遠い「日本」、のこと

 盆踊り、らしい。質の良くない、いまどきもうあまりなくなったかも知れないようなラウドスピーカーから、笛と甲高いつくりものらしい子どもの声によって主旋律が構成された音楽が、繰り返しループで流されている。夏の黄昏どき。湿気が地表近くによどんでいるものの、北海道だけにそれはどこか大陸的、でもあるのだが。

 喫茶店で一服しながら、サイードの批判を繰り広げる渡辺京二を読む、という場にこの背景。これが日本、二十一世紀の東洋、日本の現在。

 「伝統」とは何か。「文化」とはどのように持続しているのか。「伝承」とは、「民俗」とは。そんな昔なつかしい問いがまたよみがえっている。

 アタマの悪いガクモンとしての民俗学。トラクターは民具か否か、民俗の「消滅」というのは本当か、いや、「消滅」ではない「変貌」なのだ、というのが、そう主張する御仁の信仰告白でしかない、ということを、思えば四半世紀前、何も知らない名前ばかりの大学院生の頃にすでに、直感的に感じていた。感じて、違和感を抱いていた。

 鈴木忠志が「身振り」の中の「伝統」を抽出してみせたことにも、どこかで違和感があった。畳と障子、すわる生活、たくあんと飯……そんなアイテムが当時すでによそごととなっていたことを改めて。

 「日本」は遠かった。いつもどこかよそよそしかった。けれども、何かのはずみでひょい、と「日本」が顔を出す。