で、あんたの「立場」って、なんなの?

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 三年前の参院選アントニオ猪木が出馬した時、戦後選挙史上最高の無効票が出た、という話がある。

 フォークロアかも知れない。だが、だとしても、今のこの国の置かれている状況についての、ある切実さを感じさせる話として、僕は忘れられない。

 猪木自身が選挙運動を通じ、「猪木」ではありません、比例代表区ですから「スポーツ平和党」と書いて下さい、といくら訴え続けていても、「イノキ」としか書けない、書こうとしない、おそらくは“若い”というだけの連中が投票所に押しかけ、予測もしなかった無効票の山を作り出した。その事実の可能性に、僕は自分でも始末できない感情をもてあまし、立ち止まった。おのれの判断停止の言い訳に手垢のついた民主主義の題目を護符のようにそこら中に貼りつけ安心する評論家たちのように、それを何か「若者」神話と重ね合わせて脳天気に解釈することは到底できず、といって、皮肉に口もとゆがめた新・保守主義者たちや、そのうわずみの批評的雰囲気だけをかっぱらって茶化す同世代の八〇年代病患者たちのように、“その他おおぜい”の馬鹿さ加減をあげつらい冷笑することにも居心地の悪さを感じ、言いようのないクソったれた気分で、立ち止まった。

 それはずっと“その他おおぜい”だったものが、たとえ勘違いであれ、何かを期待した瞬間だったはずだ。あの猪木が国会に行くことで何かが変わるかも知れない、と彼らは思ったはずだ。どう変わるのか、いや、それ以前にどのように変えたかったのか、ひとりひとり胸ぐらとっつかまえて尋ねてみても、何ひとつまともな言葉は帰ってこないだろう。それはもちろんその程度のものでしかない。その程度の“その他おおぜい”がうわついて、考えなしにひと騒ぎしただけのことだ。 だが、それはその程度のものでしかないということをその“その他おおぜい”にきちんとわかるように教え、諭し、そこから先、ひとかどのものにしてゆく手立てを手ほどきしてゆこうという世間は、全くなかった。その程度の、それまで何の準備もされず放ったらかされたままだった“その他おおぜい”がその放ったらかされたままでうっかり投票所に来てしまい、あわや一票を作り出してしまったかも知れない、という事実が眼の前にあり得ることに、こりゃまずい、と思い、真剣に引き受けようとした大人は、当の猪木自身を含めて、この国にはいなかった。

 “その他おおぜい”が“その他おおぜい”であることの証しは、自分のやっていることを自分の言葉で説明できない、しようとも思わない“一般的な気分”である。それは「みんな」というもの言いに象徴的に託される。「みんなそう思ってるんだから」「みんなやるんだから」――こういう時の「みんな」は、自分も含めて単なる“その他おおぜい”であることに居直るための“一般的な気分”を引きずり出す呪文(コピー)だ。しかし、“一般的な気分”しかないから、この「みんな」に立場はない。立場はないが感情はあるし、感情があるからなんだかわからない自分はある。なんだかわからない自分があって、それでも立場はなくて、で、それが“一般的な気分”という根拠だけで動くとどうなるか、というのはもう壮大な無責任しかなくて、それは三年前の参院選で実験済み。今や都市だろうが農村だろうが、若い衆だろうが年寄りだろうが、男だろうが女だろうが、その立場なき“一般的な気分”だけがこの国を覆い尽くしていて、“一般的な気分”でしか動けない巨大な“その他おおぜい”たちが、一億二千万個のさめたタコヤキのようにくっつき合う。

 それでも選挙はあるし、そこで投票率が伸びなければ、新聞もテレビも一律に何か悲しむべきことという調子で報道する。評論家は数字のメカニズムに忠実な機能主義者に徹し、ニュースキャスターは「有権者の無関心」を型通りに嘆く。「若者」の選挙離れを憂慮した選管は、今やイベントがらみで投票を訴える。だが、投票率が上がれば、「イノキ」としか書けない“その他おおぜい”がやってきて、うっかり一票の力を行使する。タレントやミュージシャンに頼ったちゃらけたイベントがらみで選挙に来させた結果のその程度の一票が、その程度のままで一票の力を行使する。“その他おおぜい”しかいなくなったことを放ったらかして、ただ投票率をあげればいい、人を集めればいい、という広告代理店並みの態度。そんな人をナメた詐欺をやらかしてて、都合の良い時だけ「民主主義」を持ち出してくるなどちゃんちゃらおかしいやい!

