広沢瓢右衛門。浪曲師。 悪声ゆえに我、長命す。


 声は悪かった。

 いや、声が悪いのは浪花節の常、別に発声の基礎を学校で折り目正しく習うような芸でもない。潮風に向かってまず声をつぶすのが入門当初の弟子のやることという時代。にしても、彼の声は悪かった。

 その悪声のおかげで、決して大看板の人気者にはなれなかった。その他おおぜい、その頃膨大にこの国の隅々まで歩き、唸り、そして死んでいった無名の浪曲師たちの本当に最大公約数のような才能ではあった。

 広沢瓢右衛門。本名、鹿谷美士五郎。明治三十年十月十七日、大阪の生まれ。家は「床貞」という床屋だったが、こちらが子沢山の貧乏世帯だったので、その女房の姉が嫁ぎ先で子供がなかったのを幸い、養子となってもらわれてゆき、それから小島という苗字を名乗った。

 尋常小学校を出る少し前、養父が死んだ。どちらにしても貧乏人の子供、奉公に出なければならない。生まれた実家の商売だったこともあって、床屋を望んだ。堺の親方のもとで修業をしたが、当時流行り始めた浪花節が小さな彼の心をとらえた。

 実の兄もたまたま浪曲師になっていたので手ほどきを受け、それからこっちは浪花節三昧。と言っても、習い覚えた床屋の小僧と半々の世渡り。食えない時は土地の床屋に転がり込んで使ってもらう。旅回りの浪曲師の暮らしはそんなものだった。それでも、盲目の浪曲師浪速家小虎丸にかわいがられて、大正十一年にはハワイにも興行に行ってからは、それなりの人気も獲得し、大阪で一家を構えるくらいにはなった。

 本は好きだった。声の悪い分、変わったネタで聞かせねば、と奇想天外、アチャラカなくすぐりを盛り込んだ外題をいくつも工夫した。弁も立った。とことんガラの悪い新興の芸能としてさげすまれていた浪花節の世界では、インテリの部類だった。

 昭和三年、若手のリーダー格になった彼は、梅中軒鶯童らと組んで、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった吉本興業に叛旗をひるがえした。しかし、結果は惨敗。またも旅回りに精出さねばならなかった。

 レコードとラジオの時代になっていた。レコードを吹き込まない浪曲師は人気を呼べない。瓢右衛門にも声がかかる。スタジオで自作の十八番『征韓論』を熱演。しかし、あまりの声の悪さに技師が仰天した。


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 戦後、映画館経営にも手を出した。ストリップもやった。相変わらずの侘び住まい。女房にも先立たれた。だが、八十歳を越えてから、突然人気に火がついた。浪花節の生き証人として紹介されたところ、そのアチャラカなネタが、戦後生まれの若者たちに大いに受けた。

 浪曲師、広沢瓢右衛門。遺言は「俺が死んだら焼いて粉にして屁で飛ばせ」だった。


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