「文化侵略」ということ

 まず最初に、先々月のこの欄で小生の書いた「無断引用・言及」問題について、多くの読者から問い合わせをいただきました。この場を借りてお礼を申し上げます。


 関係者に聞くところでは、版元である吉川弘文館はもちろんのこと、当事者である編者と著者も相変わらず不誠実な対応しかしていず、問題自体はその後も膠着状態のまま解決の兆しを見せていないようですが、これまで新聞であれ雑誌であれ、こういう呼びかけに対して読者の方から積極的に応えていただけた体験というのが不肖大月、あまりなかったもので、『正論』読者の方々には大変失礼ながら正直言って少しびっくりしました。


 問い合わせを頂戴した方の中には、新人研修の資料にしたいので、という編集者の方や、知人が同じような問題に巻き込まれて大学の職を棒に振りました、という方、あるいは当の吉川弘文館から専門書を出す予定にしているという方など、いろいろな方がいらっしゃいました。改めてありがとうございました。

 大学に入るために上京してこのかただからおよそ二十年も東京のまわりに住んで生活していながら、いまだに東京ディズニーランドに行ったことがない。

 そう言うとまわりの人間がたいていびっくりするくらいだから、どうやらこれは今どきの三十代の日本人の平均からはかなり外れた珍しい例に属するものらしい。大学生はもちろん、二十代の会社勤めの連中などにも、何かというとディズニーランドに行きたがる手合いが今や男女を問わず当たり前にいて、こちらにすればそのことの方がよほど謎なのだが、そう言ったら、今さら何を偏屈ジイさんみたいなことを言ってるんですか、と逆に呆れた顔をされた。その一方で、子供がもう少し大きくなりゃ連れて行かざるを得なくなるよ、としたり顔する同世代もいる。だが、これはディズニーランドを心底好きで通っている十代二十代の若い衆よりも醜悪だ。よほどのことがない限り、子供をディズニーランド通いの言い訳にするような真似だけはすまい、と心に決めている。

 しかし、言われてみれば何も東京だけではない、修学旅行で東京にやって来る地方の高校生たちなどでさえ、その日程のクライマックスはディズニーランドでの自由行動になっている由。事情通によれば、とにかく敷地の中に一日追い放しておけばその間あれこれお守りをする手間はかからないし、わけのわからぬ事故に出会う確率も街中よりはるかに低いわけで、引率の先生たちにとって格好の息抜きになるとか。どうしてそうまでして修学旅行をさせなければならないのか、と本質的な問いを投げかけたくなるのだが、海外への修学旅行や海外留学をウリにして生徒を集める私立高校も珍しくないご時世、まして情報ばかり肥大した今の状況でなお地方に住んでいる若い衆にしてみれば、ディズニーランドへ行けることを楽しみに退屈な高校生活を辛抱することの何が悪い、という論理も確かに一定の説得力を持つように思う。かくて、新幹線のホームや空港のロビーにはバカでかいミッキーマウスやドナルドダックのついた土産物の袋を山と抱え、キャラクター商品を身につけた高校生の団体が、疲れきった表情の先生たちや旅行代理店の係員たちの前に平然とひしめくことになる。これもまた二十世紀末のわが祖国日本の風景。いかんともし難い。

 かつて東京ディズニーランドができる時、その建設工事の現場に携わった友人がいて、建築資材から何から全部あちらのインチモジュールで押し通され、何尺何間で仕事をしてきたこちらの職人たちがほとほと往生させられた、と語っていた。へえ、そりゃとことん植民地主義の発想だよなあ、と眉ひそめ合ったのが思えばすでに十数年まえのこと。今や「植民地主義」だの「帝国主義の文化侵略」だのといったもの言い自体が雲散霧消、グッチだシャネルだと身につかぬブランドものに血道をあげる病いと全く同じ、小学生の頃からディズニーランドグッズに狂う若い衆をこの国は大量生産してしまった。

 キャラクター商品の氾濫がどれだけ子供の意識を変えていったものか。これももうすでに「歴史」の過程だけれども、今から三十年ほど前のこと、子供の運動靴にマンガのキャラクターがつけられ始めた時に猛然と抗議の声をあげたのは、かつて大政翼賛会で「欲しがりません勝つまでは」のコピーを作ったという伝説さえ持つ『暮しの手帖』の編集長、花森安治だった。「文化侵略」は常に身の回りから始まる。もはや手遅れもはなはだしいのは百も承知だけれども、たとえ自分だけでもそれらから身を遠ざける意志と論理を鍛えておかねば、と心意気だけは立派な、男三十七歳の夏なのである。