書評・川村湊『妓生』 菅野聡美『消費される恋愛論』

川村 湊『妓生――「もの言う花」の文化誌』(作品社)

 こういう本が日本の学者(一応)から出るようになったことは、まず喜ぼう。大方は「キーセンパーティー」でしか知らない、かの「妓生」の歴史的背景を、ざっとでも日本語で知ることができるようになるのは、間違いなくいいことだ。例の「慰安婦」問題に際しても、半島には娘を売る習慣はない、だのと平然と言うインテリが、彼我共に(なんと!)いたくらい。まず知る、知ろうとする、そのためにも素材は必要なのだ。

 とは言え、物足りなさも残る。参考文献としてあげられている朝鮮語文献が九点。朝鮮ブンガク研究者の著者ならではの網のかけかたなのだろうが、その素材にあまりによりかかりすぎて、分析的な視線が薄いように感じるのだ。まあ、もともと妓生の絵はがきなどを収集していたのが関心を持つようになったきっかけ、というのだから、素材任せは当然なのだけれども、でも、たとえばおそらくその中で一番価値あるもののはずの李能和の『朝鮮解語花史』などは、明らかにこりゃ、あちらの民俗学的知性による仕事で、とすれば、もう少しあちらの文脈での民俗学の来歴についてパッチをあてないことにはうまく起動できないソフト=民俗資料ではないのだろうか。本書を読む限り、こりゃ日本だと中山太郎的な、あるいは西村真次(わかるかな?)的な知性と見たが、そういう知性があちらで当時、どういう背景で存在できるようになったか、とか、これはそういう部分も含めてこれから先、読みほどかれてゆくべきテキストになるのだと思う。こちら側の「花柳小説」に眼をやろうとしているあたりは、へっへっへ、あたしの年来の守備範囲とも重なってきてるなあ。さ、こっちも仕事せんと。


菅野聡美『消費される恋愛論――大正知識人と性』(青弓社

 近代ブンガク史および日本近代史方面で、こういうジェンダー論がらみの立論ってのはずっと流行りらしくて、出版物はもちろん、修士論文なんかの題目を検索してみるとこのテは山ほどひっかかる。一方、新書サイズのライト版専門書ダイジェスト、てなここのところ目立つパッケージングの企画は、ここ青弓社でも立ち上がってて、その双方流行りが交錯したところにできた一冊。とは言え、こりゃ中味はなかなか濃い。

 明治時代に輸入された「恋愛」が、大正時代にどのように現実におろされ、解釈/上演されていったのか、というのがライト・モティ-フ。とは言えこの著者、それを大正期の男性インテリを可能性の相において読み直そうとし、与謝野晶子平塚らいてうといったお墨付きな「オンナ」の仕事までも、これら同時代の男性インテリとの関係において正しく位置づけなおそうとするのはいい向こう意気で、オンナだったら何でもまんせ~、になりがちな偏差値世代の優等生ネエちゃんたちの中では、ひと味違ったものになっている。もちろん、佐伯順子の「恋愛」論などもきっちり批判の俎上で、このあたりはあたしも総論異議なし。それにしても、この方面における佐伯順子ショックってのは、そんなに強烈だったんだなあ、と改めて痛感しましたな。小谷野敦が眼の仇にするわけだわ。

 ただ、この著者も琉球大に就職したらしいから、かの沖縄インテリ世間のとんでもない呪縛(化石サヨクというもの言いすら、まだ生やさしい)にかかって、ただの大学のセンセへと「上へ向かって堕落」するのでは、と、ちと気にかかる。文科系のガクモンがメルトダウンしてゆく状況で、こういうテキストと解釈/上演のダイナミズムも含み込んだ「歴史」のとらまえ方をさらりとできる知性ってのは、これから先、間違いなくこの日本語を母語とする版図の第一線で頑張ってもらわねばいけないんだからさ。