 それは、文化祭めいた幼稚な催しものによってだけ“その他おおぜい”を集め、そしてそこから先、確かな立場を作る手立てもないまま何かやったつもりになろうとする昨今の「運動」のみっともなさにも通じている。あんたら、演歌歌手を呼んで弁当配ってジイさんバアさんの票をかき集めるオヤジ代議士と、まるで同じことやってんだぜ。いや、選挙なんてそういうものだ、勝負はバッジをつけてからだ、という信心に根ざした確信犯でない分、オヤジ代議士よりタチが悪い。それこそがこの国の「民主主義」だ、その手続きの果てにあるものこそがこの国の「民意」だと、本当に正面から言い、そのままに引き受けるだけの目算と覚悟があればそれもいい。だが、そういう“その他おおぜい”以外の立場というのもあり、それは“その他おおぜい”のままでいては身にしみることもない言葉によって編み上げられているものかも知れないということを静かに考えることもできないただ“若い”だけの“その他おおぜい”は、おのれの馬鹿に根拠なく開き直り、どんどん醜くなってゆく。今、題目は何であれそのような「運動」に携わると人間顔つきまでおかしくなってみっともなくなり、揚句の果て友だちまで失くしてゆくのは「宗教」と同じ、この自分の持ち場、分際をわきまえない傲慢のせいであり、その傲慢が立場抜きの“その他おおぜい”に自閉して全然恥じないからだ。そういう“その他おおぜい”が横並びに牽制しながら互いに不自由を増幅し、“一般的な気分”以外の可能性をどんどんなくしてゆく。

 「選良」という風化しきった言い方がある。どう思おうと選挙とは群を抜く「選良」を選び出す仕掛けである。だが、それがどのようなものであれ“群を抜くもの”を作ってゆく仕掛けにガタがきて、しかも“その他おおぜい”の方もそれをきちんと支え、分わきまえた言葉の批判力と共に仰ぎ見ることもできなくなった社会が、なお「民主主義」の看板を掲げようとするのは不遜であり、ありていに言ってあつかましい。いくらよそからの借りもので、そしてそのまま古びさせてしまった道具であれ、その間本当に手入れをしてやっていたのか、自分たちの間尺に合うよう手直ししようとしたのか、といった問いは同時に残る。その問いすら“一般的な気分”任せにしてしまって恥じないのなら、それはもうそんな道具どころか、道具で関わることのできる現実すらこの“その他おおぜい”たちはいらないってことだ。

 百歩譲って、まぁ、いつの時代もそんなものだとしよう。じゃあ、その“そんなもの”と今・ここでわかった風に言うあんたは、この先この国のどこに足つけて、どんな“立場”を作ってくつもりなのさ。“一般的な気分”だけ“その他おおぜい”のままでは未来を選べないことを、親身になって意見し、テキが聞く耳持たないにせよ何とかしようと腰あげねばならない立場にいてしまった者まで、同じようにその“一般的な気分”に足とられ、うずくまったりハスに構えたりしたままってのが、僕はシャクにさわってシャクにさわって仕方ない。あんたら、よくそれでいっちょまえに本読んだり、難しいこと考えたり、人前で能書きこいたりできるよなぁ。おいら、人間そういう横着のままでいられるってのが、ほんッとに信じらンないんだわ。

*1:朝日ジャーナル』「書生の本領」連載原稿。

*2:のちに再論というか、さらに大展開したことがある。こちら(´・ω・)つking-biscuit.hatenablog.com