和解成立に際して (記者会見リリース)

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 2020年6月29日付けで、札幌国際大学より「懲戒解雇」を申し渡されました件について、本年2023年2月16日に札幌地方裁判所で出された一審判決を不服として大学側が提訴していた控訴審ですが、本日、大学側との和解が成立しました。

 和解内容、および和解に至る過程については口外しないこと、という項目が和解条項に含まれており、詳細はお話しできませんが、自分としては満足とまでは言い難いものの、地方裁判所での一審の判決内容や、控訴審となった高等裁判所でのこれまでの審理の経緯、さらに、すでに3年6ヶ月という長い時間をかけての係争になっていること、また、どちらにしても来年3月末で正規の定年期日を迎えることになるという事情などを踏まえれば、現時点ではそれなりに納得のできる内容だと判断し、和解に同意したと思っていただいて構いません。

 あのいきなりの「懲戒解雇」以来、すでに3年6ヶ月もの時間がたち、当時大学に在籍していた学生たちのほとんどは卒業していなくなり、また、教職員も多くが入れ替わっていて、あの頃、学内で何が起こっていたかを知る者ももう少なくなっています。さらに、当時自分が在籍していた学科さえもその後いきなり廃止され、現在はその清算の最後の段階にあるようです。それでも、当時、学長としてこの留学生入試をめぐる問題に全力であたられていた城後豊さんの名誉の実質的な回復という意味でも、この和解は意義があると思いますし、また、自分ごととしても、これで長い間大学の研究室等に置かれたままだった本や資料などをようやく手に取ることができ、大学教員としての自分のささやかな経歴の最後の後始末のための3ヶ月という時間ができたことについて、ひとまず喜んでおくことにします。

 これまで代理人として弁護していただいた房川・平尾法律事務所の房川樹芳弁護士、平尾功二弁護士、また、陰に陽にご支援いただいた北海道私大教連や北海道大学教組、京滋私大教連他、全国の大学教職員組合の方々、さらに、直接間接問わず、さまざまな機会に激励していただいた教え子たちや、未だお眼にかかったことのない方も含めた全国の多くの方々に、この場をお借りして深くお礼を申上げます。本当にありがとうございました。*2

「詩」とは、あたりまえに「うた」であった



 前回、「美術」「芸術」に対して、ずっと抱いていた敷居の高さのようなものについて、少し触れました。せっかくなので、そのへんからもう少し、身近な問いをほどきながら続けてみます。

 あらためて思い返してみれば、同じような敷居の高さ、距離感といったものは、そもそも「文学」に対してもありました。

 なに言うとる、おまえ、かつて大学へ行こうと思った時に文学部志望しとったやろ、というツッコミが自分自身に即座に入るようなものですが、でもそれは、当時のケツの青い地方のボンクラ高校生だった自分にとって、正直まだ正体もよくわからない「大学」という場所に行こうと思った際、選ばねばならなくなった志望先として目の前に並んでいた法学部だの経済学部だのといった、なにをどう勉強するところかもよくわかっていなかった大文字の看板掲げていたその他の学部よりは、まだかろうじて居場所がありそうな気がしたのがそこだった、というだけの話。

 同じく、その「文学」という看板そのものに何か仰角の視線を抱けていたわけでもありません。そもそも部活動からして、文芸部だの美術部だの文科系のそれとは、そこに素直に身を置いている、置けてなじめているような人たちへの疎外感含みの距離感と共に、しょせん縁なき衆生でしかなかった。要するに、単に気の向くまま、興味関心の趣くまま勝手に本を読み、その中にはいわゆる小説その他、文芸作品も混じってはいたけれども、だからといってそれをそのまま「大学」に掲げられていたような「文学」という大文字のもの言いと重ねて考えていたわけでもなく、ましてそれを自分の進路や将来と結びつけて想像するような大それた下地は、自分の中にはほとんど持ち合わせがなかったということになります。

 それとどこか似ているのかな、と思うのは、「うた」が広い意味での詩歌――この語彙自体、学校で教えられて初めて知ったものでしたが――であることは漠然と教えられていても、学校のたてつけで習う短歌や俳句なども同じ「うた」であることは自分事として考えられなかったこと。「音楽」の時間の唱歌や合唱、その延長線上にあると思ったそれこそ流行歌や歌謡曲、アニメ(当時は「テレビ漫画」)の主題歌などまでが普段接してそのように認識している「うた」であり、それは自分自身が実際に声を出すことも含めて想定され得るようなものでしたが、でも、だからといって「国語」の時間に教えられ紹介される短歌や俳句、漢詩といった表現を自分が発声することは想定外、授業の枠内で促されたとしても、それは教科書に書かれた文字をそのように「よむ」ことの一環であって、「うたう」ではありませんでした。

 一方で、それら詩歌は「文学」という箱に収納されるもの、ということも教えられて知ってはいた。だから、文学史の間尺で短歌や俳句の定型詩も、教科書に載っていてそういうのが「詩」だと普通に思っていた口語自由詩も、「文学」という箱を置いてみればみんな同じく詩歌である、と機械的に覚えてはいました。けれども、それを本当に地続きのものとして、わが身の表現として考える素地は宿っていなかった。それはたとえば、いわゆる芝居や踊りといった領分、ダンスであれバレーであれ、あるいは舞踊や舞踏の類であれ、基本的に同じことで、これはおそらく自分ひとりのことでもなく、つまりどうやら「うた」に限らず広い意味での身体表現、われとわが身を使って何ごとかを表現することについてはいつしか他人ごとになっていたのが、なぜか本邦、われら同胞の習い性だったということのようではあります。

 そう言えば、舞踊やダンスなどでそれなりの仕事をなし、名を残すくらいの人がたには、北の出身が多いような印象があります。いや、印象だけでもないらしい証拠に、そのような言い方は当の舞踊やダンス方面の当事者たちの間でも言われている。多くは、それら北方の方言の縛りがことばでしゃべり、表現することへの障害になり、その分、うまく言い表せないものを「踊る」という身体表現へと転化していったからだ、といった一見わかりやすい説明つきなのですが、その説明がどこまで妥当かどうかはともかく、その意味では詩もまた、それら訥弁の、ことばによる表現に何らかの理由で疎外感を持ってしまっているような人がたの間から、手近に可能な自己表現の形式のひとつとして拾い上げられてきたところがあるのかもしれない。だとしたら、声に出し生身を介して実際に「うたう」ことも含めて、詩もまたあったはずですし、実際、かつてある時期までの詩人たちは、自らそれを発声して朗読することをあたりまえに行なっていたようです。それこそ、以前何度かこの場でも触れたような、小説が朗読されるものだったのと同じように。

