ユニクロが先行する

 

 ユニクロの店舗は、いまどきの郊外でもある種独特な存在感を持って建っています。

 まず、あの赤いロゴ。シンプルな四角の中にアルファベットで白く「UNIQLO」と抜かれたあれ。特にあの「Q」ってのが曲者ですな。どうせニッポンメイドのヘンな英語なんですから、いっそのことこういう掟破りなこともやっちまえ、てな感じで、これはたとえばTSUTAYAなんかがアルファベット表記のロゴを採用していながら、日本語をそのまま横にしただけというビンボー臭さがどうしても抜けきれないのと比べても、うまい感じです。

 さらになんつ~か、ビミョーにアウトドアなかんじを漂わせた三角屋根風前面(ファサード、っつ~んですか)。これもまた結構印象づけに貢献してます。

 この種のD店舗物件というのは、建築コスト的には制約がキツいわけで、そのデンでいけばファミレスだろうと洋服の安売り店だろうと、使われる資材はもとより、どうやって限られた予算や条件の中でそれなりにカッコ良く、もっとはっきり言えばD魂にグッとくるようなものを作るか、というあたりで、どこもよく似たものになってくる。

 そんな似通い具合を宿命とする中でも、このユニクロの店舗は、まさにこの店舗でトクをしていると思いますね。

 系統からいえば、釣りの道具その他を扱う店、それも上州屋なんかになるとあからさまに質実剛健、かのドンキホーテみたいな美意識なきミもフタもなさになるのだけれども、そうじゃなくて、「アウトドア」ってカタカナ書きにまぶされた「フィッシング」系のそれにどこか近い。あるいは、山登りの道具にしても、「登山」じゃなくて「トレッキング」とか。ひとつ間違えたら、いや、間違えなくても、売っている品物はイトーヨーカ堂に並んでいて不思議のないような質実剛健安物衣料そのものなのだが、このユニクロ的空間にユニクロ的クレヨンの箱並び的文法(後で触れますが)で陳列されると、あ~ら不思議、カタログの誌面を眺めているみたいに、そういう安物衣料を手にする自分までが何やらカタカナ書きでいまどきな生活の主人公みたいに思えてくる、ってもんであります。

 アウトドアグッズ(そう、「グッズ」なのだ、「商品」じゃない)的なたたずまいに化けた安物衣料、それがユニクロであります。品物の良さ、価値対品質の高さ、なんてもののさらに外側に、そういうわれら消費者側の幻想というか勘違いがねっとりとからみついている。

 

 それはもうひとつざっくり翻訳してしまえば、「カジュアル」の世俗化と神話化、てなものにも関わっています。

 こういうことです。背広にネクタイに代表されるような「社会」の「タテマエ」に対して、かつては「ジーパン(ジーンズ、じゃない)」「Tシャツ」的な「ホンネ」がありました。まさに「カウンターカルチュア」ですね。さらにそこには「組織」ではない「個人」、杓子定規な制約に縛られない「自由」、なあんてものまでいろいろと重なってくるわけで、成長期までのニッポンの社会生活ってやつにとっては、まさにそういう「ワタクシ」を表現するわかりやすい指標だったわけです。だからこそ、ジーンズをはく、ということそのものが何かしら自己主張だったりした時代もありました。

 「ドブねずみ色の会社員たち」なあんてことを言って、同じ色の背広を着た日本のサラリーマンをアジってみせたのは、他でもない、戦時中に「欲しがりません勝つまでは」の絶妙なコピーを作ったという伝説のある(実際は違うらしいですが)『暮らしの手帖』編集長、花森安治でした。そのココロは、個性のない日本人ではいけない、もっと自分の個性を、身近なファッションからも自分を主張しよう、てなところだったわけですが、でも、いまやその背広を着なければならない職種の若い衆たちは、自分なりのセンスで工夫したいろんなデザインのスーツを楽しむだけの余裕も美意識も持つようになっている。ジーンズだって、単にはいてりゃいい、ってもんでもなくて、やれヴィンテージだなんだと、明らかにあるセンスの審美眼によって判定されるものになっているじゃないですか。その程度にやっぱりニッポンは「豊か」になっているんです。

 かつては何か余計な意味や思い入れさえまつわっていた「カジュアル」なものが、カウンターであるというだけで何とはなしに価値となり、だからこそ市場原理の先端でどんどん安くなり、広く誰もの手に入るようになっていったことで、その敵役だったはずの「フォーマル」もまた、同じ世俗化の働きの中に巻き込まれていった。なんか知らないけど「カジュアル」さえ身につけていればそれで何だか安心、てな頽廃までそこには当たり前に見られるわけで、そういう「カジュアル」全面化の風潮にこそ、このユニクロ圧勝の素地もあるはずです。

 だって、ユニクロメイドの背広、なんてものは存在しない。いや、実際には、ユニクロと同じ中国メイドの上下二着で二万円を切るようなスーツがすでに出現しています。そういう意味での価格破壊はもう起こっていて、あれはつまり背広的「フォーマル」のユニクロ化に他ならないはずなんでずか、でも、それらは決してユニクロ的空間で売られることはない。おなじように、らくだ色したジジイ向けモモヒキ、とか、肉襦袢みたいな難儀なババシャツ(これ、もう一般名詞だよね)なんてものも、ユニクロにはない。ないけど、でもおそらく、「カジュアル」化したそれら下着類というのはいくらでも並んでいます。同じく、イトーヨーカ堂1,980円ナリのゴルフシャツの「カジュアル」でなく、やっぱりユニクロフリースジャケット980円の「カジュアル」の方がカッコいいよな、というセンスも最大公約数になりつつある。フリース素材の信じられないような値崩れを仕掛けたのがこのユニクロだった、ってのはもう有名ですが、まさにそのフリースのジャケットやパーカーなどを着こなす年配のご夫婦、なんて珍しくなくなっています。

 

 ユニクロの店内を眺めていると、三十代から四十代の主婦層、というのが目につきます。と同時に、これっておそらく店の側ではもう把握しているはずなんでしょうけど、年配の夫婦ってのがこれ、案外いらっしゃるんですよねえ。カネがない=若者向け=安物、という図式で語られることがユニクロ自体、未だに多いようですが、でも、違うんじゃないかなあ。そういう図式自体、ドキュナイゼーションの進行する<いま・ここ>のニッポンの暮らしを把握するにはズレたものになっている。カネがないから安いものを買う、ってことは、裏返せば、安いものしか買えないから仕方がない、でも、カネさえあればもっと高いものを買う、ってことでもあります。でも、もう違う。

 カネがあっても安いユニクロを、という選択だって十分にありになってるわけで、まして、それがさっき言ったような「カジュアル」全面化の中でのひと味違ったセンスの良さ、という利子までついてくる。安いものに向かわざるを得ない、言わば若者的な消費行動ってやつがあるとして、いまやそれが世代や性差、階層などを超えて全面化してきている、それこそがこのD現象の重要な柱なわけですが、ユニクロの店舗のあのビミョーにアウトドアなたたずまいと、その中に並べられる実質中国メイドの安物衣料こそが、いまどきの「ワタクシ」を大量生産・大量消費のサイクルで作り上げている。<いま・ここ>のニッポンの自意識が集約して現われているツポのひとつとして、片側二車線程度のパイパスや県道沿いに、ユニクロは身構えています。