「職人」イメージの転変

 小さいころ、デパート地下の実演販売が好きでした。今川焼きとかたい焼きなどを目の前でこさえてくれるやつです。油で黒光りした焼き器の中にサッと流し込まれるタネの白さにつぶあんの小豆色が映えて、それらをギュッとはさんで焼けるに伴いいい匂いが広がる。タコ焼きなんかだとふりかけられる花かつをが踊るさまが不思議に思えましたし、食べ物でなくても時に万能調理器のタンカ売などもまじえながら繰り広げられるあの小さな縁日みたいな場所がどうやらあたしは好きだったようです。

 だから、職人がカッコいい、と思ってしまう感覚があるようです。どうやら最近になってそういう感覚が結構広まっているらしくて、何か手に職をつけて店でも開こうといったサラリーマンも増えているとか。確かに、テレビ番組の企画でも手打ち蕎麦だのラーメンだのをそういう脱サラの職人的こだわりで店開きしてゆくのを紹介するものはよく見かけます。

 学校出てもそれだけじゃしょうがないというこの不況下の感覚とそれはシンクロしているのでしょう。若い衆でも今や学校に期待するのは理屈でなくそういう職人的なライセンスをとらせてもらえるかどうかなわけで、抽象的な価値観ではなくまさにある意味実用性のあるものしか残れないまっとうさがあらわになってきています。

 けれども、そういう具体的な職人がカッコいいという感覚はそれ自体、どこかで「個人」の縛りにあっているようで、組織から離れた別個の自分を実現させるためにこの職人というイメージは広く振りまかれています。

 たとえばあの『男はつらいよ』の寅さん、彼などはそういう職人的な自由人の典型として受け入れられてきたところがあります。だって、商売はテキヤのくせに寅さんには親分子分の関係というものがない。どこか田舎のタカマチにふらりと出かけて何かを売っている姿は描かれていても、そのタカマチをコントロールする地元の顔役や人間関係が描かれていないのですから、実際にはあり得ない種類の種類の自由に違いないのですが、ほとんどの人はそのあたりに疑問に持たないままで「気ままでいいよなあ」とうらやむタコ社長の物言い通りに寅さんを受け入れてきました。

 おのれの腕一本で世渡りする、そのカッコよさはしかし、技術があくまでも関係性の上に成り立つ以上、実はその腕というやつもまわりとの関係でしか実現できないことを忘れさせてくれます。包丁一本さらしに巻いて修行に出かける板前さんなどのそんな職人像は、組織から疎外された近代の個人の夢の語られ方として活きていた。今やもうもう古くさい物言いになってしまいましたが、プロレタリアートなんてのはそういうインテリから見た職人的労働者のありように焦点があっていたようにあたしは感じています。かつてのソ連の国旗に描かれていたハンマーや鎌を手にした労働者イメージってやつは技術で自活する職人たちの姿に他ならなかったはずなのです。それは科学技術の進歩に伴って白衣を来た科学者たちの姿にも重ねられて、開発の正当性を側面から援護してきた経緯もあります。ほかならぬあたしたちだって「アトムの子」ですから「科学省製造」のアトムの輝かしさについては十分記憶がある。

 ただ、もしかしたらこういう技術で自活する職人の理想像というのは、もうこれから先あまり現実的にならないんじゃないか、という懸念があたしにはあります。特に、馬の現場を眺めているとその懸念が強まってきます。ひとりの厩務員が担当の馬ととことんつきあっていい馬に仕上げてゆく、他の誰でもない、オレが手をかけてやらなければこいつは走らないんだということの強烈なプライドがかつての調教師以下の厩舎関係者にはあったわけですが、最近になるとそれはむしろ逆効果に働き始めているところがあるらしい。同じ馬を運動させるのでもマシンを使って機械的にケージを動かしてやるウォーキングマシンが普及すれば、どうやってもひとりの人間じゃ与えられない運動量を馬に課すことができるようになります。科学にさえも後ろ楯を与えたはずの職人像はその科学の合理性によってどうやら色あせてゆくものになっている。食べ物と味覚のようないちばんデリケートな領域に科学が入り込んでくるようになると、実演販売に宿る自由人的職人の輝かしさにも長年のカン以上のものが付与されかねません。そのことは文化としておそらく幸せなことではないように思います。