 短歌などの伝統的な定型詩の縛りがほどけてゆく過程で、新体詩を経由して口語詩や自由詩の流れも出てきて……といった説明が、教科書的な文学史ではされています。なるほど、だとしたら、そのような過程の背後には、それらの流れに従って解放されていった意識や感覚もまた、ある時期ある時代からこっちの本邦常民間での眼に見えない変化としてあったはず。それはまた、同じ生身を足場にした解放という意味では、視覚や聴覚、その他生身の五感の統合された身体まるごとのありようにも何らかの痕跡が記されていったと考えて不思議ない。それらの視点こそが「うた」の転変と抜き差しならず関わってくる、言葉本来の意味での等身大の歴史に相渉る大事な脊髄になってゆくはずです。

 時期にしてざっくり大正半ばから末にかけて、大きくは第一次大戦後の「戦間期」と呼ばれる時代。経済的には大戦を契機に成金を続出させたほどの急激な成長を示して、でもその後また一気に凋落していった波乗りのような時期。その中を生きていた人々の生身の解放が期せずしてさまざまな分野、複数の領域で同時多発的に起こっていた形跡は、ひとまず「文学」という箱に一緒くたに放り込まれている表現にまつわるさまざまな分野の経緯来歴をざっと眺めてみただけでも、あれこれ察知できます。

「わたしはこれまで、はじめて会った人から、御商売は? ときかれると、文学をやってますといつも答えてきた。詩を書いてますなどというと、え? とけげんな顔をする人も、文学というと、なんとなくなっとくできるらしい。」

 小野十三郎、アルスの「大杉栄全集」を買ってほしいと、大阪の素町人の庶民の出でいたって温厚だったという父に無心したら、「わたしが生れてはじめてきいた怒り心頭に発する声」で「このバカめ!」と一喝されたのをきっかけに故郷をあとに上京したという、のちに新しい世代の「詩人」のひとりに数えられるようになる御仁の述懐。 

 「やる」ものとしての「文学」。それも「詩」だと怪訝な顔をされるから代わりの方便として使える程度に、「商売」としても漠然と世間的な了解を一応はしてもらえるようになっている、そんな便利な乱れ箱として活用されるようになった「文学」。それは、理由や動機、そこへ向かうモティベーションは個々にさまざまであったにせよ、それまでよりずっと多くの、そしてずっと幅のある広汎な階層から何らかの自己表現、創作と呼ばれるような出力へと向かうようになっていたことのひとつの反映でもあるでしょう。 

 ならば、そのような御仁にとっての「詩」とは、どのように自覚されるものだったのか。

「詩とは、ムホン気と想像力が、現実生活のある時間の中で、自分を捲き込んで決定的な行動を起こしたなら、一度の爆発ですべてのエネルギーをあとかたもなく消尽してしまうものを、あまり純粋とは云えないなんらかの要素で緩和させ、それを持久的一つの心的秩序に組み代えさせる力のようなものなのかもしれない。」(小野十三郎『奇妙な本棚――詩についての自伝的考察』第一書店、1964年)

 確かに、作品・創作物としての詩は、文字に記され、活字になって紙媒体に印刷されたものとして制御され、流通するものではある。しかし、だとしても、表現としての初発のありかたとして本来含まれているはずの「うた」の現われは、最もプリミティヴで民俗的な水準も含めた生身の身体表現という特質をあっさり手放すものでもない。「ムホン気と想像力」が、主体としての自らもろとも「行動」と「爆発」を起こすこと。その意味でそれは芝居や舞踊、ダンスなどと地続きのものであり、劇場や舞台といった上演の枠組み、物理的・空間的な制限の約束ごとの内側においてだけでなく、何かのはずみに突発的にうっかり発現してしまう野生の上演、いまどきのもの言いに従うならパフォーマティヴな表現を本質としている。だからこそ個人でなく集団のものとしても平然と成り立つし、時にはそれこそ騒擾や暴動などといったありかたなどにまで間違いなく連なっている何ものかをはらむ可能性を持っている――あの「文学」という乱れ箱に突っ込まれているさまざまな表現の出自も、たとえばこのようにあちこち立ち寄りながらたどっていって初めて、「うた」の原初の輪郭もようやくおぼろげながらに見えてくるもののように思えます。

 これらは、「文学」や「芸術」「美術」などの歴史について教科書的な間尺で語る作法においてなら、大正デモクラシーリベラリズムの機運を背景に勃興した白樺派的な芸術至上主義を経由して、経済的な豊かさにも後押しされて、フランスなど主としてヨーロッパの海外のさまざまな同時代的な芸術・文化運動が一気に入ってくるようになり、生硬で性急な翻訳調ではあれ、それらの潮流を素直に受け入れることのできる新しい若い世代が台頭することで、ダダイズムだのシュールレアリズムだの何だのといった目新しい意匠と共に、創作・表現のそれぞれの分野において活発な試みが広汎に繰り返されてゆくようになった――まあ、ざっとそのような大文字の歴史の書き割りの一端、単なる一挿話として回収されてしまうようなものでしょう。もちろん、それは間違いではない、だろう。けれども、そのような手癖で処理されることで取り落とされてしまうものも必ずある。あるに決まってるし、なきゃ困る。

 「うた」の初発のありかは、それら大文字の歴史のためにしつらえられた「文学」や「芸術」「美術」などの乱れ箱を取り払ったところに息をひそめ、今もまだ確実にうずくまっています。

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 そんな「うた」に結晶してゆくかもしれないあるひとつの場、そこに宿る何ものかを及ばずながら少しずつでも言葉にし、かたちにしてゆこうとする道行きで、酒の場というのも必ず欠かせないものになってくる。酒を呑み、いい気持ちに酔いがまわる、すると必ずと言っていいほど「おうたのひとつ」も出てくる、自ら出てこなければ促されてでもそうなるのがあたりまえ、うまいかヘタかなど関係なく、いったん酒を口にしたら最後、そのように「うた」が伴ってくるのはある時期までは疑うまでもない、本邦日常の風景でもありました。

 その酒を呑むのも多くはひとりではない、何人か複数の人間が集まる「関係」と「場」において呑む、その果てに必ず「うた」が伴ってくる。わざわざ芸者を侍らすことのできるような正式の、型通りな宴席でなくても、その場の口三味線なり手拍子なりで「うた」を導き出すしかけはいくらでもあるものでした。それらは後にあの流しのギターやアコーディオンなどから、敢えて雑に言っていいならカラオケ機器の登場以降もしばらくはまだ、本邦日常の習い性的に「残存」していた。そのように、「うた」は酒の場のもたらす興奮と不可分のものでもありました。あるいは、かつて観光バスのバスガイドに求められていた技倆のひとつが、それら「うた」に長けていることであったことなどを思い起こしてもいい。何らかの集団、ある程度の人数の集まった「場」において、その場の心持ちをある方向に誘導し、まとめてゆくための効率的な道具として「うた」は自在に、便利に使いまわされるもので、単なる歌唱というだけでなく、それによって醸成される気分や感覚、生身の高揚感なども含めて、正しく暮らしの裡にありました。

