身の調査研究の主題にまず関心があった。とは言え、権力の状況に対する研究の反応と言った特別な問題は成功や長所を保証するものではない。どの仕事が最も価値があり、役に立ち、素晴らしいものであるかは、もっと他のものさしによって決められるものだろう。われわれの読者たちは、それが実践家であれ教師であれ、人類学を専攻する学生であれ、このジャンルの古典であることを究極のところ確認してくれるはずだ。

訳者あとがき

 



 本稿は、アメリカの文化人類学者(ある時期以降はむしろ「もの書き」か)メッサーシュミット(Donald A. Messerschmidt)の論文、On anthropology “at home”(1981) の翻訳である。

 

 初出は、同じ彼の編著書である Anthropologists at Home in North America: Methods and issues in the study of one's own society において、編者によるイントロダクションといった形で第一章の冒頭に掲載されたものである 版元は、Cambridge University Press。かるい紫色の表紙にオレンジ色の文字があしらわれた、当時としてもシンプルな装丁だった。

Anthropologists at Home in North America: Methods and issues in the study of one's own society

Anthropologists at Home in North America: Methods and issues in the study of one's own society

 

  今となっては30年以上前の、「古い」論文ということになるだろう。こんなものを今さらどうして、と思われるだろうが、個人的な想いだけでなく、文化人類学に限らず昨今のこの日本語環境での人文学一般の状況で改めて、もう一度読まれてもいいものだと思うからだ。

 

 自文化研究、という文化人類学にとって新しい流れが顕在化してきたのは、80年代だった。北米の人類学が大学や大学院で勢力を拡張してゆくに連れて専攻する学生が増えたこと、それに伴い大学院を出た彼らの就職先が少なくなっていたこと、などが理由とされているし、そのことは本稿でも概略触れられている。だが、そもそも大前提としてあったのは、世界から「エキゾチック」な「未開」が失われてゆくという、文化人類学という学問領域自体の来歴に本質的に関わる事態が前世紀半ば以降、地球規模で進行していったことだったのは言うまでもない。そんな中、アカデミックな仕事以外に自分たちの専門性を活かした職を求める若い世代の中から、敢て「自文化研究」に赴く者たちが出てきたわけで、著者のメッサーシュミットもそういう当時の若い世代のひとり、だったと言っていい。

 

 インターネット環境の進展はありがたいもので、以前なら手作業で手間ひまかけて消息を調べなければならなかったのが、検索エンジンその他webツールの使い方次第でかつての著者がその後どういう仕事をしているのか、わかるようになってきている。このメッサーシュミットもその後、アカデミックな訓練を武器としたもの書き稼業をしているようで、ヒマラヤ地方の,ネパールやブータンなどでの取材をもとに複数の仕事を発表、特に、インタヴューと参与観察をもとにした個人史的な色合いの強い記述(日本だと、聞き書きベースのノンフィクションやルポルタージュ、といった感じになるのかも知れない)に定評があるようだ。賞もいくつか受賞していて、2010年には、チベタンマスティフなどヒマラヤ地方の大型犬についての著書Big Dogs of Tibet and the Himalayas: A Personal Journey アメリカドッグライター協会(DWAA)の賞を受賞しているという。

 

 2年前のインタヴューが同じくweb上の、彼が関わっている出版社らしきサイトにあったので、そこから生い立ちなどを少し抜粋してみよう。

 

 生まれ育ったのはアラスカで、もともと自然保護の活動などに高校時代から関わってそのような野外での体験をもとにした冒険的なノンフィクションを書くことを志していたという。その後、60年代の初めに平和部隊(Peace Corps)に加わりネパールへ。帰国してからは故郷アラスカで雑誌の編集者などをしながら、自ら雑誌や新聞などに原稿を書いていた。1974年にオレゴン大学で文化人類学の学位(博士)を取得、というからその後大学へ行ったということか。この時のPh,D論文をもとに書かれたのがThe Gurungs of Nepal: Conflict and Change in a Village Society(1976)で、「開発」をテーマにした研究だったようだ。その後、非常勤講師などを経てワシントン州立大学テニュアを獲得したものの、辞職(給料が安かったから、と言っている)、再び海外へ飛び出して、ネパール、インドネシアパキスタンベトナムブータンで自然保護のコンサルタントをしていた。90年代以降は概ねブータンとネパールに住んで、仕事と共に原稿を書いて暮らしていた由。もっとも現在はその暮しもある意味リタイアして帰国、奥さんのカリーンと共にオレゴン州ポートランドに住んでいる。年に一度は夫婦でネパールなどを訪れて未だに取材その他を続けているという。

 

 学問を肥やしにした「自由」が生身のひとりの生き方としてこのようにあり得る、という例として、そのような生身がかつて30年ほど前、当時のアカデミックな環境の真っ只中で同じ同時代の問いを共有する仲間たちを糾合、このような仕事をしていたという意味で、いまのこの日本の状況でなお「学問」との関わり方に行き暮れているように見える若い世代はもちろん、われわれもまたもう一度、ここで示されている問いを素朴に自分のものとしてかみしめてみる必要があるのではないだろうか。

 

 本稿が収録された編著の前書きの一部に、30年以上前の彼は力強くこう記している。

人類学者たちは絶えざる変化に直面している。われわれは調査研究し、教育し、そしてわれわれの生活を成り立たせてきた。だが、調査研究と雇用をめぐる近年の変化は、われわれに適切な反応をさせることになった。それらのうち今日的な反応のひとつは、「手もと足もと」の「日常」の環境での精力的な人類学の実践である。

 現代人類学における誕生の背景と挑戦は第一章で概観する。この書物の成り立ちと北米の人類学が何に直面しているかについての主要な問いが示されている。何が方法か?何が論点なのか?何故われわれはそれをするのか、という問いは、われわれが何をしているのか、という問いと同時に発せられている。多くの反応が生まれているが、長い視野で見ればこれらの実践的で有効な挑戦者たちは明らかに時代に先んじて突出している。

 「日常」の人類学は一次的な流行でもなければ、職が得られない博士号持ちのその場しのぎでもない。そうではなく、人類学のこれまでの深い背景と強靱な伝統に根ざしたよりよい発展の選択肢のひとつなのだ。それは理論と実践に共にリンクしている。

 ちなみに、本論文が収められた編著Anthropologist at Home in North America : Methods and Issues in the Study of One's Own Society.は、30年以上たった2010年に紙媒体で再版されているようだ。いずれ情報環境の激変の真っ只中、出版事情をめぐる状況はこちら日本などよりさらに厳しいだろう中、敢えて再版されていること、それも電子書籍などでなく今やまごうかたなきレガシーメディアである紙媒体の書籍で、ということも含めて、これは昨今の若い世代の研究者、あるいはそれ以外の知的継承者たちからある種マスターピースとして支持され、読み直されるだけのクオリティを持った仕事であることの証しだろう。

*1:翻訳草稿です。相変わらずのシロウトの生兵法なのはご容赦を。副題はこちらでつけてあります、為念。

*2著作権も何とかクリアできました……75£也