テレビに言論は不要だ

 

 テレビもまた、新聞や雑誌といった活字メディアと同じように「言論」機関であるべきだ、という田原さんの主張、これは、あらゆるメディアは「言論」機関たり得る、という意味において、総論として支持します。

 ただ、テレビが本当に「言論」機関として機能するためには、たとえばこの国の大衆社会のありようを考慮しなければならないでしょうし、テレビにおける「論評」や「批評」とは活字とは異なるどのような仕掛けの上に宿り得るものなのか、ということも考えねばならないでしょう。その意味で、留保は膨大につけねばなりません。

 何より、いかに正論であれ、『朝まで生テレビ』の仕掛け人の田原さんが言うのは、ちと違う色もついてしまいます。作る側がいくら「言論」のつもりで肩に力入れても、それをきちんと「言論」の「質」において評価し、批評する場も関係も保証されていないところでは、そんなものただの「お笑い」にしかならない、という現実だってこの国にはいくらでもありますし、もっと言えば、その「お笑い」と見る「批評」の力こそが、活字ならざるテレビにとって最も大きな「言論」の源泉になりつつあるのかも知れない。第一、今のこの国で、テレビに「言論」であることを求める人が果たしてどれくらいいるでしょうか。テレビが「言論」機関であることが必要だとしても、それを振りかざすのが作る側だけなら、そんなもの単なる一人よがりに過ぎません。

 テレビにも、この国の文字をめぐる歴史がからんでいます。いやしくも文字にして書き残す時には何らかの整形が慎重に施されねばならないし、そのための技術も必要である、という形式への執着。それは、口語文の浸透によって「事実」という枠組みが文字の中に発見されてゆくにつれて否定的なものになってゆくのですが、このような広い意味でのメディアの歴史、情報環境の社会史をゆっくりほぐしながら考える構えがないと、テレビをめぐる問題に本当に答えることにはならないでしょう。

 それは、『朝まで生テレビ』も結局は見世物としての「言論」でしかない、というテレビの現実についての貸借対照表を田原さんご自身がどうつけられるか、ということでもあります。だって、ささやかな体験も込みで言わせてもらえば、あの『朝まで生テレビ』の場って、少なくとも活字のものさしでいう「言論」の場なんかじゃ絶対にないですもん。活字のものさしとは別の、テレビ固有の「言論」や「批評」のありようについて議論できる、そんな枠組みを作ることがまず先決だと思います。