 特に、高らかに「うたう」――「高歌放吟」、あるいは「放歌高吟」とも言うようですが、それはどちらでもいい、いずれそのような大声でなにごとかを「うたう」行為、それはひとりであっても構わないものの、しかし基本的に想定されていたのは複数の人間が群れて何らかの興奮状態、日常ならざる心的条件下にあることでした。

 何らかの興奮状態の果てに現前化してくる、この高歌放吟という身ぶり。往々にして酒による酩酊状態と共にあらわれるそれが、個人的なものでなくある程度の集団、生身の身体が複数たむろし、何らかの「関係」と「場」が成立しているところで成り立つのならばなおのこと、さらに「騒ぐ」「暴れる」といった動詞でくくられるような現前にもまた、地続きのものではありました。

 むしろ、「騒ぐ」さらには「暴れる」まで可能性として視野に入れた上での行為が「酒を呑む」だった。これも、すでに忘れられかけているわれら同胞の日常の記憶でしょう。そのような場に確実に伴っていた「うた」は、ひとり歌うものでもなく、複数の人間が声をあわせて同調して歌う、あるいは怒鳴る、叫ぶ、といった破調のものにもなる。「灰皿やビール壜がとび、椅子が投げられ、物が破壊される音、乱闘する人間の怒号の満ちる渦の中」という、まさに落花狼藉、どうにも荒れた場で、それでも「酔いがまわると、あたりかまわず、ふいに音頭とりとなって歌い出す岡本のジンジロゲ節や、飄々とした辻潤が奏でる尺八の音はいまでもわたしの耳の底に残っている」というのは、先の小野十三郎が記述した、文学史・思想史的な脈絡で今では無駄に有名になってしまったフシもある南天堂での乱痴気騒ぎのひとコマですが、酔いにまかせた乱闘沙汰の描写に、ぬかりなく「うた」の要素が差し挟まれていることに意識して立ち止まっておきましょう。つまり、酒の酔いだけでなく「うた」の要素も介在して初めて、このような「場」が十全に立ち上がっていたらしいという意味において。*1


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 そして、そのような「うた」の場とは、喧嘩の場でもありました。

「わたしたちは金もないのに、夕方になるとよくそこへ出かけていった。そして酒を飲んではよく喧嘩をした。別にこれといって喧嘩をせねばならぬ理由があったわけでもないのに、何かちょっとしたきっかけで喧嘩になったのである。つまりいい気持で酒を飲むというのでなく、爆弾でも腹の中に隠しているような険しい顔つきで、ガブガブと飲んだのだ。」(壺井繁治『激流の魚・壺井繁治自伝』)

 彼ら大正期後半を生きていた「詩」と「詩人」の同時代の空間での動き方、つきあい方をそのような視点と解像度とであらためて眺めてゆくと、それら生身の解放、何らかの自己表現に直接的な身体行動をとにかく伴わせることへ向かう衝動が、当時の若い世代に集中的に見てとれるようになっていたらしいことに気づかされます。そしてそれはもちろん、当時のいわゆる政治的な運動、思想的な行動などにも通じていたものであることは言うまでもない。詩でも小説でも、「文学」というくくられ方をしていた表現の形式はそれ自体でそれぞれ完結していたわけでもなく、同じく「芸術」や「美術」といったくくられ方をしていた中の絵画や彫刻、建築、さらには音楽や演劇、舞踊といった領域ともあたりまえのように重なりあいながら、何らかの自己表現を求めるようになっていた、それを望むことが可能になっていた層にとっての福音として受け取られるようになってゆきました。それは今日、学校的な枠組みの「文学」や「芸術」「美術」などのたてつけに縛られがちなわれわれが想像してみる以上の鮮烈さで、わが手に取れると思える手段になり始めていたらしい。

 「詩」にも「詩人」にも、そしてもちろん「文学」にも、どうにもなじめぬものを感じたまま遠巻きにして生きてきた自分のような縁無き衆生の外道にも、「うた」を足場におぼつかぬ道行きを続けてきたことで、どうやらそれらすでに記述されている歴史の向こう側に未だひそんでいる何ものかののっぴきならぬ気配を、少し自分事として感じられるようになっている気がします。

 ああ、そうだ、吉本隆明谷川雁も「詩人」、だったんですよ、ねぇ。

池田大作 (本当に)死す

 池田大作氏が、本当に亡くなったようです。

 自分などはやはり、かつて「折伏」を介してさまざまに物議を醸しながら精力的に布教活動をしていた頃の創価学会の印象が、当時のさまざまな事件や挿話などと共に、未だに強くあります。その後、公明党を介して政界にも進出、前世紀末からは連立与党の一角に席を占め続け、獲得議席や見てくれの党勢など以上に、本邦のさまざまな領域に影響力を及ぼすようになっているらしいその「組織」の現在も含めて、いま、このタイミングでようやく明らかにされた「逝去」の、戦後史的な射程での意味を考えてしまいます。

 思えば、創価学会というのは敗戦後、「神々のラッシュアワー」などと呼ばれ、あちこちから新しい宗教が生まれていた頃、すでに戦前からの歴史もあったとは言え、そんな時代の空気をめいっぱいにはらんで急成長していった組織でした。池田氏が会長に就任したのがまさに1960年。公明党の結党が1964年。戦後復興から高度経済成長期にかけて、社会自体が疾風怒濤の変貌をとげてゆく時期に、わが同胞のうちの、それら「豊かさ」の恩恵をうまく受けられず、「一億総中流」意識を持ち始めた時代に要領良く乗れなかったその他おおぜいの不安や悩み、苦しみといった、いわゆる「貧・病・争」の受け皿として機能したという意味では、なるほど共産党と同じく、「戦後」パラダイムにおいて「民主主義の落ち穂拾い」をやりつつ、その勢力を拡大してきた組織だったと言えます。

 「豊かさ」が、それまでとは異なる大衆社会化の様相を呈し始めた、まさにその時代に創価学会も、そして共産党も、その激変を日々生きる人々の民心を獲得してゆくことに共にしのぎを削ってきました。「宗教」は「政治」の問題になり、かつまた、大衆社会下の民主主義政体として避けられない「民心を掌握する」手練手管のプラットフォームとしての本質を露わにしてゆく中、共にそのように人心を掴み、それを土台につくりあげた「組織」を武器に政治的な勢力を伸ばしてきました。

