「情報公開」という正義

 どうやら世間の最近の新たな“錦の御旗”は「情報公開」のようである。

 仙台高裁で食料費についての情報公開をめぐって「全面開示」の判決が出た。官官接待で接待した相手の氏名まで情報公開しろ、というお裁き。個人の氏名はプライバシーに関わるから情報公開の除外規定に当てはまる、という宮城県側の主張は退けられた。今後、公務員はこと仕事に関わる場合は、いつ、どこで、誰と会ってどんなメシを食ったかまで、求められれば公開しなければならないことになる。

 もちろん、このような情報公開の流れは必然だと思うし、必要なことだとも思う。けれども、その場合の「情報」とはまずもって書類上のことである、その点についての自覚がこの「情報公開」を“錦の御旗”にする人たちに果たしてどれくらいあるのだろう。

 報道を見ていると、昨今いろいろ突っ込まれている官官接待の当事者である役所は、その書類上のタテマエすらあまり整えていなかったらしい。だが、この先情報公開が進むと、あらかじめ公開される可能性を考えた書類の形式や書き方などを彼らは工夫してゆくだろう。だから役人は、と憤慨することももちろんできるけれども、それは何も役人だけのことでもなく、組織というものの持つ本来的な問題という部分が大きいと僕は思う。企業だって同じでしょ。

 それに、これはあまり言ってはいけないことなのかも知れないけれども、官官接待の問題というのはどうも飲み食いのことにばかり焦点が当たり過ぎているのではないか、という印象もある。情報公開の大事なポイントというのは、何もこういう役人の飲み食いのアラ探しのための武器を与えてもらったということではないと思うのだけれど、そこらへんはどうなんですかね。

 こういうことを言うと、税金を払う市民の権利として、といったもの言いが出てくる。「アズ・ア・タックスペイヤー」というやつだ。もちろんそれは正当な権利だ。ただ、税金を払って公的な仕事を委ねる立場の度量や品位というのも同時に考えないと、今のこういう状況では単なる他人のアラ探しばかりが「正義」として増幅される危険性だってありそうだ。てやんでえ、そこまで卑しいこと言うならおめえらに税金なんか払ってもらわなくていいやい、と公務員が言いたくなるような国はきっと不幸だ。

 とにかく、なぜそのような官官接待の必要があったのか、その部分の解説報道が少ない。地方自治体が中央の官僚を接待しなければならない、そうしなければ仕事がうまく回ってゆかないような現場の事情というのが必ずあったはずだ。人のカネで飲み食いしやがって、という感情をかき立てるだけでは、せっかくの情報公開もあまりに貧しい。