「ポチ」の魂

 小泉首相以来、政府を「ポチ」と揶揄する向きがあります。アメリカの政策に何でもかんでも追従、まるで犬がしっぽを振るように媚びて見せるから、という皮肉が込められているようですが、安倍首相もまたこの「ポチ」路線として見られている。忠犬ニッポン、果たしてそれでいいのか、と。

 対米独立、民族自決、というなつかしいスローガンを思い出します。心意気は頼もしい。ただ、それはそれとして、現実的な問題としてそのような人たちはならば、日本のどのような「自立」を想定しているのでしょうか。安全保障は? エネルギー問題は? 食糧輸入は?……素人がちょっと考えただけでも、日本が日本という国だけで「自立」する、ということはそんなに単純じゃないことがわかる。また、同じ人が政府を「ポチ」と揶揄しながら、「地球市民」で国境を越えた連帯、も呼びかけたりするから、事態はなおのことややこしくなったり。

 親米=「ポチ」と言いたがる人たちは、アメリカという父親に反抗する青年、という自意識を未だに持っているように見えます。それは近代このかたの「個人」という物語が下敷きになっているのでしょうが、しかし、国家の「自立」は個人のそれとはまた別。いつまでたってもアメリカを父親としてしか見ない、見ることのできないこともまた、青春期の不自由。戦後六十年以上たつのに、自分たちの国に対して未だ「若者」という自意識しか持てないのだとしたら、それもまた情けない。ああ、そう言えば、お隣にもそのような頑なな「自立」を主張する国がありましたっけねえ。