 「組織」を強固に固め、ある目的のために一糸乱れず動くようにする手立てというのは、人間のやることである以上、古今東西そう変わるものでもないらしい。一心同体、一味同心の一枚岩であるかのように動ける「組織」というのは、たとえば軍隊などはそのわかりやすい例でしょうが、いずれ外からは「洗脳」だの「カルト」だのと言われるような状態にまで時に尖鋭化することまでも含めて、「宗教」も「政治」も、人の心をがっちり掴み、それを具体的な「組織」へ可視化して現実の「力」へと変換してゆくまでが一連の必須過程という意味においては、基本的に同じ本質を持っている。

 けれども、今ではもうその「組織」自体が高齢化し、これまでのような形のままでの維持が難しくなっているらしい。いや、それ以上に、それら「組織」を基盤に何ごとかの力を行使するやり方自体の“効き”からして、昨今の本邦社会ではどうやらあやしくなってきている。共産党が「革命」を表立って言えなくなったのと同じように、公明党もまた「世直し」をおおっぴらに標榜できなくなって久しいわけで、「オルグ」も「折伏」もかつてのように威勢良く高圧的にやれなくなった。それら大文字の目的、あるべき大きな「理想」に向って「組織」を動かすという手法そのものが、少なくともある時期までのように自明の正解でもなくなりつつあるのは、日常の生活感覚としても肌で感じます。

 いずれにせよ、そのように「宗教」も「政治」も、それらの背景にある社会のありようとの関係で、またこれまでと違う様相を呈してゆき始めるのだとしたら、創価学会に関してすでに半ば忘れられた「歴史」の一挿話のような扱いになっている「言論出版妨害事件」と呼ばれる一連の経緯にしても、「反共」をテコに共産党が激しく対立姿勢を示したことで問題が「政治」の局面に引きずり込まれるようになったいきさつなどを、統一協会の問題がいまさらながらにうっかり政局化してしまった〈いま・ここ〉の状況と引き比べながら、改めて振り返ってみて考えてみるだけの値打ちのある、いい距離感のお題になっているように思います。

「美術」「芸術」から「コンテンツ」へ至る道行き



 期せずして無職隠居渡世に突然なってしまったことで、それまで気になっていてもなかなかあらたまって読むこともできなかったような分野の本――もちろん古書雑書ですが、これもまあ、ある種の怪我の功名というのか、日々の仕事にまぎれて敷居の高かったそれらの本たちも、それなりにまとめて読むことができるようになりました。

 それから4年近く、そのような閑居無沙汰まかせの読書遍歴に、いわゆる「美術」「芸術」系のものが入ってきたのも、かつてどうにも億劫だったそれらの世間に、ようやく臆せず韜晦せず素直に向かい合えるようになってきたのかな、と思ったり。というのも、その「美術」「芸術」といった方面についての言説に正面切ってつきあってみることが、これまではいつもどこかよそごとになっていた、いや、させられていたと言うべきなのか、何にせよ敬して遠ざけるものになっていたのですから。

 逃げも隠れもしない、偏差値教育全盛時代の天下御免、私大文系三教科純粋培養の身の上、本来ならそういう「美術」「芸術」方面にもそれなりのオーソドックスな知識なり見識なりを、たとえ嘘でも持ち合わせていなければ普通は恰好もつかなかったはず。なのに、いま振り返って考えてみても、素朴に苦手という以上に、どうにも気後れする感じがいつもありました。

 いまやもう半世紀近く前のことになってしまうのだから、立派に往時茫々の類でしょうが、これはかつて大学に入る際、文学部を志望しながら、結局そこには受からず、半ば親の手前、半ば世渡り方便に阿って受けるだけ受けてみていた法学部なんて場所にうっかり紛れこんでしまったことも、どこかで影響しているのかも。いや、考えてみれば何も「美術」や「芸術」だけではない、そもそも志望していたはずの文学部のその「文学」なんてのにも、似たような気後れ感、うしろめたさみたいなものはずっと持っていたような。いやあ、「文学」だの「芸術」だの、そんなのとてもじゃないがこっぱずかしくて、といった、ありがちな若気の至りの自意識過剰と裏返しの衒いゆえ、はもちろんですが、ただ、もはや立派な老害になりつつあるいま、あらためて振り返ってみると、どうもそれだけでもなかったような気もする。

 とは言え、間違って紛れ込んだその「法学部」での勉強について、当時、正面から真面目に取り組んだのかというと、すまぬ、全くそんなことはない。法律関係に拘わらず、経済であれ何であれ、時間割にずらりと詰め込まれていたあれこれの社会科学一般の科目に対しても、「美術」「芸術」「文学」とはまた違う意味でのアウェイ感、「ああ、これは自分なんかには、全くお呼びじゃない世界だな」という決定的な疎外感を、コントラストの強いモノクロ写真のような明確さ、抗いようのない鮮明さで、くっきりと抱かされるようなものでした。それならばいっそ全く縁のない自然科学系の教養科目の方が、初手から「お客さん」でいられた分、素直につきあえて、科学史だの工業技術史などは、当時の新書やブルーバックスの類もそれなりに手にとって読んでいたのだから、このへん自分ごとながらわけがわからない。

 何がいけなかったのか。そう、大学で指定される教科書や入門書の類の文章、あの文体含めたよそよそしさが、まずダメだった。社会評論社有斐閣といった版元の、それぞれ持っていた特有のスタイル、その頃はまだ多くは函入り、でなくともグラシン紙のかかったようなハードカバー、多少くだけたソフトカバー版であっても見るからに大学の教科書なりの行儀良さがありありで、いかにも社会「科学」でござい、という恰好のつけ方に見えました。大学のまわりにある、それら教科書や入門書を主に並べているような書店の棚に、そういう本たちがずらり一個連隊単位で整列しているのを見るとさらにげんなり。それまで好き放題、何の目算も特にないまま気の向くままに手にとってきた活字とのつきあい方からすれば、まずほとんど接したことのない、まるで知らない世間のなじみのない顔また顔、といった感じで、まずそこから拒否感が先に立ってしまったようです。それは、きっちり身体にあった背広をスーツで着こなす正しい会社員、本当の意味での「オトナの勤め人」の様子とも重なって見え、そのイメージはさらに、数年後にはそういう世間に身を置くのであろうおのが行く先に疑いを持っていない風であるばかりか、そのことに頬をてらてらと輝かせてさえいるかのような、まわりのその頃の法学部学生たち(ほとんどがオトコで浪人あがりの年上でした)の屈託なさげな様子に引き写されて、さらに心の距離が遠ざかる――まあ、何のことない、要は山出しの田舎者、おのぼりさんの、初めて見る広い世間にびっくり仰天、というだけのことだったんでしょうが、でも、だからこそ、です。

