競馬場をつぶすほんとの理由

 佐藤隆騎手が亡くなりました。船橋所属、南関東屈指の、いや、立派に全国区で通用するベテランの名手でした。

 四月の末の浦和開催で競走中に落馬、開頭手術をしなければならないくらいのたいへんな重傷で、何とか一命はとりとめたと知らされてひとまず胸をなでおろしたものでしたが、その後聞こえてくるのはあまり芳しくない話ばかりで、正直、気にかかっていました。結果、三ヶ月あまり後の今回の訃報。

 どういうわけか、南関東でも浦和は事故が多く、それも結構大きな事故になることが少なくありません。以前にはやはり競走中の事故で、松井騎手が亡くなっています。馬場の形態や構造に問題が、という指摘は騎手や関係者からずっとされているはずですが、予算不足で手が回らないとか言っているうちに、こういう悲劇が起こってしまう。やりきれません。

 今をときめく地方現役最強馬(でしょう)アジュディミツオーの初期の主戦騎手。個人的には、ネームヴァリューとジーナフォンテンでの騎乗が印象に残っているのですが、腕っぷしの強さが売りで追わせる馬に乗った時に凄みが、というイメージだったはずなのに、あれ、大舞台で華々しかったのは牝馬の、それも軽快なタイプが。いかにもタフな筋肉質の体型と男っぽい風貌にだまされていたのかも知れません。改めて、ご冥福をお祈りします。


 全国主催者協議会が揺れているようです。

 D-netのソフトバンクへの売却をめぐって、元締め役の地全協に対してさすがに各主催者の間に不信感が生じ、その後の処理もからんで亀裂が生じていることは以前、この場でも触れましたが、もたもたしていると地方競馬全体が沈没しかねない情勢に、ようやくそれぞれの主催者が全て代表を出して同じテーブルで話し合うという、あたりまえの形になるよう決議されていたものが、どういうわけかその後また、水面下でひっくり返されたとか。どのへんのどういう思惑が働いているのか知りませんが、未だ知らしむべからず、寄らしむべし、の競馬エスタブリッシュメントたち、呪われてあれ、です。

 改めて、主催者が競馬場をつぶしたい理由、というのは何でしょう。

 売り上げが上がらなくなった、赤字だから、というのは一応ごもっとも。厳しい地方財政事情の中、利益を還元できなくなった事業は、何も競馬に限ったことではなく、見直しが求められるのはこのご時世、まあ、当たり前です。

 けれども、あの中津競馬以来、主催者側が競馬を廃止したい、やめたいと急ぐありさまを身近に眺めてきた経験からは、そういう一応のタテマエ、きれいごととはまた別に、これまでの競馬の経営、運営にまつわるうしろ暗い部分、表沙汰になっては困るあれこれをこの際一気に闇に葬ってしまおう、という思惑が見え隠れしていたのは否めません。

 岐阜県で、県庁の中に数億円の隠しガネがあったことが発覚、一部の始末に困って500万円ほどをなんと焼却処分にした、という報道まで出ていますが、この事件の中核に、競馬場の元職員がからんでいた、というので、報道関係も動いています。

 競馬と競馬場というのは、地方行政にとっては、マスコミや専門家、現場の眼からさえもほったらかしにしてもらえて、自分たちの都合のいいように操作できるセクションだったらしい。それほどまでに、競馬という事業は「おいしい」ものだった。どこからもノーマークで、自分たちのいいようにできる資金が手に入る。現場は賞金が高いならばそれ以上のことは求めないし、知ろうともしない。そういう「おいしい」時代の感覚のまま、適正な競争もないままに利権化してゆき、結局いま、どうにもならなくなっている。何より、競馬場の経営、競馬の運営について、本当のところを知っているのが信じられないくらい一部の人間で、しかもその中身が表に出されてさまざまな眼で審査されることもないまま、という状態があまりに多過ぎます。普通、地元の議会の中に競馬の専門委員会が設置され、そこで経営内容などが審議されることになっていますが、その委員会に競馬を知っている人がいない。もちろん、現場の声が反映される仕組みもまずないまま。それでいて、年に数回の委員会に黙って座っていればいい小遣いになった、とも。まあ、さすがに昨今ではそんなこともなくなってますが、その分余計に競馬議員になりたがる人がいない、という笑えぬ話も。

 これこれの赤字がある、売り上げが伸びない、という数字は出てきても、ならばこれまでどうだったのか、つぶれた競馬場でそのへんがはっきり検証された試しはありません。補償金もろくに払えないと言いながら、主催者の職員の退職金だの慰労金だのはちゃっかり確保してあったり。新聞やマスコミもそこまで競馬の運営について詳しい記者がいるわけもなし、結局のところごく一部の人間の思い通りにつぶされてゆく。これは何も地方のひとつの競馬場だけでもなく、もっと大きな、国レベルでの競馬行政を考えてもあてはまるのではないですか?

 目先の存廃も確かに問題ですし、それをゆるがせにするつもりはない。けれども、それと全く同等に、これまでの競馬というのがどれだけ本来の姿から遠い、いびつなもののまま推移してきたのか、もっとはっきり言えば、競馬をここまでどうにもならないようにしてしまったのは誰の責任なのか、ということもまた、はっきりさせる必要があります。そう、確かな理想、あるべき競馬についての確かなビジョンが必要なんです。競馬の今後のために。