国境を越えた人と馬――ユキコさん、のこと

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 先日行われた本場イギリスのダービーに初めて女性騎手が出走した、という報道があった。名前はアレックス・グリーヴス。

 ああ、知ってるよ。何年か前、地方競馬のレディスカップに来日して、仕事でついて回ったことがある。乗り馬に恵まれなかったせいかあいにく成績はよくなかったけど、最終シリーズの大井でウォーパーティーって馬に乗って直線一気、猛然と馬群を割って二着に突っ込んできたのを覚えている。あがってきて、まだクリクリ坊主の若いアンちゃんに鞍を外して渡しながらとてもいい顔で笑ってた、あの彼女だよ。遠い東洋の島国までムチ一本でやってきて、半月あまり小さな競馬場を回って見知らぬ馬たちに乗ってまた海の向こうに帰っていった、あの彼女。そうか、彼女がダービーに乗ったのか。

 あるいはまた別の話。

 今から三十年くらい前のこと、ハマテッソという馬がいた。中央競馬だ。ブラジルのサンパウロ大賞典に遠征した。ところが、帰ってきたのは馬だけで騎手は現地で行方不明になった。中神といった。この話、寺山修司がエッセイに書いている。ところがこの行方不明になった騎手の話を、ごく最近、畑正憲が小説に書いていてびっくりしたことがある。どうやらムツゴロウ先生、ブラジルでこの中神騎手と出会ったらしい。スポーツ新聞の連載小説だったから追い切れなかったけれども、確か現地の雀荘でやさぐれてたって設定だった。まわりの競馬好きでもこの小説を話題にした人はいなかったけど、本になるのかなあ。なったらきっちり読んでみたいんだけどなあ。

 今も昔も、そういう風に馬と一緒に国境を超えてゆく人たちがいる。ずっといる。

 最近、アメリカはケンタッキーでこういう人に会った。ユキコさんという。稼業に差し障りがあると申し訳ないので、ここは仮名だ。

 それまでもうわさには聞いていた。日本人の女性で、アメリカで馬の仕事をやっている人がいる。なんでも調教師もやっていて、牧場に顔がきいて、これまでもアメリカから種牡馬を輸入する時に力になった人だとも聞いていた。

 あれは確か、数年前に亡くなった社台ファーム吉田善哉さんだった。ジャパンカップの日、馬主さんの関係で珍しく府中の馬主席をうろついていた時、おおい、といきなり声かけられて招き入れられた部屋で、おい、これ食ってけ、遠慮するな、とまるでいなかの親戚のような調子の善哉節。なにせ馬主席のこと、いずれきらびやかな人々がまわりにいっぱいいる中でこっちは眼を白黒させながら出された赤飯を食っていた時、その場の話の中に出てきたと思う。「あのユキコがな」という善哉さんのあの元気のいい声が、どこかで耳の底に残っている。

 「吉田善哉さんはね、昔、こちらに馬を買いに見えられた時にご縁があってわたしが通訳をさせていただいたんですよ」

 ユキコさんはそう言った。

 「その後、ほら、ああいう方でしょ。ちょっとした行き違いからケンカみたいになっちゃって。わたしの方はほんとに何とも思ってないんですけどね。でも、ずっと後には人を介して『あれは女なのによくやってるな、頑張ってるな』なんておっしゃっていただいてることが聞こえてきたりするようになりましてね」

 「ああいう方」というところでコロコロと笑う。うわさだけだとどんな豪傑かと思っていたけれども、生身のユキコさんは小柄でごく穏やかな女性だ。

 アメリカで、それもサラブレッドの種牡馬を買うということがそれまでの日本人にとってどれだけなじみの薄い体験だったか。その時受けたカルチュアショックの大きさは当の善哉さんもしみじみ語っていた。六〇年代の初め、今からもう三十年以上も昔のことだ。

 今や中央競馬の賞金の一割をかっさらうまでになった社台ファームはもちろんのこと、東牧場や下河辺牧場千代田牧場や、いずれそういうこの国の競走馬生産の老舗のごく一部の牧場だけが「世界」を辛うじてのぞいて見ていた。この国の競馬にとっての「世界」とはたかだかそんなものだった。そう、ついこの間までは。

 聞けば東京は両国の生まれ。もともと家が軍需関係の仕事をしていたとかで、戦時中もそれほど暮らしに苦労しなかったとも。お嬢さまなのだ。戦後、アメリカ人のご主人と結婚して渡米。馬のことなど何も知らなかったという。

 「ちょうどその通訳の仕事をしてから馬の世界に縁ができて、また主人が馬が好きで趣味が昂じて調教師を始めちゃったんですね。で、その厩舎を主人が亡くなったものでわたしが仕方なく引き継いだんです」

 調教師の免許を取ったのもそういう事情だという。彼女自身自由自在に馬に乗れるのかというと、どうやらそうでもないらしい。

 「アメリカの調教師にも馬にそれほど乗れない人はいますよ。乗れなくてもいいんです。調教師の試験はペーパーだけで実地はありませんし、それほど難しいものでもない。現にわたしみたいなのが免許をとれているんですから」

