古本屋に入ると、その値崩れ具合に愕然とすることが最近、よくあります。
給料をとっていた頃は、それこそ稼ぎの大半を古本に突っ込んでいたこともあって、やくたいもない雑本ならば佃煮にできるほど抱え込んでいますが、そうやって培ったはずのなけなしの相場感覚がこのところ、ことごとく裏切られるようになっているのであります。これくらいかな、と値踏みした値段の二、三割、下手をしたら四割以上も安くなっている。特に、思想や文学、歴史といった、いわゆる人文科学系がひどい。まあ、安く手に入るのだからいいようなもんですが、こういう分野の「教養」の需要が息絶えつつあるのを、改めて実感します。
要するに、そんなもん知ってたって何の役に立つんだよ、という世間からのツッコミが圧倒的に説得力を持つようになってきたわけで、なるほどそれはごもっとも、役にも立たない知識や能書きを楽しむためには、昔も今もカネとヒマが必須の条件、食うこと自体が不透明なこのご時世で、うっかりそんな「教養」に淫していたらたちまち干からびちまいます。そういう風に本読むシトも少なくなれば、またその経験をかけがえのないものと思う感覚も減退する。書評なんてあなた、そりゃただの広告コピー、読んだらそのまま忘れられる煽り文句以上になれないのも、ある意味当然かも知れません。
少し前まで書評業界の元締めのひとりとして斯界に君臨し、特に新聞社方面の予算食いまくりのやりたい放題、幾多の取り巻きや小判鮫を引き連れてのし歩いとられた、かの丸谷才一センセが、ずっと以前、評論家として食っていくためにどれだけの芸を身につけねばならないか、てなことをおっしゃっとられます。一に文芸時評、次に座談会や対談、それから論争、全集および文庫本の解説、の四つなんだそうですが、書評ってのはこの一番最後に入るらしい。
まあ、何も評論家などと偉そうに言わずとも、こういう本読むことの周辺でもの書いてメシ食ってる向きは、今でもおよそこんな感じで仕事してるわけで、また文芸誌や総合雑誌(なんだ、その「総合」って)の目次立てというのも、未だにこういう仕事の世界観で割り振られてたりする。でもねえ、今のこの情報環境で本読むことのまわりって、もうそんな仕切り方で見通せるようなものじゃなくなっちまってるんですよねえ。そのことに、雑誌造りの現場が一番疎いっていうか、ボケちまってる。
ちなみに、先の四分類、当時の代表選手はそれぞれ、中村光夫に山本健吉、河上徹太郎に平野謙、なんだそうですが、さてさて、いまどきの本読みまわりの標準だと思われる『本の雑誌』読者諸兄姉は、果たしてこのうち何人ご存じですかあ?