三人の具眼の士

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「さて、君もこれからどしどし論文を書かなきゃいけないんだけれども……」

 廊下の端っこの小さな研究室、講義のある日は真っ昼間からさしむかいの酒盛りが、いつしかお約束になっていました。

「学者の世界というのはほんとに狭い。自分の書いたものがどこの誰にどう読んでもらえているのか、その手応えすらよくわからないのが普通だ。だから、時にはむなしくなることもあるだろう」

 汚れたグラスに半分ほど残った泡盛を軽くなめて、その人はこう続けました。

「けれども、世の中には三人――必ず三人だけは君の書いたものをちゃんと読んでくれている具眼の士がいる。そのことを忘れるな。どんな小さなものでも、何かものを書く時はその三人に向かって本気で書く、その心がけを忘れないように」

 先生の名前は野口武徳。沖縄の池間島という小さな島の素敵な民俗誌を書いていました。よその大学からノコノコやってきたあたしのような外道を好き放題、ほったらかしにしてくれた。だから、「指導された」という記憶は正直、ほとんどありません。なのに、この時のこの言葉だけは今も耳の底に残っています。

「何もこれは僕が言ったんじゃない。実は僕もね、大学院を出る時、先生の岡正雄さんに言われたことなんだよ」

 酒焼けした顔で先生、照れくさそうににやり、と笑いました。今からもう二十年前、博士課程の面接が終わり、いよいよ世間並みの人生に戻れないことが確定した、ある冬の日のことでした。

 先生が亡くなったのはそれから二年ちょっとの後。外道で不肖のこの弟子はというと、大学からとっととケツめくった野放しの民俗学者として、今もそのまだ見ぬ三人に向けてものを書き、ささやかに世渡りさせてもらっています。

*1:朝日新聞、ということだけはメモに残っているけれども、さてどういう枠のコラムだか記事だったか、そのへんは記憶にない……