 いやいや、それは謙遜だと思うけれども、でも調教師というのは厩舎のマネージャーであり経営者であるわけで、調教や飼養管理の指示をするだけでなく、競馬場で開催ごとに作られる競走条件を詳しく記した小さな冊子を読み取って、自分の管理する馬をどこに出走させるかについて考えるのが重要な仕事。なんだ、それなら俺にもできるかも、と思ったそこのあなた。甘いですよ。ファミコンダビスタで馬づくりするのとはわけが違う。なぜって、あっちでは馬を流通させる売買が前提で競馬が成り立っているのだ。

 向こうのレースにはクレイミングレースとアロウワンスレースというのがある、というのは、今どきの外国競馬好きならばご存じのことだろう。ごく荒っぽく言ってこれは馬を売って流通させるためのシステム。同じレースでもクレイミングレースに出走した馬は、全てこれは売りもの。つまり、決められた値段で売りに出す馬ということになる。ただし、買い手がこの馬を買いたいと手を上げる締め切りは発走の十分なり十五分なり前まで。当然、どこか具合の悪い馬などはその時までゴツいバンデージで脚もとをグルグル巻きにしていたりする。締切りになっていざ出走という時にバンデージを外したのを見て、あ、しまった、やられた、なんてことも当然ある。稼業人同士の騙しあいなのだ。

 「ですから、クレイミングレースについては厩舎同士でいろんなうわさが飛び交うんです。ジョッキーもジョッキーでいろんな話を流すし、また調教師もそれを耳にして判断しなければいけない。調教師はこれに失敗するのが一番辛いんです」

 正しいなあ。こりゃもうほとんど昔の日本の競馬師。いや、地方競馬の厩舎は今でもこういう商売をしないことにはレースの賞金だけではまずまともに食えやしない。だから、流通を前提にしたマージンをとってゆくのは、洋の東西を問わず馬まわりの稼業の大前提。馬房に馬が入っていさえすれば預託料だけで少なくとも生活は成り立つという日本の、それも中央競馬の調教師のとんでもなく恵まれた環境とはわけが違う。何より厩舎はそれぞれが独立の民間企業。出資者でありお客さんである馬主が一番強いわけで、ちょっとトラブると預けてある馬をごっそりよその厩舎へ移されるなんてのも珍しくないという。ここらも、馬を入れる馬主の方が何度も頭を下げないと厩舎に入れてもらえなくなってる今どきの中央競馬とはまるで逆だ。

 「そういう事情ですから、調教師の免許を持ってる人というのはたくさんいるんですよ。でも、実際に厩舎を持ってやっていけるかどうかはまた別なんですね」

 現に、彼女の厩舎で長年彼女の片腕となって働いているマリオというオジサンも調教師免許を持っていて、以前は厩舎を持っていたという。

 このマリオに、カーメルフリップという馬を覚えているか、と尋ねたら、ああ、確かに昔うちにいた馬だけど、でもなんでおまえはそんな馬を知ってんだ、と大騒ぎになった。いや、その、ちょっとチャーチルダウンズで、としどろもどろの英語で説明したらバンバン背中を叩かれちまった。以前、地方競馬で鳴らした女性騎手がアメリカに渡って乗っているというので、ちょうど向こうの大学に居候している時にそこでたまたまケンタッキーダービーの研究をしていたジニーという大学院生にチャーチルダウンズ競馬場に連れていってもらった。その時、その女性騎手が乗っていたのがカーメルフリップ。細くて小さい牝馬で、僕の眼から見てもアメリカの「その他おおぜい」の馬だった。そうか、あいつはやっぱりこのユキコさんの厩舎にいたのか。

 彼女は自分で牧場もやっている。「いい馬、高い馬は日本のお客さまに買っていただいて、わたしのところで走らせるのはそうでない馬という風になってきてますね」と笑う。

 「最近は牧場関係の方だけでなく、日本の調教師さんがじかにこちらにいらっしゃってまとめて馬を買ってかれるようになりました。それで電話で、社長、これこれこういう馬買ったからよろしく、なんて馬主さんにおっしゃってる。その社長さんは馬をご覧にならないままお買いになるんですから、まあ、大変なものですよね」

 日本に売った馬の成績はきちんと調べて牧場に伝える。日本に行った馬はその後どうなったのか全く聞こえてこない、とこれまでさんざん言われてきているから、これは喜ばれる。現に現地の種牡馬カタログにも、産駒の日本での競走成績がちらほら載るようになってきている。「そうやっておくと、次からも気持ち良く売ってくれるようになります」。そうだそうだ、ゼニカネ任せに高い馬を買いあさり、日本に持ってきては使いつぶすだけじゃ「強い馬づくり」もヘチマもあるもんか。

 中央競馬に吹き荒れる「マル外」旋風の向う側で、こんな女性が自分の仕事をしている。そう、「世界」はいきなり競馬新聞の中にやってきているわけじゃない。

*1:『本の雑誌』掲載原稿。本当はちょっぴり違う名前の方、であることは事情通の方はご承知だろう。アメリカで調教師として開業されていた女傑。まだご存命だろうか……170817