 好きに本を選び、読み、そしてまた次の興味関心に誘われるままに別の本へと移ってゆく。その道行きの中で、自分のやくたいもない考えや了見が日々移り変わりながら、それでもそれなりに何か輪郭めいたものを獲得してゆく――当時の大学、殊に私立文科系で与えられていた教育の多くは、決められたカリキュラムや教育課程が想定しているような内実とはものの見事に関係なく、それぞれが好き勝手に半径身の裡で、時にサークルやその部室、あるいはたまり場の喫茶店や呑み屋、スナックなども介して無手勝流にできあがってゆく「関係」と、その上に宿る「場」の相関において、それこそ星雲状の人文的混沌といった状態の裡から、そのように個別に具体的に生まれ出るものなら生まれ出ていたようなものでした。もちろん、それらはほとんどの場合、確かな何ものも生まず、世間の眼に立つ成果として示されることもなく、ただその中で過ごした日々と時間とがそれぞれの身の裡に、その後の世渡り上の役に立つこともまずない雑多な知識の集積を膨大なヴァリエーションとして残して行っただけのことだったのかもしれませんが、それでも、それこそがある時期「もうひとつの教養」として働いてもいた、だからこその「豊かさ」の意味づけというのもあったのだろう、と、これは割と本気で思っています。たとえ、少なくともある時期までは、と留保つきにせねばならなくなりつつある現在においても、なお。

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 「うた」もまた、時と場合によっては、そのような「美術」「芸術」由来と言ってもいい、何らかの知的な語彙やたてつけと共に語られるものでもありました。

 創作物として、つまり「作品」としてブツにされたものを対象としてまず考えるのが、ある時期までのそれら知的な営みの通例だったようです。なので、音楽ならばまずは楽譜として、作者個人と紐付けられて残される「作品」として、その他絵画なら絵画、彫刻なら彫刻、小説なら小説、何でもいいですが、いずれそれら「創作」は何らかのアウトプットを具体的なブツとしてかたちにするもので、それぞれ「作者」と基本的に一対一で紐付けて考えられるようなもの、でもありました。独自の個性を持っていると認められるひとつの存在、それが持続的に時間を越えて確かにある、それこそ近代的な「個人」の実存と鏡映しに想定されるものが「芸術」「美術」として認められる何ものか――概ね「美」であったり、そのような抽象的で超越的な価値として意味づけられるもので、それこそが創作物として対象化される条件になっていました。

「文化的業績を正しく判定する唯一の標識は、いうまでもなく、それらがどの程度永続性をもっているかであり、更にはそれらの究極的な不滅性ということでさえある。ここで問題なのは、過去の不滅の業績が「上品さ」を示す対象となり、それに伴う地位を確保するや否や、そうした業績は、何世紀にもわたって読者や観衆をとらえ、また彼らを動かすべき筈のその最も重要で基本的な性質を失ってしまったということである。(H.アーレント「社会と文化」、N.ジェイコブス・編『千万人の文化』日本放送出版協会、1961年)

 翻訳文ならではの屈託をほどきながら解釈すると、これは「美」なり「上品さ」なり、何らかの抽象的・超越的・普遍的価値があると認められる創作物が、その価値が認められ、その結果持続性を獲得してゆくことで、その初発の地点、つまりそれが創られ、同時代の人々の眼や耳を介して生身の五感の裡に立ち上がらせたであろう〈いま・ここ〉の値打ちは失われてしまう、といったことでしょう。複製技術時代の芸術、というのは、言うまでもない、あのベンヤミンの金看板ですが、あれもまた、19世紀末から20世紀初頭あたりに急激に進行した大衆社会化に伴い可視化されてきた大衆文化のありようが、それまで語られてきたような意味での「芸術」「美術」とはどうやら異なるものになりつつあるらしいことを、当時の新しい表現媒体だった映画を足場に考察していったもの、ではありました。このあたり、近代がまたひとつ別の位相に踏み込んでゆく過程であらわになってきた大衆社会状況が、その裡に宿る創作のありようも変えてゆきつつある――そのような〈いま・ここ〉に根ざした問題意識の産物だったことは、いまどきの「芸術」「美術」系の概論書や入門書でも、まあ、普通に説かれるようになっていることではあります。

 「われわれの関心は社会ではなく文化であり――あるいはむしろ「社会」と大衆社会という異なった条件のもとにおいて文化に何が起こるかということである。」

 ここで「社会」とカッコつきで訳されているのは、大衆社会以前の社会、労働からある程度解放され「余暇」を獲得するように先行的になった特権的な「市民」によって形成されるsociety――「よき社会」「教養ある社会」といった文脈によっているゆえ、らしいのですが……

  「「社会」においては、文化は他の現実より以上に、初めて当時「価値」と呼ばれ始めたもの、即ち、社会的身分を獲得するための社会的貨幣として流通され、利用され得る社会財となった。(…)従って、文化的価値は価値がこれまでも常にそうだったようなもの、つまり交換価値になった。それらは凡ての文化的存在に本来固有であるところの能力、つまりわれわれの注意をとらえ、われわれを突き動かすという能力を失った。(…)「社会」は文化を求め、文化的存在を評価して社会的財価にしてしまい、それらをそれ自身の利己的な目的に使用したり乱用したりしたが、文化的存在を「消費」はしなかった。最もひどくすり切れた場合でさえも、これら文化的存在は、物としてとどまり、「消費され」たり、呑み込まれたりすることはなく、その社会的な客観性は保持していた。」

 それとは対照的に、大衆社会においては「求めるものは文化ではなくて娯楽であり、娯楽産業によって提供される製品は、他の凡ての消費物資と同じように、まさに社会によって消費され(…)社会の生命過程に奉仕する。」 「芸術」「美術」と「娯楽」の間の不連続に合焦することで、彼我の社会のあり方の違いを逆照射しようとする力わざ。その後おおよそ60年、ベンヤミンの金看板からは100年以上たった今日、しかし、そこでグリップしようとされていた大衆社会状況下での「美術」や「芸術」、「創作」のありようは、さらにまた一段と別の位相へと、そのあり方を変えてゆきつつあるらしい。

 それらは昨今ひとしなみに「コンテンツ」というカタカナのもの言いでひっくくられてしまうことが多くなっているようです。音楽も、彫刻も、小説も、マンガも、とにかく何でも「コンテンツ」。辞書的な意味あい通りに解釈すれば「中身」「内容」といった感じになるんでしょうが、ただ、そのもの言いが昨今やたらと使い回されるようになっているのにはまた別の、本邦いまどきの情報環境ならではの理由や事情というのもあるような。

