タフな外部とことばを交わし、そのことで変わってゆく自分もあるかも知れないことを信じられないどん詰まりフェミニズムたちよ!!

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 『クレア』誌の仕事で、小倉千加子にインタヴューする ことになった。フェミニズムの功罪を女性誌の視点から考 え直すという特集企画のひとつだという。当然、彼女の書 いたものはもちろん、取材記事やちょっとしたコメントに 至るまで、山のように手渡され、そんなこんなで机のまわ りは怪しい色づかいの装丁のフェミニズム本が散乱。 しか し、あのテの本ってなんでああいういかにもの色やデザイ ンになるんだろう。 紫やらピンクやらの毒々しい色づかいで、デザインにしてももう少しなんとかならんかい、と言 いたいものばかり。 センス悪いぜセンスがよ。

 まぁ、仕事は仕事。 さすが文芸春秋社、資料の物量戦で 書き手を攻めたてるあたりはなかなか、などと青息吐息で 感心ばかりしていても始まらない。 仕事を口実にしないことにはなかなか勉強できないタチのおいら、この際とばか りに逆手に取ってフェミニズムの総まくり、受験勉強なみ のガチ勉をやらかしてみた。 オバタカズユキが横で例によ ってのお家芸、『クレア』 名物WHO'S WHOノリでフェミニ ズムの絵解きに
七転八倒していたのも幸いした。 こんなことでもなきゃ、そんなもん短期間に仕込み勉強する気なん かおこりゃしないもんね。

 その結果。 一夜漬けならぬ半月漬けばかりでひとまずわかったことはこうだ。 思想としてのフェミニズムは、 やはり80年代に確かな問題提起をしている。このことは間違いない。 それは、今や諸派入り乱れての内ゲバ寸前状態 になっているらしいフェミニズム内部の元気の出ないいが みあいを別にしても、全体の流れとしてそこに宿らそうと していた問題意識の重さについては切実なものであったと いうことは認めることができる。 だがその一方で、偏見抜きにしてここはどうもわからない点なのだが、そこまで短 期間にある流れを作り、世間に向かってある問題意識を定 着させてゆこうとしたその過程で、 自分たちが世間からど のように意味づけられてつつあるのかという点についての フィードバックがあまりに甘いんじゃないか、ということ、そしてその理由はなぜなんだろう、ということがとても気 になった。 先回りして言っちゃえば、 これって、上野千鶴子の問題だぜ。 上野が飛び回り、看板になり、市場を作り、 普及にこれ努めてきた商品としてのフェミニズムが、それ から先どのような射程距離で手もと足もとの実践に還元すべきプランをもっていたのかいないのか、という問題なの だ。 ハナッからなんもなかったのなら、おいら怒るぜ。

 で、小倉千加子に会った。 事務所だかなんだか知らない が、マネージメントのようなことをやっている♀編集者の仕事場があって、そこに来て欲しいというので新大阪まで のこのこ出かけた。三時間近く話を聞いた。 どっぷり落ち 込んだ。何に、って、そりゃあんた、一度会えばわかるよとしか言いようがないようなものなんだけど、それじゃ不親切だからここはおいら頑張ってことばにしようとするぜ。 うーん、そうだな、 「あんたはそのままでいいんだよ」 と 言ってもらえる場所がガッコの中 (心理学)と劇団青い鳥 しかなかったフリーク (デカいのだ。 比喩でなく一種異様なデ カさなのだ。 身長178cm 体重100kgのおいらがこう言うということ を考慮していただきたい)の外部なき中年女がだよ、本当に 自分を思い知ることをしないでいい関係でぐるりを取り巻 いてもらってそれで商品になれていて、なおそういう自分 に多少は疑問を抱き始めてるくせにそれを認めたら全部世 界が崩壊しそうなもんだからじっと背中丸めて暗くなって る状態なんてのを眼の前に見せられた、そういう場面を想していただきたい。これが単においら個人の偏見じゃないらしいことは、帰路、 同行した編集者ふたりひとり ずつ)にカメラマンひとりも一様にドツボにはまっていた ことからもわかる。 中でもカメラマンのM氏曰く、「あの 人、死ぬ前に絶対後悔しますよ」

 どだい、ヤツらタフな相手と手応えあることばを交わし た経験がないし、そのことについて今でも腰が引けてるのだ。上野千鶴子は別だぜ。立場の相違は超え難いにしても、 フェミニズムを取り去ってなおヤツが同時代一流の知性であることは、おいら認める。でも、その他はことば本来の意味での対話については大なり小なり後ろ向き。だいたい、 フェミニズム系の雑誌なんてのに登場する 「若い」男を見 てりゃわかる。 大塚英志やら泉麻人やら、せいぜいが山崎浩一だろ。 ヤツらが安心してその眼の前にいることができ、 しかしそのことによって最も正面から受け止め、 ことばにし、投げ返さねば何も始まらないような種類の抑圧をほとんど受けなくてもすむような、そんな種類の男しか招かれ てないのだ、フェミニズムという女子校の同好会の部室には。それで「乱暴な男よりフェミナイズされた男の方がいい」と言っても、そりゃ手前勝手ってもんだぜ。

 もちろん、そうでもしないことにはきちんと自由にもの を言えない状況というのがあり、またそういうタチの人間 がフェミニズムを志向してきたという現実もある、ということは積極的な意味も含めて理解できる。 でも、それって、思想を構築する立場にある者としてはやっぱ脆弱じゃない の? ってこともまたきっちり同等に言っていいはずだし、言わねばならないはずだ。 たとえば、たけしや山城新吾や 西部邁をも(彼らはただの「オジサン」ではない!) 転向させ 得るようなことばを、フェミニズムは未だ持ち得ていない し、もっと言えば持とうとする形跡もない。

 弱者の想像力というものがある。確かにある。 これまで ことばなど持っていないと思っていて、内面などないもの とされていた存在がある日、突然ことばを持っていたこと がわかる。 その恐怖はリアルなものだ。 気づかなければよ かった、というのが本音の近代というのもある。だが、も う後戻りはできやしない。蓋はあけられちまったのだ。 だとしたら、もっと別の枠組みを共に、本当に手を携えて作 らなきゃならないこれから、ってのだって絶対にあるのだ し、いいかよく聞けよオマンコども、フェミニズム内部の 問題としてもおいらもうそういう時期だと思う。そしてそれは、意味ない排除や植民地主義の視線で「これまで」を、 より具体的には「オジサン」や「近代」を頭ごなしに差別 し、自分と関係ないことばで吹け上がっているだけでは何も始まりはしない、という認識を共有することからやらねばならない。

 それにしても、やっぱおいら、いわゆるフェミニストに はなれないらしいや。 昨年 『別冊宝島』 の 『男が危ない!』 での尊敬する平岡正明兄ィとの記念すべき対談「キンタマ のない奴はものを言うな!」 *2 以来フェミニスト方面からは どうやら真剣にキチガイ扱いされているらしいし、「きっ とああいう人が痛くするんだ」などとわけのわからないこ とまでささやかれているのも聞こえてきてはいるがしか し、フェミニズムが提示しようとしてきた問題のデカさに ついては、単に男や女といったところを超えて理解しているつもりだ。でもな、同時に、それを「フェミニズム」と いう言い方で全部頑固にくくりきってこの先ずっとやり過ごそう、なんて横着は考えてないぜ。

*1:『俄』49 掲載原稿。

*2:king-biscuit.hatenablog.com