たけし、を葬る論理

 ビートたけしの「事故」をめぐる報道のさまは、彼がどのようにマスメディアの中でその影響力を行使しているかが如実にわかるものでした。それは彼自身が意図したものであるかどうかはわかりませんが、少なくともビートたけしという存在をめぐるマスメディアの政治のからくりは、どうやら相当に病んだところにまで来ているようです。


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 かつて、彼とその一党がかの『フライデー』編集部にからんだ時、マスメディアの世間は「暴力はいけない」というタテマエの下に糾弾しました。だが、あの「事件」にしたところで、しょせんは「弟子」と称する程度の低い連中との貧しいもたれ合いの中、酔っ払った勢いでしでかしたものに過ぎなかったはずです。しかも、もとはと言えば自分がつきあっている女子大生との関係がバレそうになってのこと。それでも、「シャレ」で通るかも知れないような程度のことにしておく悪知恵はあったようですが、その彼をことさら「暴力」のイメージの下に肥大させたのは、他でもないマスメディアでありました。


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 今回の一件などはさらに報道するにも足らないもの。またも酔っ払ったあげくに手近にあった原付(どうして「ミニバイク」なんて中途半端な言葉を使うのでしょうか、あれは正しく「原付」です)を乗り回して自分で大けがしたというだけのことです。これはもう高校生どころではない、中学生の悪ガキの所業。いやはや、お話にもなりません。

 先日の『TVタックル』で、言葉のファシズムと運動のリアリズムといったあたりをめぐって田嶋陽子嵐山光三郎が珍しく一触即発、この種の見世物として久々に面白い局面があったにも関わらず、仕切り役のたけしは事無かれで横向いたまま。本当に切れば血の出そうな言論の局面では使いものにならない小心ぶりを露呈していました。そんな彼を疑似言論人としてもてはやしたマスメディアの責任は、そろそろ問われるべきでしょう。(由)