 具体的なブツとして何であれ、全ては「コンテンツ」として理解され得る、という認識。その内実とはどういうものか、というと、これもなかなか説明しにくいわけですが、だからこそまたそれを「世界観」などとひとくくりに言い換えたりする。「作品」の「世界観」が内実であり、それを盛りつける「コンテンツ」といったつながり方。これも言葉本来の「世界観」の意味あいよりもずっと融通無碍で漠然としたくくりになっています。本来ならばその「作品」の「作者」の表現した作品世界その他含めた「世界観」といった意味のはずで、だからそれは「個」としての「作者」に紐付けられて考えられるはずのものでもあったのでしょうが、しかしいまどきの使い回され方としては、その「世界観」もまた「作者」と個別に対応しない、より漠然とした、輪郭のぼやけた抽象的なものといった意味あいが強くなっている。そのような意味で「コンテンツ」のとりとめなさとも、基本的に同じようなものに思えます。

 創作物としての「作品」と、具体的に手を動かし、時間をかけ、それなりの技術や知恵、アイデアなども介しつつ具体的なブツとしてそれを仕上げてゆく「個」ないしはそれらの集合体としての「作者」との関係は、それがどのようなジャンルの創作であれ、基本的に最前提に置かれるものであり、また「そういうもの」としてあり続けてきました。作品の内容、表現されている意味や思想、それらもまた作者との関係で、そして作者が生きている状況や社会環境などとの関数も含めて「解釈」され、そのような過程がさまざまに輻輳しつつ積み重ねられながら、その上に「美」だの何だのといった普遍、本質の類もまた構想されてゆくようなものではありました。「芸術」なり「アート」なり、いや、そのようなもの言いを弄されることのない分野の何でもない使い捨て、気ままに楽しまれ、娯楽商品として消費されるだけの無名のブツに対してさえも、地続きの「美」を発見してゆくようなことも、人間はうっかりやらかしてもしまうわけで、いずれ人の営み、この世の所業のひとつとしてそれら創作というのは、その配置された場所がどのようなものであれ、その置かれた場所で何らかの意味を常に放散し続けるようなものでもありました。

 文学には文学の、詩には詩の、演劇には演劇の、それぞれの領分、ジャンルに応じた「解釈」の筋道があり、それらの果てにまずはそれぞれの「美」なり普遍的価値なりも構想されてきていて、でも、それらは互いにいきなり結びつくことがいきなり考えられるようなものではなかった。それぞれの領分に応じた世間があり、その文脈に応じた価値なり評価なりがあり、それらは言葉によって媒介され、その限りでは広い社会一般に共有されるものになってはいましたが、でもだからと言って、それをさらに普遍的で抽象的な何らかの価値にまで蒸留してゆくような営みはまたごく一部の、限られた別の世間においてのみ実践されるようなものでした。「美術」「芸術」といった領域の、知的な語彙とたてつけによる解釈や意味づけの言説群も、そのような全体、〈まるごと〉の現実の裡に宙吊りになっているもので、それだけが「創作」という対象に特権的に対峙するものだったわけでもない。人間と社会、そして文化といったたてつけでものを見、考えようとする本来の「教養」の文脈においては、それもまたひとつの枠組み、同じ対象を異なる道具だてで眺め、解釈してみようという営みの一部に過ぎなかったはずです。

 それぞれの領分、ジャンルに従い、「市場」がそれぞれに成り立っていて、それらをいきなり全部束ねてしまうような一般的で大きな市場がいきなり成り立つことはそう簡単にはあり得なかった。けれども、昨今のデジタル環境の浸透と整備によって、それが知らぬ間にうっかり可能になってきているらしい。だからこそ、あらゆる創作物はそのもともとの出自や来歴、文脈や背景の類をすっ飛ばして「コンテンツ」という普遍にいきなり乱暴に、おおざっぱに変換されてしまう、それが最も「合理的」で「生産的」だから、といった説明ごかしな事態の大転換が近年、粛々と進行しているように、自分などの「おりた」立ち位置からは見えています。もちろん、そのことの是非は、また別の〈いま・ここ〉の問いになります。

「音楽」の転生・転変、その現在―「NOT OK」からの不思議


 同時代のうた、眼前の〈いま・ここ〉に流れている最新の、いや、そうでなくても、ある程度いま、商業音楽として市場に流通しているいまどき流行りの楽曲に、おのれの耳もココロも反応しにくくなってしまうことは、加齢の必然と半ばあきらめてしまっていました。けれども、そのあきらめたところからこそ、あらたに〈いま・ここ〉の楽曲から引き出される、また別の何ものかがあるのかもしれない。

 いきなり何のことやら、と言うなかれ。いまどきのこのような情報環境においてもなお、何かのはずみでうっかり耳にしてしまうことで「うた」を感じてしまう楽曲というのは、やはりあってしまったりする。そのことに、自分自身いくらか驚いてもいるのですから。

 あいみょん、の「NOT OK」というやつ。なんでもリリースされたばかりの新曲だそうですが、そもそもその「あいみょん」という歌い手なり、アーティストなりについて、こちとらほとんど何も知らない。少し前に出てきて、若い衆世代にはかなり支持されているらしい、という程度で、もちろん個々の楽曲がどうこうでなく、単に名前が名前なので、この60代老害化石脳の片隅に残っていたにすぎません。だからもちろん、その顔もかたちも経歴も、その他それなりに名の知られたアーティストなら言わずもがな、そうでない有象無象「インディーズ」界隈であってさえも、いまどきの情報環境のこと、ささやかな感想や印象、批評まがいのあれこれに至るまで玉石混淆、広大無辺なweb空間にはいくらでも転がっていて、拾う気にさえなればいくらでも拾えていたはず。にも関わらず、たまたま耳にしたその楽曲にまつわる「情報」はほとんど何ひとつ、事前にインプットされてはいなかったのであります、それはもう、実に見事なまでに。


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 何の予備知識も情報もないまま路上で、街角で、「不意打ちのように」出喰わしてしまう、それがいいんだ――かつて浅井愼平が、ビートルズを足場にしながら「流行歌」の本質について語った、あの至言。ああ、まさにそのようにいま、この21世紀は令和の本邦いまどき情報環境においてもなお、何らあらかじめの知識や情報もないままに、ただそのものとしての「うた」とうっかり出喰わしてしまうことはあり得るらしい。それは、かつてあった世間一般その他おおぜいにとっての歌謡曲や流行歌とのつきあい方への、まさに「不意打ちのような」原点回帰だったかもしれません。

 中島みゆきの「悪女」を最初に耳にした時の、あの感覚。あるいは、椎名林檎の「NIPPON」や、サンボマスターの「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」などに、初めて出喰わした際の、いずれすでに遠い日のひとコマになってしまった気分の記憶――耳に響いてきたその「NOT OK」は、これまで生きてきた中の、そのどこかで聴いていたような、あんな曲、こんな歌の記憶が一気に、時空の理路を越えてモザイク状に噴き出してくるような、忘れかけていた感覚を喚起してくれるものでした。

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「歌謡曲ぽい」
「80年代のポップス的」
「フォーク世代にはたまらない」……

 その「NOT OK」、広報・宣伝プロモーションの惹句や断片の類は、まずこんな感じ。なるほど、敢えて「ちょっと古め(に感じられるような)の音づくり」に振った仕上がりになっている、ということか。だから、この老害化石脳の耳も、そして生身も、うっかり何か感応させられてしまったのか。

 いまどきの商品音楽のこと、表に見えているアーティストひとりが曲づくりの全てを引き受けているはずもなし。そのアーティストの固有名詞をいわばキャラクター商品として、その背後で支えるチームワークによって可視化し、現前化させてゆくプロジェクトとして粛々と仕事を進めてゆくことが昨今の、いや、もうずいぶん前からすでに、世間一般その他おおぜいへ向けて開かれたこの市場において競争力ある商品として流通させる楽曲制作のルーティンになっているそうですから、いま、たまたまこの身に訪れたそのやくたいもない感慨もまた、あらかじめ市場との間で狙い定められ、設定された「想定内」「思惑通り」の反応のひとつ、にすぎなかったのかもしれませんが。


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 しかし、さはさりながら、です。

 好きであれ嫌いであれ、あるいはもっととりとめないココロの動き、イキモノとしての単なるはかない情動の一端であったとしても、それが他でもない、この自分自身の生身に宿ったかけがえのない感覚ではあったはずなのに、あ、でも、これはきっとそう感じさせられている、思わされているものなのかもしれない、とも同時に考えてしまう。これは、さて、いったいどういう理由からなのだろう。

 音楽のような、あるいはマンガでも映画でもいいですが、いずれかなり純粋に好き嫌いの領分、しかもそれこそ個人の趣味や道楽といった範疇にある、日々の暮らしの具体的な「用」からはひとまず遠い「余暇」「娯楽」の対象だからそうなるのか。あるいは、もっと日々の何でもない商品の選択、ふだんの食いもの、それこそコンビニの棚に並ぶおにぎりや惣菜、飲み物なんかだと、さて、どうだろう。自分がよしと思い、選択したその判断のいちいちについて、本当にこれは自分の選んだものか、自分のココロに従った選択なのか、といった、しちめんどくさい留保をつけることなど、普通はまずしていないはずです。

 「用」に従うのがあたりまえ、それ以上考えることのない部分で、概ね日常は動いています。そこにも当然、あの「広告・宣伝」のたてつけ、からくりが浸透しているということは、理屈としては知ってるし、わかるのだけれども、でも、そのことを格別に意識するような局面というのは、日々の流れの裡にはまずない。むしろ、日常を律している「用」から遠ざかるほど、それはその輪郭をくっきりさせてくるものらしい。つまり、あってもなくてもいいようなものにまつわる場合にこそ、そのような留保はうっかり姿をあらわにする、と。

 よろしい。ならば、そのあいみょんの「NOT OK」に、かつての「うた」の記憶をうっかり引き出されたかに感じた、その極私的な理由というか契機についても、少し立ち止まって留保してみます。

 まず、それはどうやら歌詞、ことばを介してのことではなかった。それは間違いない。このへん、これまでの商品音楽についての「批評」「評論」の類が、文字/活字ベースの情報環境を前提にした文法で成り立ってこざるを得なかった経緯がある以上、良くも悪くもそれら音楽の上でのことば、つまり「歌詞」に引きずられて考えてしまうところがあったのを思えば、ちょっとした発見ではありました。

 というか、そもそもいまどきの音楽自体がもう、音というか音響、音声という属性にきっちり紐付けられたものになっているわけでもないらしい。いまや音楽は音楽としてだけ存在しているわけでもなく、映像などと併せ技の「コンテンツ」に含み込まれている、ひとつの要素になっている。それは、文字/活字を介したことばと同じように、耳や眼、生身の五感を介して「自分」という「場」に収斂してゆく〈いま・ここ〉の〈まるごと〉の体験の裡にあるものであり、その意味では、個々に音や映像、あるいはことばなどのそれだけを取り出してあれこれ賞翫するような聴き方、見方、読み方自体、もう衰え始めているようにも感じます。

 〈いま・ここ〉の〈まるごと〉でしかなかった「場」から、音を抽出して記録する技術が発明され、その媒体は商品になり、同じく映像もまた、スチールであれ動画であれ、記録できるようになった結果、これまた媒体を介しての商品となり、それぞれ独立した「音楽」「写真」「映画」といったラベルを貼って分類した上でつきあうようになっていった、それが概ね19世紀から20世紀にかけての経緯だったとするならば、デジタル化技術の進展は、それら個々につきあってきた、記録された音や映像を再び〈まるごと〉の「場」に再編制してゆく、そんな方向にわれわれの現実感覚、〈リアル〉のたてつけを変えていっているようです。

 音と併せ技でしか、ことばは「うた」にならない。「うた」というたてつけにおいて、ことばが意味をはらんでこちら側、生身の耳もとにまっすぐ届いてくるためには、そのことば自体の音声としての属性も含めて、「音」という要素がそこに付与されていなければならない。そのことをもう一度、知らぬ間に思い出し、再び気づかされるような情報環境に、われわれは生き始めているらしい。

 だから、文字のままでは、ことばは「うた」にならない。というか、そもそも文字/活字は、それら「うた」としてのことばをたまたま定着し、記録しただけのものである、というのが、ことの本質でした。「うた」はあくまでも〈いま・ここ〉の現前であり、だからこそ生身に宿る〈リアル〉である。どんなに情報環境の膨張、伸長に伴い、そのありようを変えていったとしても、その初発の場所は常にそこにしかない。「うた」はどこまでも、その「場」に存在し、臨場している生身の裡にまず最初に宿るものである、と。そのように考えれば、いまどきのデジタル化の進む情報環境というのは、逆説的にもう一度、われわれの〈リアル〉を、「関係」と「場」の織りなす〈いま・ここ〉に引き戻してゆくように働く部分もあるのかもしれません。


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 とすれば、です。

 音との併せ技だけではない、もしかしたら広義の映像、視覚情報との併せ技、という面も、「うた」におけることばのあり方としては、考えねばならない。「うた」としての〈まるごと〉を現前化させる際の、その「場」を成り立たせる要素のひとつとして。

 商品音楽に関して言えば、たとえば、あのプロモーション映像――PV、最近だとMVとも呼ばれるやつが楽曲にあたりまえにくっついてくるようになって以降、つまりラジオを、あるいはジューク・ボックスやポータブル・プレイヤーなどの機器を介して、楽曲をそのものとして耳にするのでなく、動く映像と共に消費するようになってこのかた、そのような併せ技の〈リアル〉はあらためてわれわれの日常感覚の中で、ぐっと前景化してきたはずです。

 音楽とはそのような映像と共に、単なる楽曲としてではなく、また別の表現として体験し得るものだ、ということを初めて意識したのは、もう40年近く前、縁あって北米の大学に出向いていた時期、アパートに居候させてくれた大学院生の部屋にあったテレビで見たMTVでした。番組自体、まだできてそれほど間もない頃だったはずですが、専門局で24時間(だったと思う)ずっとPVを流し続けるのは鮮烈で、何より英語の会話がおぼつかない身にとっては絶好の暇つぶしになって、かなりハマりました。マイケル・ジャクソンやマドンナはもとより、エアロスミスやボンジョヴィやプリテンダーズ、ブルース・スプリングスティーンなどの当時、彼の地で流行っていた楽曲を耳にすると、今でもそのPVの映像が必ず鮮明に脳裏によみがえる。楽曲自体の媒体としても、レコードからCDに移りつつある時期でもありましたが、音楽そのものを楽曲として聴くのはそれら媒体の再生機器を介してという手続きは変わらずとも、テレビの画面を介してMTVのPVとして送られてくる映像つきの楽曲が、いわば「もうひとつの音楽」として耳と眼との併せ技で生身に送り込まれるようになり始めた、思えば、そういう「コンテンツ」消費の黎明期でもありました。


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 ことばが単なることばとして、日常の「用」をたし得る程度の「道具」としての条件を最低限満たす意味のやりとり以上の、何らかの膨らみや発熱にたとえられるような生身の躍動、充実に関わる媒体になるための条件として、さまざまな伴奏やお囃子などから、ことば自体のはらむ音声としての領域も含めての「音」一般、さらにそれらと複合しながら眼から入力される光景としての視覚情報なども含めての〈まるごと〉として、「うた」が現前し得る「場」には必要になってくる。

 思えば、歌謡曲や流行歌と呼ばれるそれら商品音楽の歌詞から、意味がどんどん引き剥がされてゆくような過程もありました。桑田佳祐サザンオールスターズが典型的にやってのけたこととして語られるようになっていますが、おそらく彼らだけの手柄でもなく、まさにそういう時代、同時代の気分と抜き難くからんだところで現前化していた現象でした。「うた」としてのことばの意味から乖離させてゆくようなあの創作作法は、彼らのその上演も含めての成果だったことは明らかで、でも、その桑田とサザンもある時期以降、もう、そのような意味を引きちぎってゆくような上演ができなくなってったあたりも含めて、聴き手の側の「聴く」感覚の転変なども含めた、本邦の音楽をめぐる環境の変貌を思わざるを得ません。


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 あるいはまた、別の例。

 早逝した今敏の映画『パプリカ』で使われていた平沢進の「パレード」の、すでによく知られているあの破壊力。あれは、おそらくそれこそ手術台の上のミシンとこうもり傘みたいなもので、その組み合わせにおいて初めて現前化したものでした。


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 発声され、歌われる歌詞としてのことばは、耳から入ってくる限りはほぼ意味をなさない。そのようにしか聞こえないし、また、そのように意図して作られた歌詞でした。そのあたりは、桑田とサザンが達成した、意味からの離脱という流れを継承した表現だと思いますが、ただ、それを文字に起こしてみると、それはそれ自体で「うた」の気配を漂わせてはいるものの、さらに映像との併せ技で全く別の飛躍的な破壊力を獲得して、全体として新たな「うた」、楽曲単体で喚起される感動とはまた別なものになっている、そんな印象でした。意味から遠いことばが、映像との併せ技で音として混然一体、上映されるその「場」における〈まるごと〉として「うた」と化している不思議。文字化されたことばとしてのその歌詞そのものも、別の意味での「うた」として読める内実を備えているのに、それが「コンテンツ」としての裡に溶け合わされることで、また異なる「うた」に転生している、と。

 でも、これは今の時代ならではの新しい事態というわけでもない。たとえば、かつての本邦常民たちの耳にとってのお経なども、おそらく同じこと。読経され、唱えられていることばとしての経文の意味など、その場でほとんど伝わらずとも、音とリズム、声調その他がまずありきだったわけで、その上にそれが流れる上演現場の環境、眼に映る光景などが併せ技になって初めて、その場に臨場する生身の裡に立ち上がる何ものか、それこそが読経されるお経の、「うた」としての本体だったはず。それは、文字化された経文の意味内容とは、また別の内実です。


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 さらに言うならば、その眼に映る光景というのも、必ずしも実際に眼球を通して網膜に映し出される眼前の光景だけでなくても構わない。脳内網膜に想起され立ち上がる何らかの情報――それをしも「眼に映る光景」として重ね焼きにできるのならばそれはそれ、耳から響く音と複合されたところにいくらでも「うた」はその本来の喚起力を伴い、立派に宿り得る。このへんは、以前から触れている「眼を閉じて聴く」習い性や、黙読と音読によって脳内に想起されるイメージの違いなど、さらに大きな問いに例によって連なってゆきます。


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 ……というわけで、冒頭のあいみょん、いまどきの情報環境の恩恵をありがたく受けて、ちょっと検索してみたら、あらま、何のことはない、NHKの連続ドラマでついこの間までテーマソングを歌っていたくらいのいまどき第一線の売れっ子アーティストなのでした。と同時に、「NOT OK」の歌詞をあらためて検索、確認してみたのですが、文字として読みとれるその「うた」の内実は、なぜか、トレイシー・チャップマンの「FAST CAR」がきれいに二重写しに見えてくるようなものでした。これはこれでまた、いまどきの「うた」の、一筋縄ではゆかなくなってるありようならではの不思議、ではあります。


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*1

およげ!対訳くん: Fast Car トレイシー・チャップマン (Tracy Chapman)


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*2
*3

genius.com

*1:かつて、リリースされた当時、MTVで流れていたビデオクリップは、これとはちょっと違っていたような気はする。道路を走るクルマのタイヤがずっと空しくワンショット固定で流れ続けるカットが、リフレインのように何度も印象的にさしはさまれていて、モノトーンの沈んだ色調と共に、とても鮮烈だったのだが……なにせ記憶ゆえ、アテにはならないとしても。

*2:矢井田瞳のこのカバーが、邦訳歌詞含めて絶品なことは、自分もかつて言及していたのだが…… king-biscuit.hatenablog.com 上掲の対訳サイトで全く同じ感覚で評価する向きが自分以外にもおらすことを知って、まさに「我が意を得たり」(古いか)になったものだった。

*3:あいみょん矢井田瞳と生い立ち背景その他の共通項があるように思うのだが、そのへんはまた別途、機会があれば。